81:東へ
そうして魔道帝国への旅は始まった。季節は春、移動にはちょうど良い頃合いである。
道のりはまずは南下して聖都市に入り、さらに東進。ミルカーシュ王国を経由した上で魔道帝国に入る。
直線距離であれば荒れ地を東に進むのが近いが、クロエの村周辺以外はほとんど人が住んでおらず、道などあるはずもない。このルートが最も手堅いとのことだった。
クロエの同行者はレオン、それから補佐として村人が二人ばかり。ロイドと村長、ザフィーラは有用な人物だからこそ、村に残した。
セレスティア王都に正式な外遊許可は取っていない。そのため体裁としてはお忍びの旅行になる。時間がなかったのと、領主の国外旅行ないし商談は慣例で認められているので、必要ないと判断した。ただし弟王子のサルトには手紙で知らせてある。
クロエは聖都市は訪れたことがあったが、その先のミルカーシュ王国は初めての土地である。王国の北辺をかすめるだけの行程だったが、遠い南に大きな火山の影を見た。
「あれがザフィーラたちの言っていた火山ね。温泉があるという」
「うん。あの山は帝国との国境をまたいでいてね。百年くらい前までは噴火したり地震が起きたりと大変だったらしい。今でも火の魔力が強いよ」
そんなことを話しながら旅は続いていった。
そうして約二ヶ月後。一行は魔道帝国の帝都へと足を踏み入れていた。
「すごい……」
セレスティア王都も決して小さくない都市だが、帝都ははるかに上回っている。大きく整えられた街路の両側には、十階建てに近い建物が立ち並び、多くの人々が行き交っている。大通りには馬車が多く見受けられたが、中には風変わりな乗り物も走っていた。
「あれは何?」
クロエが指差した先には二人乗りの乗り物。馬車の御者台だけ取り出したような格好で、馬もいないのにひとりでに走っている。
「あれは自動車。帝国の最近の発明品だよ」
ヘルフリートは得意げに胸を張った。
「僕も回路の一部の開発に携わった。魔晶核を組み込んで、馬なしで走ることができる。人が操作して走らせるんだ。運転はなかなか面白いよ、今度乗せてあげよう」
「運転……」
想像以上の光景に、クロエとレオンは目を見開くばかりだ。
しばらく町を進んだ後、迎賓館に案内される。隣り合った部屋を割り当てられて、クロエとレオンは一息ついた。お付きの村人たちは使用人が使う部屋を割り当てられていた。
「じゃあ僕は帰還の挨拶をしてくるから。クロエは休んでいて。お祖父様への面会や町の見物は、すぐに手配するよ」
「ありがとう」
ヘルフリートを見送って、二人はため息をついた。
「すごいことになってるわね」
「ああ、想像を超えていた。町で見かけたものは便利で興味深いが、当然、技術は兵器にも転用されているだろう」
「帝国は元々強国だった。既に国土がかなり広いから、ここしばらくは外への侵略はしていない。でも、牙を剥いたらと思うと恐ろしいわね」
クロエが迎賓館の部屋を見渡すと、調度品も変わったものが多い。ランプの明かりは炎ではなく魔力の光。天井に据え付けられた大きな風車のような羽は、自動でくるくると回って空気をかき混ぜている。どこからか落ち着いた音楽が流れていて、クロエは楽団がいるのかと探したが、そうではないようだ。また部屋に設置されたドレッサーの隣には、洗面ボウルがある。蛇口をひねると新鮮な水が出た。
コンコン、とドアがノックされる。
「クロエ王女殿下、失礼いたします。この度お世話を仰せつかりましたメイドでございます」
しずしずと何人もの女性が入ってきた。
「ご入用がありましたら、何なりとお申し付けくださいませ。今は湯浴みの準備が整ってございますが、お使いになりますか?」
「ええ、お願い」
旅の間はお風呂にあまり入れなかった。温泉好きのクロエとしては不便を感じていたのである。
「レオン、ちょっと行ってくる」
「はい。いってらっしゃいませ」
人目がある時のレオンは今まで通り護衛騎士の姿勢を崩さない。慇懃な態度で見送られ、クロエは内心でくすぐったさを感じた。
通された浴場はとても立派な造りだった。まるで神殿のように柱が立ち並んで、その中央に泳げるほど大きな浴槽がある。浴槽にはたっぷりとした湯が満たされて、花びらが散らされている。
浴槽の脇には獅子を模した石像が何体も並べられていて、口から湯を吐き出していた。
「お風呂まですごいわねぇ」
クロエが感心して言うと、控えていた侍女が答えた。
「迎賓館の湯殿は、最新の設備で作られてございます。水の供給元は水の魔道具、ボイラーの動力は魔晶核。花は特別な温室で育てられました」
「贅沢すぎる……」
こうなるともうため息しか出ない。クロエは気持ちを切り替えて、お風呂を楽しむことにした。
湯は適温で清潔なのだが、やはり天然の温泉には劣る。
(魔道具の水って綺麗すぎるのよね。化粧水の材料にはいいけれど、飲んだりお風呂にするにはもう少し雑味があった方が好みというか)
口に出せば負け惜しみになりかねないので、クロエは黙って考えた。
石鹸を使ってみると、やはり魔牛バターを使った村の石鹸の品質の良さが際立った。泡立ちのクリーミィさが違う。
「この石鹸はどんな材料で作られているの?」
「オリーブオイルでございます」
オリーブオイルも決して悪くない材料だ。魔道帝国の名産品の一つで、料理や香油によく使われている。
湯上がりには果実水を出された。柑橘系の爽やかな香りがする。
果実水を飲んで一息ついていると、香油の壺を持ったメイドたちがやって来た。




