10:訪れ
ある日、クロエと子どもたちが原っぱで輪になっていると、荒れ地の北側に土埃が立っているのが見えた。
土埃はみるみるうちに近づいてきて、原っぱまでやって来る。その正体は、たくさんの羊たちであった。
「やあ、こんにちは! こんなところに草地があるなんて、すごいね」
羊の群れの陰から、一人の少年が顔を出した。十代前半と思しき年頃で、赤茶の髪に鳶色の目をしている。
羊たちは原っぱに殺到すると、むしゃむしゃと草を食べ始めた。
「あっ、こら! あたしたちの草、勝手に食べるなー!」
「めぇ~」
ペリテが顔を真っ赤にして羊の毛を引っ張るが、びくともしない。羊飼いの少年は焦ったように眉尻を下げた。
「ご、ごめん! この草、食べちゃ駄目だった? こいつら、クローバーが大好きで。見つけたら止まらないんだ」
「別にいいわよ、雑草だから。畑の作物は駄目だけどね」
クロエが答えると、少年はほっとした顔になった。
「良かった。……俺はアオルシ、一族の長を父に持つ羊飼いだ。荒れ地で遊牧しながら暮らしているんだけど、こっちの方まで来たのは初めてで。村があるのも、草地があるのも知らなかった」
「私はクロエよ。じゃあどうして今日は来たのかしら?」
「羊たちがどうしてもこっちに行きたいって、騒いで。こいつら、エサがある場所が分かるんだよ」
アオルシは草を食べ続ける羊の頭を撫でた。羊はちょっと目を上げて「めぇ」と鳴く。
「クローバー、すごくウマいってさ。こんなにウマい草は久々だって言ってる」
「あなた、羊の言葉が分かるの?」
クロエが驚くと、アオルシは得意そうに鼻をこすった。
「まあね。俺たちは羊と共に暮らす遊牧民。心が通じ合っているんだ。特にこいつらは魔羊といって、普通の羊よりも強くて賢い種類だから」
「あたしだって草と心が通じ合っているもん!」
ペリテが負けじと声を上げた。
「草、食べられて悲しいって言ってるよ!」
「うっ、ごめん。でも羊は草を食べるけど、蹄で大地を耕して、フンをして土を豊かにするから。それで許してくれない?」
「…………」
ペリテはアオルシと羊、草地を交互に眺めて何やら考え込んだ。ややあって口を開く。
「……じゃあ、しかたない。許してあげる」
「ありがとう! 草と心が通じているの、本当なんだね」
「ふふん」
胸を張るペリテを微笑ましく見た後、クロエはアオルシに向き直った。
「あなた、アオルシといったわね。遊牧して暮らしているそうだけど、羊たちのエサはどうしているの? 見渡す限り荒れ地で、ろくな草は生えていないと思うけど」
「それは季節と場所による。少しでも雨が降れば草が生えるし、水場もある」
「水場があるの!?」
クロエは思わず声を上げた。
この乾ききった荒れ地に水場があったとは。
「水場はどこにあるの?」
クロエは真剣な表情で尋ねるが。
「あー、ごめん。一族の掟で場所は教えられないんだ。水は貴重で、奪い合いになってしまうから」
アオルシは申し訳なさそうに下を見ている。クロエは鼻を鳴らして、頭の中で素早く作戦を立てた。
「あっそう。私の村の草をさんざん食い荒らしておいて、勝手なことを言うわけね」
「えっ。草、食べてもいいって言ったじゃん!」
慌てる少年に、クロエは追撃をかけた。
「いくら何でも食べすぎでしょ。こっちだってタダで草を生やしたわけじゃないのよ。今すぐ羊どもを止めなさい!」
「む、無理だよ! こいつら満足するまで動かないもん」
「なら水場を教えなさい。水が貴重なら草だって貴重なのよ!」
「ううっ……」
アオルシは泣きそうな顔で羊の一頭に抱きついた。羊は少し困ったように「めぇぇ」と鳴いた。
「俺だけじゃ決められない。父さんに相談しなきゃだから、一度戻りたい」
「ふうん、いいけど。逃げる気じゃないでしょうね。草の食い逃げ」
「逃げないよ! 草のお礼はちゃんとする。信じてくれ」
「なら、羊を……そうね、五頭ばかり置いていきなさい。お前が逃げたら羊はいただくわ」
クロエが言い放つと、アオルシは目を丸くして羊をぎゅうっと抱きしめた。
「五頭も!? 人質、いや、羊質なら一頭でいいだろ!」
「冗談。私にはお前を信じる義理はないのよ。五頭か、それとも今すぐ水場に案内するか。選びなさい」
クロエの背後でレオンが「悪辣……」と呟くのが聞こえたので、足を踏んでおいた。もっとも素足でブーツを踏んだので、物理的ダメージは皆無に違いない。
クロエの言い分は無茶苦茶である。最初に草を食べていいと言ったにもかかわらず、さっさと前言撤回して羊質まで要求した。アオルシがその不条理に気づく前に、勢いで押し切ってしまう作戦だった。
「選びなさい、さあ!」
「う、う……」
「煮えきらないわね。仕方ない、羊は三頭で勘弁してあげるわ。これでいいでしょ、さっさと行ってきなさい!」
元々の要求が無茶なので、五頭を三頭にしたところで譲歩でも何でもない。しかしクロエの勢いに飲まれたアオルシは頷いてしまった。
「わ、分かった。三頭なら」
彼はピュイと指笛を吹いた。草を食べていた羊たちがぴくりと顔を上げる。ピュイ、ピュウ、と少しだけ調子を変えて指笛を吹けば、羊たちはぞろぞろとアオルシの周囲に集まってきた。どの羊も満足げな顔をしている。どうやらそれなりに満腹になっているらしい。
その羊たちの頭を撫でて、アオルシは三頭を前に出した。
「ごめん、ごめんな、お前たち。必ず帰ってくるから、待っていてくれ。……クロエさん、この子たちを傷つけるような真似はしないでくれ」
「何よ、人を悪者みたいに。あと、私のことはクロエ様と呼びなさい」
「はぁ。クロエ様」
「よろしい。では、いつまでに戻るかしら?」
「四日以内には」
「分かったわ。四日が過ぎたら羊を解体して羊肉パーティを開くから、そのつもりでいなさい」