49:歓談
大司教はゆったりと首を傾げた。
「ほう、なぜ?」
「おっしゃるとおり、ここはエレウシス人の村です。彼らが故郷を失ったのは、我がセレスティアと救世教の混合軍によるもの。村人の中には、未だに救世教を怖がる者もいるのです」
嘘ではなかった。実際に今も、ヴェルグラードや司祭の法衣を見て顔を青ざめさせている村人が多い。戦争の恐怖は彼らの心に深く刻まれていた。
「恐れる必要はありません。我らが滅するのは精霊を信奉する輩のみですから。……それとも。この村ではまだ、精霊信仰が行われているとでも?」
ヴェルグラードの口調はあくまで穏やかだったが、同時に底冷えするような冷気が含まれていた。
クロエは笑顔を崩さないまま答える。
「いいえ、滅相もありませんわ。ただ私は、去年やって来たばかりの新しい領主。村人たちの心を安らかにして、共に手を携えて領地の経営をしたいと思っているだけです」
少しの沈黙が流れた。異様な空気を感じ取ったのだろう、サルトが不安そうに姉の手を握る。
「……そうですか」
静寂を破ったのはヴェルグラードだった。ひょいと肩をすくめる。
「新しい土地に教会を建てるチャンスだと思ったのですがねぇ。まあ、他ならぬクロエ殿下がそうおっしゃるのであれば、仕方ありません。諦めることといたしましょう」
飄々《ひょうひょう》とした、いっそ軽やかなほどの口調で言われてクロエは拍子抜けした。
クロエの領主としての権限で、教会の建立や教団の人員は断ることができる。たとえ押しかけられても拒めば、あちらは引き下がるしかない。法律上は領主の意向に逆らって居座るのはできない。
とはいえ……。
(精霊のことを嗅ぎつけてやって来たと思ったのに。違うの?)
「姉さま。教会の件は残念ですが、移民団は受け入れていただけるでしょうか?」
「もちろんよ。今年は畑を拡張するつもりでね。人手が足りなくて困っていたの」
サルトはぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「良かった! 移民団には仮設住居と当面の食料を物資として持たせる予定です。遅くとも春の半ば頃には到着しますので、どうぞよろしくお願いします」
「助かるわ。去年の豊作分があるとはいえ、人数が増えたら食料も不安だったから。手配はサルトがやってくれたのよね。すごいわ」
「僕は言い出しただけです。父上への奏上は大司教様が、細々とした手配は文官たちがしてくれました」
サルトの純真な笑顔に、周囲の空気もやっと緩んだ。それからは移民団の人数や到着時期、住居の場所の打ち合わせなどに入る。
「立ち話も何ね。さあ、入って」
「遊牧民の天幕ですか? 僕、初めて見ました」
サルトは物珍しそうにきょろきょろとしている。
「住む場所が近いから、色々と縁があってね。この天幕も取引で譲ってもらったの。羊もいるわよ」
打ち合わせを終えると雑談になって、姉弟はお互いの一年間の事情を交換しあった。とはいえクロエには話せないことも多い。特に精霊たちに出会った話は、ヴェルグラードに知られるわけにはいかなかった。
「ここのところ、兄上の様子が少しおかしいんです」
出された茶を飲みながらサルトが言う。村でもやっと茶を買う余裕ができた。
「移民団の奏上も邪魔をされてしまって。おかげで出発がちょっと遅れそうです」
「兄上ねえ……」
クロエはため息をついた。彼女にとって兄王子は、凡人を通り越してポンコツである。その割に人の足を引っ張るのは得意なので、どうしようもないと思っていた。
「王太子殿下は、陰謀の準備が最近のお気に入りのようですよ。気をつけてくださいね」
ヴェルグラードがのほほんと言った。
「大司教様は、何かご存知ですの?」
「さて。クロエ殿下にばかり味方すると、ずるいと言われてしまいますから。私からはこれ以上は何も」
(思わせぶりなことを言う割に、役に立たないわね!)
内心の毒づきを表に出さず、クロエは微笑む。
サルトは微妙な空気に気付いて困り顔、ヴェルグラードはマイペース、レオンはだんまり。そのような和やかな(?)雰囲気でその場は進んでいった。
サルトら一行は村に泊まることになり、自前の天幕を広場に張った。明日は魔羊や魔牛、ムーンローズなどを見せて売り込みをする予定である。温泉にも入ってもらいたい。王都に住む王族のサルトが宣伝してくれれば、効果は大きい。
サルトと彼の護衛騎士だけはクロエの天幕に泊まることになった。久しぶりの姉弟水入らずの時間に、自然と笑顔がこぼれる。
「あなたからもらった植物図鑑、大助かりだったわ。ほら、私のスキルは草を生やすでしょう。生やした草がどんなものか図鑑でたくさん調べたの。村の子どもたちもよく読んでいるわ」
「それは良かった! きっと姉さまの役に立つと思って、急いで取り寄せたんです」
そんな会話がクロエの心を癒やしてくれる。この優しい弟は、いつでも姉の味方をしてくれた。
それからもしばらくお喋りをしていると、サルトが眠そうに目をこすった。旅の疲れが出たのだろう。
「そろそろ休みましょうか。昔みたいに一緒のベッドで寝る?」
クロエがいたずら心を込めて言うと、サルトは真っ赤になって首を振った。
「僕、もう、小さい子どもじゃありません。ここまでの旅でも、ちゃんと一人で寝ていました。平気です!」
「あはは、そうよね。それじゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」