96:彼女が彼女であるために
夜の森は暗く恐ろしげだったが、クロエは構わず歩みを進めた。冬の森は木の葉を落としていて、見上げれば枝々の間に星が見える。その淡い光を心の支えにクロエは歩いた。
やがて木々が開けた場所に出た。春であれば花畑であろうその場所は、今はただ土がむき出しになっている。
クロエはそこに膝をついて、両手のひらを土に触れさせた。
「大地の精霊……」
魔力とともに呼びかければ、地底の深い場所に存在を感じた。
「大地の精霊、教えて。東の土地でひどい災害が起きた。このままでは土地が死んでしまう。どうすれば助けられる?」
『放っておけば……いい』
影が蠢いた。星明かりに樹木の薄い影が落ちる中、闇が濃くなっている。深い深い地下の闇の中から、それが姿を現した。
長い麦穂色の髪には、様々な色合いの花を編み込んで。下半身は夜の闇に溶けさせて、獣の唸り声を上げる。
閉じられていた瞳がゆっくりと開いて、琥珀色の視線がクロエを捉える。
人ならぬ、人知を超えた魔力の塊。クロエとレオンには親愛を向けて、ヘルフリートには無関心と圧力を放っている。
「放っておけないわ。放置すれば、土地の死は私の村までやって来るでしょう。私は村人たちを守りたい。みなで作り上げた村を守りたいの!」
『大地は……死なない。大きな傷を受けて、眠る……だけだ』
「眠るとは?」
『一切の実りを実らせず、荒れた土地となり……長い間、そう、千年か万年かを眠り……またいつか、蘇る」
「万年……」
それは、人間にとって永遠の死と同じ意味だ。
『それに……お前の土地は、眠らない……』
大地の精霊は微笑みを浮かべて指先を伸ばし、クロエの髪に触れた。触れた部分がじわり、温かな魔力で満たされる。
『我が……守る。お前の命がある限り……、傷を受けぬよう、守ってやろう……』
「私の土地だけ? 私が生きている間だけ?」
『……そうだ。お前は、我が愛し子……。水と火も……お前と、守り人とを好いている。きっと力に……なるだろう……』
ズズ、と影が動いた。大地の精霊を取り巻く闇が濃くなる。帰ろうとしている。
「待って! 土地の死を、眠りを食い止める方法はない!?」
『今の……ままでは……無理だ。破壊の力は、存外に……強い。打ち破るには、もっと強い力……世界樹の力が……なければ』
クロエは胸を押さえた。あの秋の夜に預かった世界樹の種子は、今でも彼女の胸で温かな魔力を放っている。
「世界樹を芽吹かせるには、どうしたらいいの」
『風……を、探せ……。我ら四大精霊の力で……世界樹は……目覚める』
その言葉を最後に、大地の精霊は闇に消えた。
夜の暗がりに包まれた森の中で、クロエはすぐに踵を返した。
「クロエ? どこに行くんだ?」
初めて四大精霊を目の当たりにし、呆然としていたヘルフリートが絞り出すような声で言う。
「風の精霊を探さなくては。救世教の大司教が知っているみたいなの。締め上げてでも聞き出すわ」
「え……」
きっぱりと言ったクロエに、ヘルフリートは絶句した。
「助けてくれるのかい? 僕たちの過ちなのに。きみには何の責任もないのに」
「あなたたちを助けるわけではないわ。『私が生きている間だけ、私の土地だけ』ですって? そんな加護に何の意味があるの。領民だけが助かったところで、セレスティア国民たちはどうなるの? ミルカーシュや連合国の人たちは?」
考えるまでもない。大地の眠りに巻き込まれて、飢えと苦しみの中で死んでいくのだろう。
「私はこの国の王女。女王として立つかどうかは迷っていたけれど、今、決心したわ。私にしかできないのであれば、やらないでどうするの!」
クロエは振り返った。
木々の隙間から星明かりが差し込んで、豪奢な蜂蜜色の髪に反射する。若草の瞳は強い意思に燃え上がり、宝石のように輝いていた。
「私はこの国を、いいえ、この大陸を救ってみせる。必ずやり遂げるわ!」
夜の森の中、暗闇の中で輝くような意思を放つクロエを、レオンは呆然と眺めていた。
大地の精霊が助ける範囲を告げた時、彼はそれでいいと思った。むしろ大量に押し寄せるであろう難民の対処、追い返す方法を考えていた。
それなのにクロエは迷わなかった。一瞬の躊躇もなく全てを救う判断をした。
「大司教ヴェルグラードは、セレスティア王都から出てしまったわ。各地の慰問に行くと言っていたけど、追いかけなければ」
それは、救世教と決定的に対立するということだ。彼らは精霊を絶対に許容しない。魔道帝国の事故も、精霊による災害と曲解しかねない人々だ。話し合いの余地はなく、その場で殺される可能性すらある。
(止めなければ)
クロエの身の安全のために、引き止めなければ。
そう思うのに体が動かない。夜の中の光をまとうクロエから目が離せない。強さと美しさを併せ持つ彼女は、彼の瞳に焼き付いた。
「待ってくれ」
ヘルフリートが言う。
レオンには分かる、彼もクロエに見惚れていた。一度は手ひどく振られたというのに、まだ諦めていないようだ。




