17:帰還
「…………! 地上へ戻れ、急ぐんだ!」
族長が叫ぶ。未だ迸る光の向こうに水柱が立っている。水は洞窟の天井を突き破り、地上へ噴出した。
洞窟から地上へ帰還したクロエが見たのは、高く高く上がる水の柱。水しぶきに虹をまといながら、空へ向かって噴き上げている。
地面の振動は収まらず、ウィルの丘が陥没を始めた。遊牧民たちは慌てて避難する。
水はますます勢いを増して、陥没した土地を満たしていく。満たされた水はやがて枯れた川の跡に達して、勢いよく流れ込んだ。
ドウ、と大きな音がした。川に流れ込んだ水は川底をさらい、川岸まで達して、千年ぶりの川の流れを引き起こす。始めは激しく、徐々に勢いを弱めて川が流れていく。
ごくわずかの間に地形は一変した。
ウィルの丘は一つを除いて水に沈み、中央に島を持つ巨大な湖と化した。
枯れた川は今やなみなみと水で満たされ、ゆるく蛇行しながら南西へと流れていく。
乾いた荒れ地はもう存在しない。豊かな水に彩られた風景が、そこにあった。
劇的に変化した地形を前にして、クロエたちは絶句していた。
目の当たりにした光景なのに、信じられない。呆然としていると、風が吹いた。
「はくしょん!」
水しぶきでずぶ濡れになっていたおかげで、体が冷えてしまっている。くしゃみをしてようやく、彼女は我に返った。
「まさに奇跡ね……」
小さく呟く。遊牧民たちも徐々に正気に返って、興奮気味に言葉を交わしている。
「水脈は本当にあったのだな」
族長が言う。
「これだけ豊富な水があれば、いずれ豊かに草が茂るだろう。羊たちのエサに困ることもなくなる」
「本当だよ。クロエ様は恩人だ!」
アオルシが弾けるような笑顔を浮かべた。
「ふふん、そうでしょう。もっと褒め称えていいのよ」
クロエは胸を張って、次にレオンを見た。
「あなたのおかげでもある……のよね? あの時一体、何をしたの?」
「別に何も?」
「とぼけるんじゃないわよ。誰が触っても反応しなかったのに、あなたの手、いえ、血かしら? それが触れた途端あれだもの。何かあるんでしょう?」
「黙秘します」
肩をすくめて黙り込んだ護衛騎士に、クロエは目を吊り上げた。
「あのね、大事なことなのに秘密って何よそれ! 言いなさい!」
「このような事態は二度とないでしょう。であれば、言う必要もない」
「いいえ、気になるでしょ! 言いなさい、命令よ」
「お断りします」
「ぐむむ」
一向に口を開く気配のないレオンに、クロエは歯噛みした。アオルシが笑う。
「二人は仲がいいですね」
「仲がいいように見える!? ああもう……」
クロエは髪をかき上げた。湖水を渡る風が吹いて、彼女の艷やかな蜂蜜色の髪をなびかせる。湖は未だ水が湧き出ているようで、あちらこちらで波紋が揺れていた。
「一度、村に戻りましょうか」
クロエが言う。
「川は村の近くまで流れていったはず。村人たちに教えてあげなければ」
「では、我らは見送りに行こう」
族長が頷いた。
「川がどこまで流れているのか確かめたい。羊たちを連れながら、旅を続けるつもりだ」
そうして彼らは歩き始めた。かつての乾いた荒れ地、今は青々とした水の流れる川岸を。
荒れ地の村から一番近い川までは、北に半日ほどの距離がある。
しかし川に流れ込んだ水はゴウゴウと大きな音を立てたので、村人の幾人かが様子を見に行っていた。同時に村の井戸に水が満ちて、「クロエ様が本当に水脈を発見したんだ」と大騒ぎになっていた。
そんな中、遊牧民たちを引き連れてクロエが帰還した。
「クロエ様、水脈を見つけたんだね!」
ペリテが興奮を隠しきれない様子で飛び出してくる。
「ええ、そうよ。遊牧民たちの協力があって、上手くいったわ」
「川にも井戸にも水が溢れている。どうしたらいいか分からないくらいで」
「村長、何を言っているの。これからは水を好きなだけ使えばいいのよ!」
クロエがにやりと笑うと、村人たちも笑顔になった。
「そうか、そうだよなぁ」
「今までは水が貴重で、節約してばかりだったから」
わいわいと言い合う村人たちの前に、アオルシが進み出た。
「あの、クロエ様」
「何かしら?」
「俺をこの村に住まわせてくれませんか?」
「……え?」
クロエは族長を見た。彼は頷いている。アオルシは続けた。
「最初のきっかけは、この村の草だったでしょ。それが巡り巡って、こんな大きなことになった。俺、ちょっと感動してさ。クロエ様の近くで、役に立てたらいいなって思ったんだ」
「でもあなたは、遊牧の暮らしが好きだって言ってたじゃない。ここに住むのは、仲間と別れて定住するってことよ」
「うん、だから一生住むわけじゃないかも。少なくとも魔羊の飼い方を村の人に教えて、繁殖できるようになるまでかな。羊はいい生き物だよ。毛はあったかいし、お乳は美味しい。チーズやヨーグルトも作れる。肉は栄養がある」
「……いいの?」
「もちろんだ」
今度は族長が答えた。
「今回の件で、クロエ殿には返せぬほどの恩ができた。せめてこのくらいはさせてくれ」
「羊さん、村に住むの?」
ペリテは大喜びだ。
こうしてアオルシの他、数人の遊牧民が村に留まることになった。村は貧しくて食料を分かち合う余裕がないが、魔羊二十頭と飼育ノウハウの提供はあまりに大きい。乳を出す羊が交じっているので、当面の食料補強にもなる。しかも羊のエサは草があればいいのだ。魔羊は賢いため、しっかり教えれば畑の作物を食べないという。
「また立ち寄る。では、壮健でな」
族長はそう言って去っていった。
人と羊が増えた村は、にぎやかだ。まだまだ貧しく食べ物すら乏しいものの、かつて村を覆っていた絶望と無気力はもう存在しない。
季節は春。誰もがこの一年の未来に、明るい兆しを感じていた。
+++
「水の精霊の封印が解かれた、か」
荒れ地から遠く離れた王都の一室で、彼は呟いた。
「クロエ王女の追放が裏目に出たな。どうやら彼女を見くびっていたようだ」
どのように対処すべきか思案する。手っ取り早い方策は、王女の暗殺と水の精霊の再封印だろう。
けれどもう一つ懸念事項がある。封印の解放は王女だけでは成し得なかったはずだ。彼の知らないピースがあちら側に存在しているらしい。
(まずは事実関係の調査。次に状況に応じた手を)
だが荒れ地の村は小規模で、外部の人間を派遣すれば悪目立ちしてしまう。調査するにしても困難だった。
今の段階ではせいぜい、水の精霊が眠っていた場所を内密に偵察する程度だろう。
「少し様子を見ざるを得ないな……」
彼は窓から城下を見る。整然と並ぶ石造りの町並みは、彼が愛してやまない人々の業績だ。
奇跡などではない、地道な努力の積み重ね。それこそが彼の教え説くもの。人が人であるゆえの存在意義だった。
その聖域を侵すものがいれば、彼はどんな手を使ってでも排除するだろう。かつて、そうしたように。何度でも――。
これにて第2章は終了です。お読みいただきありがとうございました。
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