83:隔たり
ヘルフリートがクロエの手を取った。
「クロエ、急いで避難しよう!」
「消火の手助けをしなければ」
「それは職員の仕事だ。他国の賓客であるきみを危険に晒せるものか。さあ、行こう」
火の勢いは強かったが、多数の人々が魔法や魔道具で放水を始めていた。クロエの出る幕はなさそうだ。
(今の地響き。ひどく嫌な感じだった。上手く説明できないけれど……)
温室の出口で何気なく中を振り返って、クロエは息を呑む。あれだけ茂っていた熱帯の植物たちが、急速に枯れているのだ。
「レオン、ヘルフリート! 温室が!」
温室の研究員が火事の現場と温室の惨状を交互に見ては、途方に暮れている。
クロエは思わず駆け戻って、もう一度土に触れた。
(魔力が弱まっている……いえ、魔力が消えている。まるで何かに吸い上げられるように。逆流するように!)
この感触は覚えがあった。最初に北の荒れ地を訪れた頃、スキルを使ってさえ草が生えなかったあの土の感覚。
つい先程までは確かに魔力で満たされていたのに、これはどうしたことか。
みるみるうちに枯れていく植物たちに触れると、こちらもまた魔力が感じられなかった。魔力と生命力とは表裏一体。魔力がなければこの世の生き物は生きていけない。
今日初めて出会った草たちが死んでいくのを目の当たりにして、クロエの心が揺れる。
「どうして急に魔力が消えたの? どうして草たちが死ななければならないの。お願い、戻ってきて!」
知らず知らずのうちに声に出ていた。両手のひらを土に押し当てると、大地のずっと奥深く、暗闇の向こう側に力を感じる。
北の土地で感じていたよりもずっと遠くて……まるで壁があるようですらあったけれど、それでも温かな眼差しを感じた。
(大地の精霊!)
必死に呼びかければ、それは応えてくれた。地下の常闇と地上の緑の力が湧き上がってきて、クロエを包む。漆黒と若草の光が温室の中で渦を巻く。轟、と魔力の嵐が吹き荒れた。
枯渇していた魔力が満たされていく。死にかけた植物たちが息を吹き返す。
まるで奇跡のように、祝福のように。消えかけた命が戻ってきた。
「クロエ……?」
土に手をつけたままのクロエに、ヘルフリートが名を呼んだ。驚きと敬意に満ちた声だった。
「きみは今、何をしたんだ? あの光。魔晶核の輝きをも上回る光だった。きみは一体……」
温室の外では消火活動が進んでいる。ほとんどの人が火事に注目していたせいで、温室の光は目立たなかったようだ。
クロエは答えず、無言のまま立ち上がる。レオンが支えた。
間に合わずに死んでしまった植物と、息を吹き返した植物。それぞれを指の先で撫でて、彼女は言った。
「少し疲れてしまったわ。見学はここまでにしておきます」
「あ、うん。分かったよ。迎賓館に戻ろう」
やはり呆然としている温室の研究員に口止めをして、クロエたちはその場を立ち去った。
「クロエ。教えてくれ。あの黒と緑の光は何だったんだ」
迎賓館の客室にて、ヘルフリートは食い下がっていた。
「魔晶核の光に少しだけ似ていたが、比べ物にならない。何よりも死にかけた植物を一瞬のうちに蘇生させた。まさに奇跡じゃないか。きみのスキルは【草生える】と聞いていたが、違ったのかい?」
「私も教えて欲しいことがある。あの地響きと火事、原因は?」
「火事を起こした建物は、温室の管理機構が置かれていた。魔道回路の暴走で発熱、発火したと聞いている。地響きはその際の衝撃だろう。それがどうしたんだ?」
「暴走……。温室の管理機構とは、どういうものなの?」
クロエの質問にヘルフリートは困ったように首を傾げた。
「僕もあっちは専門じゃないから、聞きかじった程度になるけど。温室の温度管理と、土の魔力構成を植物の原生地を再現するシステムらしい。植物系統の研究は、品種改良を筆頭に土壌の魔力的な改良なんかも行っているはずだよ」
「土の魔力構成」
クロエは考え込んだ。
「それは、魔道回路を使って土に魔力を与えたり引き抜いたりするのかしら?」
「そういうことも可能なはずだ。あそこの温室の地下に回路の一部が張り巡らされていて、地中の管理をしているから」
(回路が張り巡らされている。大地の精霊と隔たりを感じたのは、そのせいかもしれない)
黙り込んでしまったクロエに、ヘルフリートは遠慮がちに話しかけた。
「温室の魔道回路の暴走と、植物たちの急速な枯死は関係があるのだろうか? きみがやったのは救命措置だ。何故あんなことになったのか……」
クロエはレオンを見た。彼は黙ったままでいる。彼女の秘密を話すかどうかは、クロエ自身が決めなければならない。
ヘルフリートのことは昔から知っている。研究熱心で、それ以外のことには今ひとつ無頓着。今日も只々魔道科学の未来を描いてみせただけで、悪意は何もなかった。精霊を『加工』する魔晶核の製法は驚いたが、生命を奪って生きる事自体は間違いとは言えない。少なくとも救世教のように精霊を邪悪視と拒否はしておらず、有用な生き物という認識だ。敬意はないにしても嫌悪はしていない。
今日、クロエは魔晶核のあり方に危ういものを感じた。直後の暴走事故で懸念は確信に変わった。今の魔道科学の技術は土地や生命に危害を加えかねない。
だが他国人であるクロエが警告を発したところで、まともに聞いてもらえないだろう。
ヘルフリートならばどうだろう。もし彼が危険を認識して、今後の歯止め役になってくれるのであれば。皇帝の一族であり優秀な研究者である彼の言葉ならば、周囲に届くのではないか。
「――話すわ」
決意してクロエは口を開いた。レオンが身動きしたが、そっと手を重ねて押さえる。話すのはあくまでクロエのスキルだけだ。




