79:冬の終わり
「我が領地からも街道の整備用員を出しましょう」
伯爵が愛想のいい笑みを浮かべている。クロエは鷹揚に頷いてみせた。
「助かるわ。インフラは常にメンテナンスが必要だから」
隣領までの道のりは大幅に楽になり、移動時間が短縮できた。王都の弟王子サルトや味方の貴族たちの計らいで、北への道を全体的に整備する話も上がっている。今まで王都から北の土地までは一ヶ月もかかる距離だったが、短縮が見込めた。
また、伯爵領以外の近隣領地からも街道建築の打診が来ている。クロエの村の繁栄を見て、伯爵領を経由せずに直接の取り引きをしようとしているのだ。
クロエは各領地に赴いて領主の貴族と交渉。有利な条件で街道建築を取り付けた。
そうして忙しい冬を過ごすうちに、春が近づいてくる。
日に日に暖かくなる北の村では、春に向けて畑の準備が始まった。
そんなある日のこと。クロエの天幕を訪れたヘルフリートが言った。
「クロエ、僕はそろそろ帝国に帰るよ。今まで世話になった」
「……そう」
結婚の話は、結局返事をできなかった。十分に利があると理解しながらも、踏み出す勇気が足りなかったのだ。
「それでね、クロエ。一緒に帝国に来ないかい? 僕は今回の件で皇帝陛下から全権委任をされているけれど、交易品はきみが直接帝都でアピールするのがいいと思うんだ。特にムーンローズの化粧品類は、男の僕では分からないところも多いしね」
「私が帝都に? でも片道二ヶ月はかかる距離だわ。滞在を一ヶ月としても、往復で五ヶ月。そんなに不在にして大丈夫かしら」
「そこはきみの判断だけど。僕としてはクロエをお祖父様……皇帝陛下に紹介したいと思っている。その、結婚の話は抜きにしても、隣国の有望な王族として」
ヘルフリートは照れたように頬を搔いた。
「……少し考えさせて。といってもあなたはもう帰るのよね」
「二、三日なら大丈夫。待ってるね」
天幕を出ていった彼の後ろ姿を、クロエは考えながら眺めていた。
「ロイド、村長。どう思う?」
クロエはロイドと村長を呼び出して、五ヶ月の不在について意見を聞いていた。
村長は話を聞いて眉を寄せる。
「姫さんが五ヶ月もいなくなるってか? 去年の裁判の時は三ヶ月足らずだったよな。あの時は何とかなったが、今は移植希望者やら商売の申し込みやらが段違いで増えただろ。正直、不安だぜ」
「僕も同じ意見です。クロエ様が行くとなれば、当然レオン様も同行しますよね。お二人がいない五ヶ月は、かなり厳しいのでは」
ロイドが言えば、レオンは小さく頷いた。
「そうよね……」
クロエは呟いて小箱を取り出した。帝国の魔晶核が収められた箱だ。ふたを開けて魔晶核を眺める。あまり直視するとめまいがするので、なるべく焦点を合わせないようにしていた。
「ただ、ヘルフリートの言い分も分かるの。ムーンローズは帝国で評判になっているそうだけど、どこまでのものか。特に化粧品は、私が直接売り込んだ方がいいに決まっている。皇帝陛下と顔つなぎができるなら、それも願ったりだわ。それから……」
クロエは魔晶核を指先で撫でた。不思議な温かさが伝わってくる。
「この魔晶核。素晴らしいものだと思うのに、どうしても引っかかりを覚えるの。この虹色の光に見覚えがあるような気がして」
「……確かに」
村長が唸った。
「美しいが、なんつーか……。いや駄目だ、言いたいことがまとまらん」
「村長もそうなの? ロイドはどう思う?」
「僕はただ綺麗だと」
ロイドは困ったように首を傾げた。
「俺は胸騒ぎがする。決めつけられるものではないが、軽々しく扱っていいものか疑問を感じる」
これはレオンだ。クロエは頷いた。
「魔晶核の材料や製法は秘匿されているから、今の段階では何とも言えない。けどレオンの言う通り、言われるままに便利に使っていいとも思えない。だから魔道帝国まで行って、もう少し確かめたい気持ちがある」
「なるほど」
ロイドが答えた。
「僕はクロエ様のお気持ちを第一に思っています。あなたがそう判断されるのであれば、僕は全力で支えるのみ。五ヶ月のご不在も、村長と協力すれば乗り切れるかと」
「おい、お前さんよ。さっきと言ってることが違うぞ。手のひら返しすぎだろ」
村長が思わず突っ込んだが、ロイドは聞こえないふりをした。
クロエはちょっと苦笑した後、笑みを引っ込めて続けた。
「……そうね。今を逃せば帝国を訪問する機会は当分ないわ。不在の間の基本方針を決めるから、村長とロイドは村の運営をお願い」
「はい。お任せください」
「マジかよ。まあ、姫さんの頼みなら応えざるを得ないな」
こうしてクロエの魔道帝国訪問が決まった。
「嬉しいよ、クロエ! 何と言っても帝国までは二ヶ月の旅路だ。この時間をきみと一緒に過ごせるんだもの」
「大げさね」
「大げさじゃないよ、本心だよ」
クロエの同行を聞いてヘルフリートは大層喜んでいる。はしゃいでいると言ってもいいくらいだ。
「もうお別れだと思っていたのに。結婚の話も前向きに捉えていい?」
「それは……」
言葉を濁しながらも、クロエは罪悪感を感じた。ヘルフリートの好意を利用しているだけではないかと。
「お祖父様もクロエを気に入ると思うんだよね。あっ、ごめん。また先走ってしまった。護衛騎士くんに睨まれているよ」
ヘルフリートは悪びれない様子で笑っている。
「ヘルフリート。悪いけど、今回は商売上の話と帝国の見学ということにしておいて。結婚は私の立場を考えると、すぐに決められないから」
「そっか、そうだね。きみが立太子をもう一度目指すなら、さすがに僕は婿候補としては難しい。王族とはいえ一領主の婿と、王配じゃ違いすぎるもの」
しゅんとした彼にクロエは苦笑した。この友は昔から感情表現が分かりやすい。皇帝一族としては欠点だろうが、嫌いにはなれなかった。




