16:目覚め
草が――魔力の濃淡が描き出すそれは、明らかに何かしらの模様を描いている。けれど草が生えたのはウィルの丘の六割ほどであり、また、高さが足りないせいか模様の全体像は掴めない。
「クロエ様、どうしたんだ?」
「アオルシ。あなたの鳥の目スキルで……、いえ、先に丘全体に草を生やすのが先ね」
クロエが遊牧民たちに事情を話すと、彼らはどよめいた。
「丘全体に草を生やすために、もう一度協力してちょうだい」
「もちろんです!」
「水の精霊様が目覚めるかもしれないんだろ? すごいぞ!」
遊牧民たちはクロエに駆け寄って、手を握った。再びみんなで輪になる。クロエの魔力は残り少なかったが、気力を振り絞って草を生やし続けた。
「殿下」
そうして丘全体に緑の模様を描き終わった後、レオンが問いかけた。
「このまま儀式を進めて、本当にいいのですか。あなたの故国にとっては、精霊とは邪悪の存在。封じておくのが正しい行いでは?」
「あなたの故国? 妙な言い方をするわね。レオンの祖国でもあるでしょうに。それにね、ここまで来たら放置するのもどうかと思うわ。この丘には明らかに何かがある。本当に水の精霊だというのなら、水脈につながっている可能性が高い。水があれば、私の村が助かるのよ!」
「それは、荒れ地の開拓成功の実績を以て王都に帰還するためですか?」
問われてクロエは言葉に詰まった。追放された直後であれば、迷わず頷いただろう。
だが今はどうだろう。父王や兄王子を見返してやりたい気持ちはある。
クロエの心に村人たちの姿が浮かんだ。貧しさと飢えに苦しみながら、懸命に生きている人々。最初は『統治する村』だから立て直そうとして、無力を思い知らされた。子どもたちの手を借りてスキルの可能性に気づいた。それからは自分のできることをしたくて――。
「私は水が欲しい。水があれば村の畑がもっと実る。飢える者が減る。草地が増えて、羊たちも喜ぶ。水脈が手に入るなら、悪魔に魂を売ったっていいわ!」
クロエの口をついたのは、王族としての責任と、共に生きる者への思いやりが入り混じった言葉だった。
「精霊様は悪い存在じゃないよ」
彼女の横に立ってアオルシが言った。
「なんで救世教でそんな考えになったのか、分からないけど。俺たちはずっと昔から、精霊様の加護を受けて生きてきたんだ。それは間違いない!」
彼は空を見上げた。空の高いところを飛んでいく渡り鳥の一列を。両の瞳で空と鳥とを写し取って、目を閉じた。鳥の目スキルが発動したのだ。
大空を舞う鳥の視界はクロエには想像もつかない。彼女にとって高所とは、せいぜい王城のバルコニーだった。けれどきっと、そんなものとは比べ物にならないほど広い世界がアオルシには見えるのだろう。
「……あ」
「何か見えた?」
「うん。草で描いた輪がいくつも見える。重なり合って――『中央』は、あそこだ!」
アオルシが指さしたのは、とある丘の中腹。
「輪……。石板にあった『精霊の輪』ね。間違いないわ」
クロエは決意を込めて頷くと、そちらに向かって足を踏み出した。
そこは一見すると何もない丘の中腹だった。草はそこを避けるようにして、周囲を巡っている。
族長が屈み込んで地面に手を当てた。それから何度か地面を叩く。
「魔力が奇妙に渦巻いているようだ。それにこの感じ……地下が空洞になっているな」
「慎重に掘ってみましょう」
遊牧民たちの力を借りて地面を掘ると、やがて崩れて穴が開いた。アオルシが覗き込んでみたが、それなりに広い空間のようで奥までは見えない。
「ロープを準備してちょうだい。降りるわ」
「……私が先に」
まずレオンが穴に降りる。次いでクロエ、アオルシ、族長が続いた。地上に開いた穴から降り注ぐ陽光は、洞窟の一部を照らすのみ。
アオルシは松明に火をつけた。どうやらここは広間のようで、南に向かって通路があった。
一同は周囲を警戒しながら進む。通路は緩やかな傾斜で下へと向かっている。地下へと進むにつれて空気がひやりと冷たくなり、土と岩の壁に湿気が滲むようになった。
やがて通路は行き止まりになった。
「これは……」
行き止まりの壁には文字が描かれていた。水場の石板と似た形の文字。古代文字だ。
『ここに水が眠る。その眠りが永遠に続くよう、術を以て封じる。眠りを覚ますのは、守り人の血のみ』
レオンが読み上げる。
「守り人? 石板にもあった言葉ね。何のことかしら」
「クロエ様、試しに草を生やしてみたら?」
草で精霊の輪を描いたのはクロエだ。ここまでの立役者と言えるだろう。
彼女は頷いて、岩壁に手を当てた。
「お~っほほほほ! 草生えますわ!」
高笑いが洞窟の通路に響く。もう慣れてきたとはいえシュールな光景に、他の面々はちょっと虚無顔になった。
「何も起こりませんな」
「はぁ!? 魔力欠乏寸前で頑張ったのに、それはないでしょ!」
クロエが文句を言うが、いくら文句を言っても何も起こらないものは起こらない。
その後も族長とアオルシが壁に触れるが、やはり反応はなかった。
「レオン、あなたもやってみなさいよ」
「いえ、私は」
一歩下がる護衛騎士の手を、クロエは強引に取った。
「ここまで来たんだから、やるだけやってみないと損でしょ」
レオンは答えない。クロエの力では彼を動かせず、ため息をついた。
それからも壁に触れたり、文字をなぞったりしていると、ふとレオンが言った。
「殿下。たとえ精霊を呼び覚ますことになっても、水が欲しいのですか?」
「そうよ。さっきも言ったじゃない。この荒れ地に水があれば、どれほどの人が助かるか。……それに精霊も、悪魔と決まったわけじゃなさそうだし」
クロエは真剣な目で壁の文字を見つめている。最初は夢物語に近かった水脈が、目の前にあるかもしれないのだ。諦めきれるものではなかった。
「分かりました――」
レオンは壁に近づいた。腰の剣をすらりと抜き、刃を左の手の平を押し付けて引く。たちまち血があふれた。
「レオン?」
「殿下。あなたを信じてみます。村の子どもたち、森を追われた遊牧民たちに心を配ったあなたを」
レオンは血が流れる左手を壁に、文字が描かれた部分に押し付けた。
――刹那。血が触れた文字が、岩壁が強い光を放った。
あまりに強い光だったので、クロエは思わず腕で目を覆う。その隙間、彼女は見た。岩壁に亀裂が入り、さらに光が溢れるのを。
そしてその奥に光輝く何かがいるのを。
『ここまで来てくれて、ありがとう。わたしを呼んでくれて、ありがとう。森の裔よ。そして、祝福を受けし者よ』
光が揺らめいた。柔らかな女性を思わせる声が脳裏に響く。
『わたしはもう一度、この地を水で満たしましょう。いつかまた、森が生まれるように。いつかまた、偉大なる樹が根付くように』
光であるそれはそっと手を伸ばして、レオンの額に触れた。
『あなたの生命が、実り豊かなものでありますように。――愛し子の末裔、守り人よ』
光の奔流。魔力感知スキルを持たないクロエにすら、圧倒的な圧力が感じられる。
次いで大地が揺れた。目覚めの鳴動を思わせる動きは、やがて轟音となって洞窟を揺るがした。