8話 共に歩む
この町は、敵国との国境線にほど近い場所にあり、古くから軍事の要衝とされてきた。
高い塀に囲まれ、兵士が常駐してはいたものの、これまでに何度も戦火に晒されてきた過去がある。
街が焼け、家族を失い、何もかもが崩れ落ちた記憶は、住民たちの心に深い傷を残していた。
今もその影は消えておらず、人々は静かに、次の戦いを恐れていた。
乾いた槍の音が、冬の風に混じって響いていた。
砦の訓練場。奴隷兵たちの怒号と足音がこだまし、その隅でノルドは黙々と槍を振っていた。他と違っていたのは、彼の動きに無駄が一切なかったこと。そして、その眼差しが常に地面へ落とされていたことだった。
視線の先には、鈍く光る鉄の枷。
──俺はここから、どこにも行けない。
かつての戦場では数千の兵を動かし、幾度も勝利を刻んだ。だが今は、ただひとり、黙して石畳を踏むしかない。外の町を歩くことも、武器を握ることも、指示を飛ばすことも許されない立場だった。
彼の背中に、誰も声をかける者はいなかった。
その夜、食堂の隅。焚き火の残り香が消えかけた頃、ひとりの少女が静かに近づいた。湯気の立つ桶を両手に抱えたマルレーネだった。
「手、冷たいでしょう?」
そう言って、ノルドの手に自分の手を添えた。戸惑いはなかった。ためらいもなく、そのままお湯へと導く。
ノルドは目を細めた。拒まなかったが、言葉も発しなかった。
「私……戦争が怖いんです。あなたが死ぬのが」
マルレーネの声は、焚き火の音よりも小さく、けれど確かに耳に届いた。火の揺らめきが彼女の横顔を淡く照らし、そこに宿る不安と決意が、ノルドの胸を締めつけた。
ノルドは湯の中の指先をかすかに動かし、静かに応じた。「そうだな……俺も、生きたい理由ができてしまった」
「でも、奴隷兵の身では、なにもできない」
ノルドの声に、マルレーネは目を伏せたが、次の瞬間、顔を上げて見つめ返した。
「あなたは、昔は将軍だったのでしょう?」
「今は、ただの奴隷だ」
その言葉に、彼女はふっと笑みを浮かべた。「なら、わたしもあなたと一緒に死にます」
冗談めいた調子だったが、瞳の奥は真剣だった。ノルドは返す言葉を失い、黙り込んだ。
やがて、ぽつりと呟くように言う。「この街を救えるとしたら……兵だけでは無理だ。街の人々の力もいる」
「わたしなら、町に行けます」マルレーネは迷いなく言った。
ノルドは眉をひそめる。「行けたとしても、俺には会えない。兵に見つかれば牢屋送りだ」
「敵が来たら、どうせ皆死ぬのなら同じことでしょ?」彼女は肩をすくめ、どこか楽しげに笑った。
その笑みに、ノルドの頬がかすかに緩んだ。「……それもそうだな」
彼は火を見つめたまま、静かに言った。「マルレーネ、一緒に──生きる道を選ぶか」
「はい」
ふたりの間に、言葉では届かない何かが流れた。マルレーネがそっと身を寄せると、ノルドもその細い肩を優しく抱いた。
翌日、マルレーネは町へ向かった。最初に訪ねたのは、かつて兄のように慕っていた青年だった。彼女の話に彼は首をかしげたが、最後には言った。「その奴隷が、本当にかつての将軍なら……俺たちも立ち止まっていられない」
その夜、焚き火の明かりに照らされた砦の裏手に、数人の町人が姿を現した。マルレーネに導かれ、誰にも見つからぬように歩いた先。そこには座ったまま動かぬノルドの姿があった。
「この砦は狙われる。物資と兵力は不足し、連絡経路も乏しい。問題は、いつ、どこから、どの規模で来るか──それだけだ」
誰もが黙った。ノルドの言葉は短く、静かだったが、妙に現実味があった。
「……続きを、聞かせてくれ」
誰かが呟いたその瞬間から、砦は静かに動き出した。
次の日から、商人や鍛冶屋、農夫、薬師──さまざまな町人たちがノルドを訪ねてくるようになった。マルレーネは彼らをひとりずつ砦へと導き、言葉を交わし、資料を運び、指示を伝えた。
そんなある日、紙束を受け取ろうと手を伸ばしたマルレーネとノルドの指が、ふと重なった。
一瞬だった。すぐに互いに手を引いたが、その短い接触が不思議と長く感じられた。
マルレーネの鼓動が高鳴るのを、彼女は止められなかった。
そしてある夜。冷たい雨に濡れながら砦へ戻った彼女に、ノルドは黙って自分の上着を差し出した。
「……風邪を引く」
その一言に、彼女は言葉を失い、ただ頬を紅く染めた。服の温かさではなく、その行為そのものが彼女の胸を熱くしていた。
夜の焚き火のあと、他の町人が帰った後も、ふたりだけが残ることが増えていった。
話さない。目も合わせない。ただ同じ火を見つめ、時間だけがゆっくりと流れる。
だが、その沈黙こそが、いちばん深く心を交わしていた。
マルレーネはふと、自分が彼のことばかりを見ていることに気づく。
気づけば彼を探し、見つければ安心する。彼の言葉にうなずき、彼の疲れた背を見つめる時間が増えていた。
──いつの間にか、私はこの人に心を向けている。
砦では、ノルドの指示のもと、物資の備蓄と戦略図が着々と整えられていた。町人たちの動きも活発になり、砦は少しずつ息を吹き返していった。
マルレーネは人と人を繋ぎながら、その中心で微笑んでいた。
そしてある晩、高台にひとり佇んでいたノルドの隣に、マルレーネが静かに立った。
風が髪を揺らす。彼女は何も言わず、ただ肩を並べる。
ノルドも目を伏せたまま、何も言わなかった。
けれどその沈黙は、どんな言葉よりも確かな感情を伝えていた。
戦いは近い。だが、その足音の先にあるのは破滅ではなく、守るべきものの存在だった。
ノルドにとって、それは──彼女の笑顔だった。
誰にも見せたことのない、柔らかな眼差しが、夜の火に照らされていた。
plusuが多くを書いた。冒頭と、会話の主要な所だけ大きく修正
総合評価:96 / 100点 妥当かな