56:ミツバチ騒ぎ
夏の季節。村では夏野菜の収穫が進められている。
火の精霊と火山の誕生のお陰で、少し地熱が上がっている。今年の冬は地面が凍らなければ、秋播きの小麦も植えられるかもしれない。
塩花草は土地の塩分を吸い取って、塩をたくさん葉っぱにつけてくれる。
ムーンローズは咲き誇り、ミツバチたちがせっせと蜜を集めている。
最初はぎこちなかった村人と移民たちも、力を合わせて働くうちに少しずつ打ち解けていった。
最近の名物開発は、ムーンローズ香水だ。
ガラス製の蒸留器具を使ってムーンローズから精油を抽出。オイルと混ぜて小さなボトルに詰めている。オイルはクロエが生やしたベニバナで、オイルそのものも名物にできないか検討中だった。
「うーん、いい香り」
シュッと手首に吹きかけて、クロエはにっこりと笑った。
場所はクロエの天幕の中。薬師のザフィーラと一緒にムーンローズ精油とベニバナ油の配合を試している。
「アオルシとペリテが残念がっておりましたよ。ムーンローズはいい匂いだけど、魔牛と魔羊に嫌われてしまうから、使えないと」
「いくら人に慣れていても、魔物だものね」
クロエも牛たちに近づく時は、温泉で匂いをよく落とすようにしている。
そんな話をしていると。
「クロエ様! 大変です!!」
血相を変えた村人が天幕に駆け込んできた。移民の一人で養蜂を受け持っている男性だった。
「どうしたの?」
「ミツバチが暴れ出して。人を襲っているんです!」
「なんですって!」
天幕を飛び出そうとしたクロエを、レオンが押し留めた。
「今、外に出るのは危険です」
「でも!」
天幕の入口に近づくと、ぶんぶんと激しい羽音がした。そっと入口を細く開けて外を見る。
ミツバチの群れが黒い毬のようになって、いくつも飛び回っている。明らかに怒りや混乱が見て取れる動きで、村人や商人を襲っていた。
「うわああ、痛いっ! 刺された!」
「早く家に入れ! 隠れるんだ!」
必死の声が響く。クロエははっとした。
「子どもたちは!? あの子たち、牧草地にいたはずよね」
「避難は……していないかもしれません」
養蜂家の男性が青ざめる。
ミツバチの毒はそこまで強くない。大人であれば命にかかわるケースはないだろう。でも、体が小さい子どもたちなら?
「……っ!」
今度こそレオンが止める間もなく、クロエは外に飛び出した。
クロエの耳元でぶんぶんと羽音が響く。
「ちょっと!? なんで私を追いかけてくるのよ!」
ミツバチの群れは明らかにクロエを狙っていた。他の人を襲っていたミツバチまで急旋回してクロエを追ってくる。
「ひぇぇぇぇ……」
クロエは半泣きになりながら走った。子どもたちに避難を促すつもりが、ミツバチを引き連れていては知らせることもできない。
(だいたい、なんで私!?)
ぎゅっと手を握りしめて気付いた。ムーンローズ香水の瓶を手に持ったまま走っていることに。
(まさか、ムーンローズの香りがミツバチを引き寄せている?)
先ほどたっぷりと香水を使ってしまった。今、この村で一番ムーンローズの匂いをまとっているのはクロエで間違いない。
ブーンと羽音が近づいてくる。クロエが走るよりもミツバチの方が速い。全身をミツバチに刺される光景を想像して、彼女の全身に冷や汗が伝う。
(いいえ、でも……ミツバチが全部集まっているなら、打つ手はあるっ!)
「おーっほほほほ! 草よ、生えなさい!」
走りながら上がる息でクロエは必死の高笑いを上げた。
同時、地面から勢いよく草が生えてくる。みるみるうちに人の背丈を超えるほどに伸びて、互いに絡まり、大きな鳥かごのような形になった。
ブンブンブン!
草のかごに閉じ込められたミツバチたちは、さかんに暴れている。しかしかごから逃れた少量のミツバチは、むしろ落ち着きを取り戻していた。クロエに寄ってくるが、攻撃してくる様子はない。クロエの周りを飛び回って、やがて他の場所に行ってしまった。
「クロエ様!」
養蜂家とレオンが走って来る。
「ご無事ですか。お怪我はありませんか。私としたことが殿下を止められず……」
怪我がないか確かめるためだろう、レオンの手がクロエの髪を払う。たくましい指が髪を梳いていった感触に、彼女は一瞬ドキリとした。
平静を装って草のかごを指差す。
「大丈夫、刺されていないわ。すごい勢いで追いかけられたけど、全部捕まえたもの。捕まえそこねた蜂は落ち着いたみたい。飛んでいってしまったわ」
「ムーンローズの香りに惹かれたのかもしれません。ミツバチたちはあの花が大好きですから」
と、養蜂家。
「大好きな花の香りがあれば、落ち着くかしら……?」
思いついて、手にした香水を草のかごに吹き付けた。シュ、シュッと何度か吹き付けると、ミツバチたちはだんだんと大人しくなっていった。
しばらくするともう羽音は聞こえない。そうっと草の一部を剥がしてみれば、ミツバチたちは香水が染み込んだ草に止まってじっとしていた。
「それにしても、どうして急に暴れ出したのかしら」
「それが……。ついてきてくださいますか」
養蜂家に促されてミツバチの巣箱がある場所に行くと、無惨にも壊された巣箱が散らばっていた。砕けた蜜蝋が地面を転がり、せっかくミツバチたちが集めたハチミツも点々とこぼれてしまっている。
「ひどい」
クロエは眉をしかめる。
この巣箱は養蜂家と村人が協力して作り上げたもの。やっとハチミツ採取が軌道に乗ってきたところだったのに。
「棒のようなもので叩き壊されています」
壊れた巣箱を調べていたレオンが言った。
「クロエ様、レオン様。それって、もしかしてあれでは……?」
養蜂家が指差した先には、古い鍬が転がっていた。去年まで村で使っていたもので、新しい農具を手に入れたので倉庫にしまい込んでいた。
「あれは、エレウシス人の村人が使っていた農具ですよね? どういうことですか。まさか昔からの村人が巣箱を壊した!?」
養蜂家はセレスティアからの移民だ。
ざわめきにクロエが振り返ると、蜂騒ぎが治まったと見た村人たちが集まってきていた。
「落ち着きなさい!」
クロエは強い口調で言う。
「あの鍬で壊したと決まったわけではない。ましてやエレウシス人がやったと決めつけてどうするの。私たちは協力して暮らしてきたはずよ。根拠もないのに疑うのはやめなさい!」
「そうですよ!」
声を上げたのはイルマだ。
「巣箱はあたしも一緒に作ったし、ハチミツは料理に欠かせない大事な名物です。壊すわけないんだから!」
そうだ、そうだとエレウシス人から声が上がる。
だがセレスティア人の移民は疑り深い表情を解かなかった。