99:追憶
「レオン。何か心当たりがあるかい?」
ヘルフリートの問いかけに、レオンは少しだけ迷ってから答えた。
「俺の体に術が施されている。関係があるかもしれない」
「見せてもらっても?」
レオンは頷いて上着を脱いだ。あらわになった左胸の黒い紋様に、ヘルフリートは眉を寄せた。
「確かに古代王国の魔法陣だ。この技術が現存していたなんて」
「封印との関係は?」
「ちょっと待ってくれよ」
ヘルフリートは顔を近づけて紋様を見ている。クロエは目のやり場に困り、封印の扉を眺めていた。
「ちなみにこの術、どんな効果が?」
「呪いだ。セレスティアへの復讐心を強制している……と思う」
「呪い?」
ヘルフリートは紋様の文字を指でなぞり、首を傾げた。
「拘束の一種だとは思うけど。でも、これはどちらかというと……」
「何だ。はっきり言ってくれ」
「保護だよ」
ヘルフリートは言って、ようやくレオンから少し離れた。
「偽装とか目眩しと言ってもいいかもしれない。きみの血を隠すために施されたんだろう。エレウシス王家の生き残りがいると明らかになれば、狙われるだろうから」
「…………」
レオンは目を見開いて絶句した。
「救世教の大司教は、精霊の封印が解かれたと知っていたわ」
ヴェルグラードの訪問を思い出しながら、クロエが言う。
「私の中に世界樹の種があるのも気づいていた。それなのに世界樹の守り人の話は一切しなくて、不自然だと思っていたのよ。もしかして、その目眩ましのおかげで見つけられないでいた?」
「可能性は高い。大司教とレオンは会ったことがある? 体が触れたり、会話はした?」
「私の護衛騎士として顔を合わせているわ。会話はしていないわね。触れるのはもちろんない」
「なら、保護が有効だったと考えるべきだろう。救世教の使う技術や魔法は詳しくないが、精霊探知は得意と聞いている。何せ彼らにとって滅すべき敵だもんね。精霊と結びつきの強い守り人の存在も、そのままであればすぐにバレたはず。間違いない、この魔法陣はレオンを守るものだよ」
ヘルフリートがぽんと肩を叩くと、レオンの瞳が揺れた。
「だが、これは母が死の間際にかけた術。彼女は俺に復讐をするよう言い聞かせた。生きて必ず果たすのだと……」
レオンの脳裏に馴染んだ悪夢の光景が蘇る。
燃え盛る炎の中、復讐を繰り返し唱えていた母。顔を思い出そうとしても、黒ぐろとした闇に飲まれて面差しが見えない。
炎の熱と暗闇が迫る中で、復讐を唱える声だけが響くよう。意識があるにもかかわらず、レオンは悪夢に落ちる錯覚に囚われる。
蒼白になった彼の手に温かいものが触れた。クロエの指だった。
「レオン……」
気遣わしい声で名前を呼ばれると、痛みも熱も少しだけ遠ざかった。
クロエは迷いながら黒い紋様に手を伸ばした。そっと撫でてくれる。その感触に、レオンは少し目を細めて。
――と。
『ヘリオス』
誰かの声が彼の名を呼んだ。故国を失う前の本来の名を。
周囲はいつしか暗くなり、悪夢の炎が遠くにちらついている。
『一緒に生きられなくて、ごめんなさい。私の顔は、セレスティアにも救世教にも知られてしまっている。逃げても追っ手が来るでしょう。けれどヘリオス、あなたは違う。これから大人になれば、姿が変わるもの。だからあなたは生きて』
白い手が伸びてきて彼の頬に触れた。幼かった彼の小さな頬に。
彼は言い返した。涙をこぼしながら。
『いやです、母上! ぼくは一人で生きていたくなんかありません。父上と母上と、いっしょに死にます!』
『駄目よ。あなたは生きて幸せになるの。守り人の役目も王族の責任も、あなたは負う必要がない。一人の男の子として、ただ幸せに。それがわたしたちの願い』
『いやだ! ぼくを一人にしないで!』
小さい彼は母にしがみついた。困らせると分かっていても、離れたくなかった。
『……ならばセレスティアに復讐を。生きるための目標を』
『母上?』
『いつかあなたが他の目標を見つけられるまで、復讐を念じて生きなさい。父と母と国の無念を晴らしなさい。でも本当は……』
彼女は膝をついて、小さい息子と目を合わせた。
『本当は、そんなのどうだっていいの。あなたの幸せを、わたしも父上も心から祈っているわ』
悪夢の中で見上げた母の顔は、黒く塗りつぶされていた。
けれど今は違う。同じ目線の高さで見る彼女は、微笑んでいた。確かな愛情と別離の寂しさに彩られながら、真っ直ぐに彼を見つめていた。
『さあヘリオス、行きなさい。これからはきっと、辛い時間が待っている。けれどいつかあなたが大人になった時。復讐以外の生きる目的を見つけられるよう、願っているから』
母の手が左胸に押し当てられる。保護の魔法陣が刻まれていく。
祈りとともに。魔除けのムーンローズに似た紋様が。
『さようなら、ヘリオス。その魔法陣があなたの心と体を守ってくれますように。いつの日か守りが必要なくなるくらい、あなたが強くなりますように』
最後に母は息子を抱きしめた。そっと背を押して、彼を送り出す。未来へと。
炎が迫ってくる。過去の全てを飲み込んで、白い灰に変えてしまう。
「父上、母上!」
彼は叫んだ。夢の中の幼子の声ではなく、今の大人の声で。
同時に理解した。呪いだと思っていたものは、彼を守ってくれていた。
自死に向かう心を復讐の念で思いとどまらせ、生きる気力を与えてくれた。
救世教に近しいセレスティア国内で、守り人の血を隠し通して暮らしていけた。
そうと理解した瞬間、黒い魔法陣はほどけるように消えていく。役目を終えた保護者の手が、子の旅立ちをそっと後押しするように。
大事なものを見つけた彼は、もう守られる存在ではない。彼自身の心で選び取り、生きていくと決意した。
目の前に悪夢の光景はもうない。父と母の面影を宿しながら、視界に封印の扉を映す。
ガラスめいた扉に刻まれた古代文字が、浮かび上がっている。学んだはずがないのに、どうすればいいのか分かる。
レオンは指を伸ばして、いくつかの文字に順に触れた。
触れるだけで良かった。血を流す必要はなかったのだ。
青い閃光がほとばしる。扉は開くのではなく消滅した。
『待ちかねたぞ。守り人の末裔よ』
扉の奥から声が響いた。
その先には、両翼に青い雷光を宿した巨大な鷲が待ち構えていた。




