52:始動
移民団が到着したのは、春の中頃のことだった。
総勢で百名。今までの村の人口が二倍以上になる計算だ。
比較的貧しい身なりの者が多かったが、飢えている人はいない。サルトは約束通り援助物資を持たせていた。
移民団はセレスティア人である。旧エレウシス人の村人たちとは、少しギクシャクした距離感だった。
クロエは移民たちに呼びかける。
「みんな、遠いところをよく来てくれたわ。私はクロエ・ケレス・セレスティア。第一王女にしてこの土地の領主よ。この場所は今でこそ豊かになりつつあるけれど、少し前までは荒れ地だった。長年、元の村人たちが苦労しながら耕してきたの。あなたたちも農民であるならば、痩せた土地の開墾の苦労は分かるはず。偏見は捨てて、同じ土地に住まう者として協力し合うのを期待するわ」
言葉一つで変わるならば、こんなに楽なことはない。変われるかどうかはこれからだろう。
新旧の村人たちはぎこちない動きで、それぞれの顔を見合わせていた。
例外は子どもたちだ。
「あたし、ペリテ。よろしくね!」
ペリテがニコニコ笑って、移民の子に手を差し出す。移民の子はもじもじと親の陰に隠れていたが、やがて彼女の手を取った。
「あのね、この村はおもしろいことがいっぱいあるんだよ。牛さんと羊さんがとってもかわいいの。赤ちゃんもいるよ!」
ペリテはクロエの「仲良くしてあげてね」との言葉をしっかり覚えていたようだ。他の子たちも口々に言う。
「塩が草からとれるんだよ! ふつうは海からとるんでしょ?」
「行こう! みんなであそぼ!」
村の子たちが呼びかければ、移民の子たちも走り出す。親たちはその様子を見て、ようやく笑顔を浮かべた。
移民を迎えた日の夜、クロエはレオンと話し合う。
「人手が増えたのは願ったりだし、弟は純粋な善意でやってくれたのだと思う。だけど必ずいるわよねぇ。兄上なり大司教なりのスパイが」
「いるでしょうね。監視と言ってもいいかもしれませんが」
頷いたレオンをクロエは睨んだ。
「あなたのことも監視だと思っていたのだけどね。結局なんであの時、私についてきたのかしら」
レオンは鋼色の目を少しだけ細めて笑った。彼はこの村に来てから素直に笑うことが増えた。王都にいる頃は仏頂面か、皮肉に満ちた笑みしか見せなかったのに。
白い髪をかき上げて、レオンは続ける。
「お察しの通り、王太子殿下の命を受けていました。クロエ殿下が荒れ地で野垂れ死ぬまで見届けて来い、とね。何なら折を見て殺せと、暗に言われておりました。首尾よくやれば近衛騎士に引き立ててやると」
「うわ、最悪じゃない。……で? どうして『任務』を全うしなかったわけ? 国王直下の近衛騎士は、あなたの目標だったでしょう」
「王太子殿下の言葉が信用できなかったのが一つ。どうせあのお方は、私を切り捨てようとするでしょう」
「そりゃあそうよね」
クロエは頷いた。いかにもあの兄のやりそうなことだ。
「もう一つは……この村が気に入ったから、でしょうか」
レオンは呟くように言った。
「正直、クロエ殿下は辺境暮らしに耐えられず逃げ出すと思っていました。ところがふたを開けてみれば、あなたは意外な精神力を発揮して、人々を導いた。打ち捨てられていたエレウシス人たちは、息を吹き返した。そして……」
彼はためらい、それでもゆっくりと続ける。
「精霊との邂逅。全てが驚きの連続でした。このようなことが起きるとは、思ってもみなかった……」
少しの沈黙が落ちた。弱火で焚いているストーブの火が、ちらちらと天幕の中を照らしている。
「レオン。改めて聞きたいのだけど。『守り人』というのは何なのかしら?」
クロエの質問に、彼は目を伏せたまま。白い睫毛が鋼色の瞳を隠している。
「――答えられません」
「そう。なら、いいわ」
あっさりと答えたクロエに、レオンはやっと目を上げた。
「よろしいのですか?」
「力ずくで聞き出すわけにもいかないでしょ。答えられる時が来たら教えてくれればいい。ただ精霊が関係しているのだから、慎重にね」
大司教ヴェルグラードから受けた『警告』は、レオンにも話してある。そしてヴェルグラードは守り人について何も言っていなかった。知らないのか、知っていて泳がせているのか。クロエには真意は測れない。
移民たちが加わった以上は、今までのように精霊について大っぴらにすることはできない。救世教のスパイはもちろんのこと、セレスティア人の一般的な感覚では精霊は悪だからだ。
「今年は名物を売り出して、販路を拡大する大事な時期だわ。兄上も何か企んでいるみたいだし、足元をすくわれないようにしなきゃ」
クロエは椅子から立ち上がり、ぐぐっと背伸びをした。
「大変だけど、やりがいがあるわね。さあ、慎重かつ大胆にいくわよ!」
「今日は高笑いはしないのですか」
「しません! 私がそう何度も同じ間違いを犯すわけがないでしょ」
「実に説得力のないお言葉です」
こんなやり取りはいつものこと。いつものレオンが戻ってきたことにほっとしながら、クロエは高笑いを我慢した。
元の村人と移民が協力して畑仕事をしている中、久しぶりに行商人のフリオがやって来た。クロエは天幕で迎えた。
「人が増えて賑やかになりましたね。この村は本当に、見るたびに見違えるようだ」
「よく来てくれたわ、フリオ。うちの村の名産品、評判はどう?」
「とてもいいですよ! 魔牛のバター石鹸は泡立ちがいいと評判で。貴族様方からも引き合いを受けているんです」
冬の間に作っていた石鹸や料理は、フリオを通して隣町や他の領地に売り込んでいた。遠くまで行商に行ったので、この村に来るのは少し久しぶりである。
そこでクロエはにやりと笑うと、小さな袋を差し出した。
「それは?」
「ムーンローズという花のポプリよ。魔物除けの効果があるの」
「え!?」
タイミングの問題で、フリオはまだムーンローズを知らなかった。
袋を受け取って匂いを嗅ぎ、紫の花びらを取り出して見つめている。ポプリは粗末な布に入った小さなものだったが、良い香りは変わらない。子どもたちがせっせと花びらを袋に詰めたのである。
「そして、これは石鹸に花びらを混ぜ込んだもの。ムーンローズ石鹸よ」
フリオは花びらが散らされた石鹸を手に取った。
「いい匂いです。それに魔物除けの効果があるということは……」
「ええ。持っているだけでも効果があるし、お風呂で体を洗えば匂いがついて長持ちするわ」
クロエは既に実験済みである。のんびりと温泉に入って体を洗って、楽しい実験だった。
ただし魔牛と魔羊に嫌われてしまうので、草を生やす時はやめておいた。同じ理由でアオルシや羊と仲の良い子どもたちもムーンローズが入っていない石鹸を使っている。