25:汗を流す
本格的な夏が訪れた。
川が復活したおかげで水が豊富とはいえ、荒れ地には木陰になるような大きな木が少ない。人々はもちろんモコモコの毛を持つ魔羊はかなり暑そうで、バテ気味である。魔牛スラビーも暑さは苦手であるようで、川と牧草地を行き来する他は地面に寝そべってダラリとしていた。
そんな中、村人たちは畑作業の合間を縫って灌漑用水路の建設に取りかかった。技師はさすがに本職で、事前にきっちりと地形を調べた上で計画を立てている。効率的に川の水を引いて、広い範囲に流す計画だった。
「今年の建設は、来年の畑の分だけに留めておきましょう。その代わり、しっかりと仕上げます」
技師の号令のもと、村人たちは交代で働いた。北の牧草地は村から徒歩で半日の距離。長時間の労働をこなせば、村に帰る時間がなくなってしまう。
その際は、アオルシら遊牧民が自分たちの天幕に招き入れたり、簡易テントを貸したりしてくれた。
「小さい方のテントは予備があるから。使ってくれていいよ」
いくら夏とはいえ野宿は体に負担がかかる。村人たちはありがたく寝床を借りた。
夏の間の力仕事はきつい。けれど村人たちは、クロエの描く村の未来を夢見て働き続けた。つい先日まで飢えに苦しんで無気力になっていた彼らが、今では自発的に力を合わせている。目標に向かって協力している。
働けば報われるのだと、村人たちは実感していた。夏に採れた野菜はどれもが大ぶりで美味しくて、食べると力が出る。麦と秋野菜の生育も順調で、きっと豊作になる。麦の税金も今年からはクロエが領主なので、無茶には取られない。
そう思えば厳しい労働も乗り越えられた。
変わったのは村人だけではなかった。レオンもまた、村人と一緒に汗を流した。剣を手放し、ツルハシやスコップを手に地味に土を穿っていく。工具類はどれも錆びついて古く、しかも数が少ない。村人とレオンは苦労しながら作業を進めていた。
「どういう心境の変化? 前は『農民の真似事などしない』と言っていたのに」
黙々と作業に従事する彼に、クロエは差し入れの水を渡した。レオンは受け取って苦笑する。
「傲慢だったと気づいたのですよ。大地の前では、農民も貴族もない。持てる力を使わないで、身分だけひけらかすなど……」
「ふぅん? 別にあなたは身分をどうこう言ってないと思うけど」
「事情がありまして。エレウシス人の彼らを助けないのは、我が身を捨てると同じだと感じたのです。……いえ、忘れてください。戯言です」
レオンはそれきり口を閉ざしてしまったので、クロエも詮索は諦めた。
そうして夏の季節が終わる頃、とうとう水路が完成した。
計画的に整備された水路は、美しい姿で流れている。川から少し離れた場所に作られた貯水池は、魔牛と魔羊たちの水飲み場にもなった。
穏やかに流れる川と、広い牧草地。整えられた水路。遠くにはまだ赤茶けた大地が見えても、ここだけはもう『荒れ地』ではなかった。
「きれいだなぁ……」
村人の一人がため息をつく。年若い彼は本来の故郷――十五年前に滅びたエレウシス王国――をほとんど覚えていない。彼にとってのふるさとは、何もない荒れ地だった。それが今年から変わるのだ。
村人たちは夕日が沈むまで、否、日が暮れて星明かりが地上に降り注いでも、彼らの新しい故郷を眺めていた。
水路が完成した後、村の移転に手を付けようとしていたところ、アオルシから申し出があった。牧草地で子どもたちと草を生やしていた時のことである。
「村を作り直すんだって? なら、新しい家が要るよな。俺たち一族の移動式天幕を使ってみる?」
移動式天幕は、クロエも春の水脈探しの旅で世話になった。天幕と言うがしっかりとした造りで、家屋と言って差し支えない。天幕として使う布を変えることで、夏の暑さにも冬の寒さにも対応できる。布と木材とで作られており、石造りの家よりも当然ながら軽量で、しかも組み立てが簡単。村の移転にうってつけの条件が揃っていた。
「是非お願いするわ。ただ……対価が払えるかどうか」
クロエが難しい顔をすると、アオルシは明るく笑った。
「大丈夫。魔牛のつがいをもらえれば、家の三軒分くらいにはなるさ。あとは作物と塩だね。特に塩は貴重だから」
「塩はもちろんいいけれど、魔牛を?」
アオルシは魔牛をすっかり飼い慣らして、今では魔羊と同じように扱っている。「最初は怖かったけど、案外気の良い奴らだと分かったよ」と笑っていた。
「風タンポポのおかげで、あいつら滅多なことじゃ暴れなくなっただろ。魔牛は体が大きくて力が強い。頼りになる用心棒で、しかもお乳も肉もたっぷり取れる。みんなこぞって欲しがるよ。秋になったら父さんたちと会う予定だから、話をしてみる」
「頼むわ。でも風タンポポを食べ続けないと、また暴れるんじゃないかしら?」
「風タンポポの種を一緒に渡すよ。草地に埋めてもらえば、だんだん増えるんじゃないかな?」
風タンポポは雑草らしく生命力が強い草だ。水気のある今の土であれば、勝手に増えてくれる公算が大きい。
「そうね。いざとなったら、ここの牧草地で食べていってくれてもいいし」
話はまとまった。アオルシは魔牛に近づいて、背伸びして大きな角を撫でた。
「そんなわけだから、頼むぞ。大丈夫、俺の父さんと兄弟たちは、動物の扱いが上手いから」
「ぶもぉ」
大きな鼻息がアオルシの前髪を揺らす。
「クロエ様も触ってみる?」
「え? そ、そうね、私の草を食べている私の牛だものね」
クロエはおっかなびっくり魔牛に近づいた。牛は特に警戒するでもなく、のんびりと彼女を見ている。そうっと手を伸ばして立派な角に触れると、硬いけれどどこか温かい不思議な感触がした。
「あら。こうして見ると可愛いわ」
クロエはにっこりと微笑む。牛は首を巡らせて彼女を見て――。
「げぇ~っぷ」
盛大にゲップをした。
「くさ! くっさい!」
クロエは鼻を摘んで一足飛びに牛から離れた。アオルシはおろおろと困った顔、レオンは笑いを噛み殺している。
ペリテが手を叩いた。
「あ! 草だからくさいんだね。牛さん、すごい!」
レオンが堪えきれずに吹き出した。クロエの顔が真っ赤になる。
「レオン! 今日という今日は許さないわよ!」
「私はペリテのダジャレに笑っただけですが」
「うるさい! あなたの頭に草を生やしてやるわ。お~っほほほほ! 覚悟なさいっ!」
逃げるレオンと追うクロエ。ペリテや子どもたちはきゃっきゃと笑い声を上げ、アオルシは呆れ顔だ。
そんな光景を、牛と羊たちはどこか面白そうな瞳で眺めていた。
実りの秋は、もう目前まで迫っている。




