100:空へ
ガラスの張り巡らされた最奥の部屋に、嵐のような風が吹く。バチバチと音を立てて雷光が閃く。
しかし強風は透明な壁に触れると勢いを失い、雷光すらも散らされた。この壁は精霊の力を弱めて封じる効果があるようだった。
『チッ、エリュシオン王国の奴らめ。この俺様を閉じ込めるとは、忌々しい』
エリュシオン王国とは、クロエたちの言う古代王国のこと。大鷲――風の精霊は舌打ちをして、窮屈そうに翼を広げる。
「風の精霊よ。あなたの力を貸してほしいの」
クロエが一歩踏み出した。
「世界樹の種を芽吹かせて、大地の眠りを食い止めたい。そのためには四大精霊全ての力が必要だと聞いたわ」
『あぁ、そうだ。……何だ、他の奴らはもう目覚めているのか。よりによって俺様がビリとか、ふざけてんのか、おい』
「ずいぶんガラが悪いわね」
クロエが小声で言うと、風の精霊は翼をはためかせた。
『聞こえているぞ、小娘! ったく、ちくしょうめ! だから俺様は嫌だったんだよ、人間に力を貸しすぎるのは。水も大地も火もお人好し野郎だ。尽くした結果が封印ときた。けったくそ悪ィ!』
風の精霊が翼を打つたび、稲光が走る。すぐに散らされるものの、ビリビリと魔力の圧がクロエたちを襲った。
『俺様は風の化身。天の理と俺様自身の心に従い、自在に空を駆ける者。大地はお前を大事にしているようだが、知ったことか。この狭苦しい檻を出れば、後は好きにする!』
風の精霊は両翼を広げた。封印の扉は消失している、今にも飛び立ってしまいそうだ。
「待ってくれ、風の精霊よ!」
レオンが声を上げた。
「先祖の無礼は伏して詫びよう。しかしどうか今は、力を貸してくれないか。世界樹と精霊の森が復活した後は、俺の命を取ってくれても構わない。だからどうか、頼む!」
『……世界樹の守り人か。あの小僧、いや、小娘の方の子孫……瞳がよく似ている』
風の精霊は唸るような声で言う。
『血の契約は今でも有効。クソッ。仕方ねえ、今回だけだ! あとなあ、てめーの命なんかいらんわ。もらってどうすんだよ、食えるわけじゃなし。俺様の望みはただ一つ、心のままに空を駆けることだけだ』
「ありがとう、風の精霊」
クロエとレオンが礼を言うと、風の精霊はじれったそうに足踏みした。
『礼もいらねえ。そういうの、背中がかゆくなるんだよ!』
「照れてる……」
ヘルフリートがぼそっと言うと、風の精霊はものすごい目で彼を睨んだ。ヘルフリートは蒼白になってクロエの陰に隠れる。
『ガタガタうるせえ! 世界樹を芽吹かせるんだろ。だったら四の五の言わずに俺様に乗れ。他の奴らが待つ場所まで、飛んでいってやる』
「すごい! あなたに乗っていいの?」
クロエが目を輝かせると、風の精霊は得意そうに胸を張った。
『おうよ。……おっと、乗るのは守り人と大地の愛し子だけだ。赤毛の男は知らん』
「そんな! 四大精霊を目の当たりにして、しかも触れられると思ったのに」
ヘルフリートがクロエの陰から顔を出して、また睨まれている。
『てめぇ図々しすぎんだろ。この部屋から漏れ出した俺様の魔力、勝手に使っていたの、知ってんだからな。漏れた魔力なんぞウンコみてえなもんだが、勝手に使われりゃあ気分悪いぜ』
「……ガラが悪い上に品もないわね」
『何なんだよ、てめえら! 四大精霊様に対して敬意がなさすぎんだろ! エリュシオン人だってもうちっとマシだったわ!』
「だって、ねえ」
「今まで他の四大精霊に会ってきたからな。火も大概だったが、風がここまでとは予想外だった」
ぐだぐだである。
風の精霊は怒りに任せて雷光を飛ばし、全て不発に終わって地団駄を踏んだ。
『もういい! さっさと乗れ』
一際強い風が吹いて、クロエとレオンの髪を吹き上げる。不可視の魔力の腕が伸び、二人を風の精霊の背中へと押し上げた。
『さあて、行くぜ。振り落とされないよう、しっかりつかまってろよ!』
羽ばたき一つ。風の大鷲は飛び立った。
「ヘルフリート! 後のことは頼んだわ!」
「分かった! 任せてくれ!」
消え去った扉を抜けて遺跡の外へ、大空へ。
一閃の稲妻と化した風の精霊は、千年ぶりの空を駆けていった。
クロエの耳元を強風が吹き抜ける。眼下にはたなびく白い雲。
遺跡を飛び出した風の精霊は、山の上空で一度旋回すると、西へ向かって飛行を始めた。
翠緑の翼が雲を打てば、さらにぐんと加速する。まるで風そのもののように、大鷲は大空を自在に駆ける。
「すごい……!」
蜂蜜色の髪をなびかせて、クロエが目を輝かせる。高く高く飛び立った風の精霊は、素晴らしいスピードで飛んでいた。
広い荒れ地の風景が、みるみるうちに流れていく。遠くにミルカーシュの火山が見えて、また遠ざかる。
点々と広がる緑の色は、荒れ地に広がりつつある緑地だろうか。
「あっ! 今、白い点が見えたわ。きっと羊よ。族長がいるかもしれない!」
クロエが弾んだ声でレオンの袖を引いたので、彼は苦笑した。
大地の眠りの話を聞いて以来、クロエはずっと気を張っていた。たとえ一時的であっても、こうして楽しげな様子を見せてくれるのは、レオンとしても嬉しい。
とはいえ、初めての飛行体験にはしゃいでばかりはいられない。
「風の精霊よ。我々はどこに向かっているんだ?」
『水が眠っていた場所だ。あそこは今は湖だそうだな。水と大地が地脈を整えて待っている』
水の精霊が封印されていた土地は、かつては丘陵地帯だった。水の精霊の目覚めと同時に大量の水が噴出し、丘は陥没して湖になっている。丘は一つだけ水上に残って、中島になっていた。
「どのくらい時間がかかる?」
『すぐだ。俺様の翼を舐めるなよ』
東の魔道帝国の領土からクロエの領地までは、馬車の旅であれば二ヶ月もかかる距離である。それを『すぐ』と言い切る風の精霊は、信じられないほどの速度で飛行していた。
だが。
ふと空が暗くなった。雲は下に見えるのに、太陽の光が翳っている。
レオンが疑問に思う暇もなく、それは突如として襲いかかってきた。
――バヂッ!!
黒い――否、灰色の稲妻が網の目のように広がり、風の精霊を捕らえようと迫ってくる。獣の爪めいた意志のある動きは、回避を続ける風の精霊を徐々に追い詰めた。
風の精霊が、強大な四大精霊が防戦一方に回っている。クロエはその光景が信じられなくて、叫んだ。
「いったい何事!?」
間近に迫った灰色の光を剣で払って、レオンが叫び返した。
「古代王国の魔法だ! 誰かが風の精霊を攻撃している!」




