27:アトゥン伯爵
代官とのやりとりから一週間後。クロエはレオンを伴って、アトゥン伯爵領の町までやって来ていた。
片道三日程度の行程だった。道中は村で唯一の荷馬車を使った。なお、引いてきたのは馬ではなく魔牛スラビーである。御者はアオルシが務めてくれた。
道中は魔物が出ることもなく平穏無事に済んだ。だが今回はたまたまで、襲われる場合もあると村人が言っていた。
クロエはしばらくしまい込んでいたドレスを身にまとっている。
他にも村人が二人同行していた。荷馬車に村の野菜を積んで、町で売りさばくつもりだった。魔牛は町なかに連れて行くと驚かれてしまうので、郊外で待機させる。
伯爵領には町が一つと、あとは農村がいくつか点在している。伯爵の居城を兼ねる町はそれなりに賑わっていて、広場では市場が立っていた。村人たちは野菜を抱えてそちらに向かう。
クロエはアトゥン伯爵の居城へ行くと、身分証代わりの書類を門衛に見せた。落ちぶれたとはいえ王女である。門衛は慌てて門を開き、伯爵に取り次いだ。
「ようこそ、クロエ殿下。話は聞いております」
出迎えたアトゥン伯爵は四十代の小太りの男性だった。落ち着きなく汗をかいてはハンカチで拭っている。
例の代官もちょうど呼び出されていたようで、青い顔で後ろに控えていた。
「なら前置きは不要ね。あなたの代官の横領を不問とする代わりに、不正分の返還を要求するわ。あの代官の私財から払ってほしいけれど、無理だというなら伯爵からという形になるかしら」
「私から代官に貸し付けて、後々返してもらう方法でどうでしょう?」
「それでもいいわ。私の村は貧しくて、迅速に物資が欲しいの。三週後の期日までにきっちり耳を揃えて払ってちょうだい」
「は、はい」
伯爵は羊皮紙を取り出して、内容をしたためた。
返済の八割は金貨で、残り二割は小麦粉で支払うことで同意する。今年の村は豊作だったので、小麦粉は少なめでも飢え死にの心配はない。それよりも村の環境を整えるために現金の方が必要だと判断した。
クロエと互いに確認をして、印を捺す。
(王都から持ってきた印鑑、半年も経ってやっと使う機会が出たわ)
クロエは内心で苦笑する。この半年、およそ王女らしくないことばかりやっていた。草を生やしたり、水源探しの旅に出たり。村人に交じって畑仕事をしたり。泥と汗にまみれる毎日だったが、案外楽しかったと彼女は思う。
「ところで王女殿下。小耳に挟んだのですが、荒れ地に川が流れるようになったとか?」
アトゥン伯爵の言葉に、クロエは首を傾げる。
「あら、よく知っているわね。誰に聞いたの?」
ろくに草も生えない荒れ地は、人の行き来が少ない。集落もクロエの村が荒れ地の端にあるだけだ。
「遊牧民です。彼らは時折この町までやって来て、塩や穀物を買っていきますから」
遊牧民はいくつかの氏族に別れている。水脈の復活を目の前で見たアオルシたち以外でも、荒れ地に暮らす者であれば川が流れ始めたと当然気づくだろう。
水脈の復活は春の出来事。秋になった今では徐々に噂が広がっていてもおかしくはない。
「なるほどね。ええ、そうよ。おかげで水が手に入ったから、畑の拡張を計画しているの」
「何百年も枯れ川だったのに、なぜ急に水が流れたのでしょう」
「さあ? 珍しく雨でも降ったんじゃない?」
水源での一幕は誰にも言うつもりはない。言ったところで信じてもらえないほど、非現実的な出来事だった。
あの奇跡を目の当たりにしたのはクロエとレオン、アオルシ、族長だけだ。他の遊牧民は水が噴き上げる様子は見たが、あの光り輝く謎の存在は知らない。アオルシはずっと一緒にいるし、族長もあまり口外する気はなさそうだった。
何よりもあの光の存在は水の精霊と思われる。精霊はセレスティア王国の考えでは悪霊に等しい。言わない方が賢明だろう。
アトゥン伯爵は今ひとつ納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。代わりにこんなことを言った。
「水が手に入ったのであれば、これから荒れ地は栄えるでしょう。新たな開拓計画などはございませんか? 我が領地から人手を出しますよ」
「今のところは村の人手でやれる範囲で進める予定よ。私は領主になったばかり。自分の裁量で進めたいの。余計な手出しは無用」
「左様ですか。何か入り用なものなどございましたら、ご遠慮無くどうぞ」
「ええ、よろしく。今度こそ法に則った誠実な取引をしたいものね」
嫌味を言えば、後ろの方で代官が縮こまっている。
「王女殿下、本日は泊まっていかれますか? 是非おもてなしをしたいのですが」
「いいえ、結構。村人を心配させてしまうもの。すぐに帰るわ」
クロエはさらりと言って伯爵の居城を後にした。
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クロエたちが帰った後。代官を下がらせてアトゥン伯爵はため息をついた。
(無能王女と言われていたが、違ったな。荒れ地に追放されて野垂れ死にすると思いきや、村を発展させるという。突然川が復活した幸運があるとはいえ……ゴマをすっておくべきか?)
彼は自分が凡人だと知っている。だから大きな功績は望まず、失敗の少ない人生を心がけてきた。
領地は辺境近くの小規模なもの。十五年前のエレウシス戦争の際も前哨基地として使われるにはやや遠く、無難にやり過ごしてきた。
それが今回、配下の代官の不祥事で肝を冷やした。解雇と不正分の返還で手打ちになったが、本当に告発されて政治闘争に巻き込まれれば、伯爵は生き残る自信がなかった。要は小物なのである。
「閣下。王女殿下との話し合いは済みましたかな?」
「おお、司祭殿。問題なく終わりましたよ」
ノックの後、救世教の司祭が部屋に入ってきた。昔から町の祭事を取り仕切っている人物で、伯爵とも長い付き合いである。
「川の復活について、殿下は何と?」
「詳しく知らないご様子でした。雨が降ったのでは、と」
「そうですか……」
司祭は目をそばめる。彼の初めて見る表情に、伯爵は戸惑った。
「川の復活はおおごとですが、殿下と何か関係が?」
「いえ。ただ何百年、あるいはもっと長い間枯れていた川が再び流れるなど、明らかに異常です。これが凶兆でないかどうか、よく確かめねばなりません。……殿下の領地は教会がありませんでしたね。司祭を派遣して人心を鎮め、よく調べるべきかと」
「殿下は余計な手出しは無用とおっしゃっていました。難しいかもしれません」
「…………」
セレスティア王国において、救世教の権力はそこまで強くない。救世教の教えはたゆまぬ努力を重んじ、能力を磨き続けることを美徳とする。権力と癒着するよりも修道僧のような趣きがあった。
ゆえに領主が拒否すれば教会の建立は無理強いできない。
ただし、人間が持つスキルを可視化できるのは高位の聖職者だけだ。そのため人々の尊敬を集めており、総合的な影響力は強い。
「荒れ地が本当に発展するならば、救世教の力が必要になる時も来るでしょう。近々、私も殿下にご挨拶をしなければ」
司祭はそう言って話題を変えた。いつも通りの町の様子などを話し合う。
伯爵はようやく平穏が戻ってきたのを感じて、安堵した。




