43:月夜のバラ
「えっ……じゃあ、本当にお化け……」
クロエは顔を引きつらせる。
「違いますよ」
ため息混じりに言ったのはレオンだった。
「なんでだよ! レオンさんも見ただろ。草地に点々と紫色が灯って、羊と牛たちも怯えていた!」
「実際に確認した方が早いですね。行きましょう」
「お、お、お化けを見に……?」
すっかり腰が引けたクロエを、レオンはふっと鼻で笑った。
「違うと言ったでしょう。そんなにお化けが恐ろしいですか? 殿下はもう十五歳、いえ、もうすぐ十六歳になりますよね? 夜、一人でトイレに行くのに苦労するタイプですか」
「そんなわけないでしょ! お化けなんか怖くないわよ! もちろん行きますとも。さあアオルシ、あなたも一緒に」
クロエは顔を真っ赤にしてアオルシを引っ張る。
「ひいーっ」
アオルシは情けない悲鳴を上げた。
そのような一幕を経て牧草地に行くと、騒ぎを聞きつけた村人たちも家を出てきていた。
確かに所々に紫色の光が灯っている。それは時折吹く冬の風に揺れて、人魂のように見えなくもなかった。
クロエが近づいてよく見てみると(怖いのでレオンの服の裾を握ったままだった)、小さな花が咲いていた。紫色のバラだった。それが夜の闇の中でぼんやりと光っているのだ。
「あれ……これって」
紫のバラをよく確かめてみれば、例のトゲが生えた草に咲いていた。
「不気味な花だなぁ」
村長が隣に来て首を振る。
「紫ってのは、死者に捧げる花だろう。エレウシスじゃ葬式の定番でよ」
「そうなの? セレスティアでは特にそんなことはなかったわ」
遊牧民は紫を死者の魂と言い、エレウシス人は死者に捧げる花と言う。奇妙な一致に首を傾げながらも、クロエは光る花を見る。
セレスティア人である彼女にとっては、淡く光る花は美しく映った。香りも芳しく、心が落ち着いてくる。
けれども周囲を見渡せば、魔羊と魔牛たちは遠巻きにこちらを見ていた。いつもはクロエを見ると近寄ってくるのに、その気配がない。
「ねえ、アオルシ」
クロエは考えながら話しかけた。寒さのために吐く息が白い。
「魔牛スラビーは魔物よね。元々荒れ地に住んでいて、今は大人しくなったけど、本当は気性が荒い魔物」
「そうだね」
「魔羊も魔物なのかしら? 魔とつくくらいだし」
「うん。遊牧民のご先祖が、普通の羊と魔物の羊を交配させて生まれた種類だよ。普通の羊より賢くて、体が丈夫なんだ」
「だったら、この紫のバラ。魔物除けの効果があるんじゃないかしら?」
周囲の人々がクロエを見た。
「私たち人間は別に何ともないわね。そうだ、ちょっとニワトリを連れてきましょうか」
村では数少ないながらもニワトリを飼っている。特に魔物の血が入っているわけではない、普通のニワトリだ。
若い村人が走っていってニワトリを抱えて戻ってきた。紫のバラの近くで離してやるが、ニワトリは特に気にした様子がない。
次にアオルシが魔羊の群れに近づいて、一頭を連れ出した。バラの方へ連れてこようとするが、明らかに嫌がっている。
「これは、当たりかもしれないわね」
「もう少し確かめましょう。明日、魔物退治にこの花を持っていきます。他の種類の魔物避けるかどうか確認を」
レオンが言ったので、クロエは頷いた。
「頼むわ」
翌日のレオンの実験で、紫色のバラは魔物に忌避感を与えると判明した。そこまで多くの種類の魔物で実験したわけではないが、少なくとも数種類で効果が見られたのだ。
クロエの天幕で、村人を交えて報告を受ける。
「この花を持っていると、魔物が明らかに避けていました。こちらから近づいて戦っても、動きが鈍っていました」
「そう。すごい効果ね」
クロエはにんまりと笑った。彼女の草生えるスキルは、とうとうレアな草を生やすようになったようだ。
「でも、植物図鑑に載っていないなんて。どうしてかしらね」
「その図鑑は大したものですが、それでも世界中のあらゆる草を載せているわけではないでしょうな」
と、棄民の薬師の老婆――ザフィーラという名前である――が言った。
「限られた土地にしか生えないとか、一度は絶滅してしまったとか。そういうものは、漏れもあると思いますじゃ」
なお、ミルカーシュでは紫の花は特に意味を持たないらしい。バラの美しさと効能に棄民たちは喜んでいた。
「この花はこれから大いに利用しましょう。葬式の花なんて言わないでよ、使えるものはとことん使うんだから」
クロエが胸を逸らすと、村長たち村人は苦笑した。
「魔物除けはすげえ効果だからな。最初は夜に光って不気味だと思ったが、この村の名物となりゃあ話は別だ。きれいなもんよ」
「そうそう。あたしは気に入ったよ」
「あたしも!」
イルマとペリテは笑っている。彼女らのように若い村人はエレウシスの風習を知らない。そのために自由な感性を持っていた。
「で、クロエ様。その花の名前、何にするの?」
「あぁそうね、名前をつけないと。この村のシンボルになる花だものね。うーん……」
クロエは腕を組んだ。紫、夜、光る……と考えるが、すぐには良い名が思いつかない。
「――ムーンローズ。ムーンローズはいかがでしょう」
そう言ったのはレオンだった。
「月夜に咲くバラです。ふさわしい名前かと」
「あら、いいわね。神秘的であの花にぴったりだわ。センスいいじゃない」
レオンはどこか戸惑ったような笑みを浮かべている。名付けが彼の功績ではないのに、褒められて困っているような。知っている名を言っただけのような……。
そんな彼の様子には気づかず、クロエは楽しげに続けた。
「魔牛と魔羊が嫌がるから、牧草地からは抜いてしまいましょう。畑の一部に生やすか、それとも、村を囲うようにしてもいいわね。街道の近くにも植えておけば、安全が高まるわ」
「ポプリにして売り出せば、旅人や行商人に人気が出そうです」
「精油を抽出して剣に塗るとかは? 魔物によく効きそう」
村人たちがそれぞれにアイディアを話す。
そんな彼らの様子をレオンは黙って見つめていた。手にはムーンローズを祈るように持ちながら。