15:西の丘
「とりあえず、行ってみればいいのではないですか?」
そう言ったのはレオンだった。
「水の精霊が眠っているとして、解き放つ方法は曖昧だ。できるとも限りません。何も起こらなければ、それはそれでよし。危険な兆候があればすぐにその場を離れる。いかがです?」
「まぁそうね。このままここにいても、できることはもうないし」
生えた草は村の周辺と違い、すぐに根付いて育ち始めた。少しばかりの魔力と水の有無の差は大きい。この様子であればクロエが離れても問題ないだろう。
「行ってみましょう。ウィルの丘とやらへ」
水場からウィルの丘までは、四日ほどの行程になる。
それまでにクロエは遊牧民から色々な話を聞いた。
例えば、歌に出ていた森のこと。遊牧民の古い神話では、荒れ地は森だったのだそうだ。豊かな森が大地を覆い、遊牧民の祖先はその恵みを享受しながら暮らしていた。ところがある時森は枯れて、彼らは荒れ地をさまよう羽目になったという。
「この荒れ地が森だった? ちょっと信じられないわね」
クロエが眉を寄せると、話をしてくれた古老は柔らかく微笑んだ。
「太古の昔の話です。森を失ったご先祖様は苦労したようですが、なればこそ今の我らがある。風の精霊に導かれ、水の精霊が降らせる雨の匂いを追い、草を探して。羊と共に生きる暮らしも、悪くありませんよ」
「精霊、か……」
こうして自然と共に生きる彼らを見ていると、救世教が唱える精霊像が揺らいだ。もしくは彼らの言う精霊と救世教においての精霊は、別の存在を指しているのかもしれない。少なくともクロエは、精霊を悪魔だと言うつもりがなくなっていた。
遊牧民との旅暮らしは意外に楽しくて、日々移り変わっていく荒れ地の光景は、新鮮な驚きを与えてくれる。同じように見える不毛の地も、彼らにとっては少しずつ違う馴染みの土地。季節ごとの雨の傾向や渡り鳥の動きを教えてもらえば、クロエの目にもまた違うものが見えてきた。定住して畑を耕す村の暮らしとはまた違う視点だった。
遊牧民たちと交流を深めるクロエを、レオンは一歩離れた場所から見つめている。鋼色の瞳は表情を消しており、何も悟らせなかった。
そうして四日が経ち、クロエたちはウィルの丘に到着した。
周囲を見渡してみれば、南側から枯れた川の跡が丘にぶつかって途切れている。丘自体はなだらかな起伏がいくつか連なった形になる。
「石板の言葉によると、ここの中央に水の精霊が眠っているのよね。で、精霊の輪を描く。それからナントカの守り人の力で目覚めさせる、と」
「中央ってどこだろう?」
アオルシがきょろきょろと周りを見ている。丘には特に目印になるようなものもなく、地形上も真ん中と呼べるような場所はない。空を渡り鳥らしき鳥が飛んでいるのみだ。
「お、鳥がいるな。ちょうどいい、目を借りるよ」
「目を借りる?」
「うん。俺のスキルは【鳥の目】。鳥の視界から見えるものを、俺も見ることができるんだ」
「へぇ、すごいじゃない」
クロエは素直に感心した。セレスティア王都では見かけなかった種類のスキルである。自然と共に暮らす遊牧民ならではの適性かもしれない。
アオルシは照れくさそうに笑った後、空を振り仰いで目を閉じた。閉じたまぶたの下で眼球が動いている。
クロエが空を見上げると、まっすぐに飛んでいた渡り鳥が旋回する動きを見せていた。アオルシのスキルは視界を借りるだけでなく、鳥の動きにもいくらか干渉できるようだ。
「……うーん、空から見ても何もないなぁ」
しばらく後、目を開けたアオルシががっかりしたように言った。渡り鳥たちは一声鳴いて、また飛んでいく。
(遊牧民たちの歌で鳥がどうのと言ってたけど、関係なかったのかしら)
クロエはため息をついた。どうにも手詰まりである。
「せっかくなので、ここでも草を生やしていきますかな?」
と、族長。
丘はちらほらと低木が生えており、まばらに草地も見える。荒れ地の他の場所に比べれば、格段に緑が多かった。ただし他の場所に比べれば、という前提なので、豊かに茂っているというほどではない。羊たちは物足りなさそうだ。
クロエは気持ちを切り替えて、草を生やすことにした。
「まあ、ここまで付き合ってもらったしね。じゃあみんな、靴を脱いで手を繋いで」
「はーい」
遊牧民たちと輪になって笑い声を上げると、草はそこそこの勢いで生え始めた。村の周辺で苦労していた時よりもずっと生えやすい。やはり土地の魔力は重要なのだと、クロエは実感した。
輪になったまま少しずつ移動していけば、歩いた後に緑が芽吹く。なだらかな丘を登り、下って、クロエの魔力が続くだけ草を生やし続けた。羊たちは大喜びだ。
「ふう。こんなところかしら」
丘陵地帯の半ばを輪で巡り、丘の一つのてっぺんでクロエは足を止めた。魔力はそろそろ残り少ない。歩いてきた丘の斜面に、緑のベルトが走っているのが見える。
「…………?」
丘の上から周囲を見下ろしたクロエは、ふと違和感を感じた。草の生え方に妙にムラがあるのだ。ある場所はしっかりと緑で覆われているのに、少し離れた場所は地面がむき出しのままになっている。
「みんな、見て。どうしてあんなにムラがあるのかしら?」
「足で直接踏んだ場所と、そうでない場所の違いでは?」
族長が顎に手を当てるが、クロエは首を振った。
「いいえ。だって水場の時は、輪になって踏まなかった場所でもちゃんと草が生えたもの。あんなふうにはならなかった」
「確かに……。調べてみましょう」
丘を少し下る。族長が膝をついて地面を触った。
「魔力の流れに微妙な差異がある。こうして意識して触れてみなければ、気づかないほどの差だ」
「草は魔力に反応したのね」
ムラが出る原因は分かったが、クロエはまだすっきりしなかった。先ほど丘の上から見下ろした時、草地のムラは何かの模様のように見えた気がしたのだ。
(土地の魔力が何かを描いている?)
もう一度丘を登る。できるだけ高いところから辺りを見下ろして、疑問は確信に変わった。