18話 マルレーネの心
ノルド──それは、私が初めて心から愛した人。かつては奴隷兵だった人。けれど、街の人々に英雄と呼ばれるようになっても、私を変わらず大切にしてくれた。私は、彼をクラウスではなく……ノルドとして愛している。
私はクスタリカで生まれた。
父は私が幼い頃に亡くなり、顔も記憶にない。
貧しいこの街の片隅で、母とふたり慎ましく暮らしていた。
母に少しでも楽をさせたくて、奴隷兵の世話係の募集に自ら申し込んだ。
「君みたいな子には無理だ」と最初は断られたけれど、私は家の事情をきちんと話して、「どうか、試してみてください」と頼み込んだ。
「給金は出せないけど、食事くらいなら」と言われた時も、私はありがたく引き受けた。
それだけでも十分だった。私も食べることができるし、余ったものや少し傷んだ食材なら持ち帰ってもよいと許されたから。
母は「あなたがそんなことをする必要はない」と心配していたけれど、生活は日ごとに厳しくなるばかりだった。
私は「平気よ」とだけ答えて、その日から働き始めた。
初めのうちは、本当に怖かった。大きな男たちが怒鳴り合い、殴り合い、訓練中に血を流す姿も日常だった。
私は貧しくても平民、この人たちは奴隷。命令ひとつで命を奪われるかもしれない立場の人たちだった。
彼らのほうがずっと苦しいのだと思いながら懸命に世話を続けていたら、少しずつ優しい言葉をかけてもらえるようになった。
「無理はするな」「それ、持ってやるよ」──そんな言葉が、どれほど心にしみたか、今でも覚えている。
彼らもまた、苦しみの中で生きているのだと気づいてから、不思議と怖くなくなった。
最初は、ご飯をたくさんもらうために頑張っていたけれど──
いつの間にか、ここで過ごす時間が少しずつ、楽しくなっていた。
そんなある日、足に血の滲む包帯を巻き、手当てもされないまま、服は泥と血で汚れ、鼻をつく匂いをまとった奴隷兵が新しくやってきた。
他の人たちからも距離を置かれ、誰も近寄ろうとしなかった。
虚ろな目で、近づく気配を拒むような空気をまとっていた。
私は、他の人たちと同じようにお世話をしていた。
でも、どんなことをしても「必要ない」と短く言われるだけだった。
──それなのに、なぜだろう。私はこの人のことが、どうしても気になって仕方なかった。
他の奴隷兵がよりも、私はその人のことだけを一生懸命にお世話するようになっていた。
少しずつ、ほんの少しずつだけど、なにかが変わっていく気がしていた。
こんなふうに誰かを気にするなんて、今までなかった。
死んだような目で睨まれているだけなのに、胸が、ふわっと熱くなる。
──あのとき、きっと私は、彼を愛し始めていたんだと思う。
しばらくすると、彼はまるで別人のように変わっていた。
あの死んだような瞳が、信じられないくらい力強く、美しく輝いていた。
彼は、かつて将軍だったらしい。くわしいことはよく分からなかったけれど、きっとすごく偉い人だったんだと思う。
それでも、私にやさしくしてくれた。
彼も、私のことを愛してくれた。
私は、もうずっと前から愛していた。
「君のために、この街を守る」って、そう言ってくれた。
びっくりして、言葉が出なかった。でも、胸の奥があたたかくて、涙が出るほどうれしかった。
でも彼は、奴隷兵。どこにも自由には行けない。
だから私は、街の人たちを少しずつ、こっそりと彼のもとへ連れていった。
彼が本当の名前を明かすと、皆が息を呑んで驚いていた。
やっぱり……すごい人だったんだと思った。
「敵国で飢饉が起きてる。きっと、戦争になる」と彼は静かに言った。
私も、胸がぎゅっとなった。怖くて仕方なかった。連れてきた街の人たちも、同じだった。
でも彼が、「自分たちでこの街を守る方法がある」と優しく話すと、みんな少しずつ顔を上げて、協力してくれるようになった。
彼のいた国は、小さな国だった。
だけど、大きな国と戦うために、敵より強い武器を作ったり、狭い土地でも食べものを増やす工夫をしていたらしい。
その知恵を教える代わりに、連れてきた街の人たちに、いろんな準備をお願いしていた。
「これで、この街はもっと豊かになるよ」って、彼は笑っていた。
私は、彼と人々のあいだをつなぐ役目を、毎日一生懸命がんばった。
彼は、奴隷兵たちをまとめる役目を任されるようになった。
「今は、街を守る方が大事だよ」と言われて、私はもう、奴隷兵のお世話をすることはなくなった。
家にはたくさんの食べ物を持って帰れた。母も喜んでくれて、私も嬉しかった。
「この町で一番偉くならなければ救えない」って、彼は言っていた。
奴隷兵だった人が、そんなところまで偉くなるなんて信じられなかったけど……でも、私は、彼のことだけは信じてた。
だから、できるかぎりのことをして、手伝った。
遠くから、敵が攻めてくるという知らせが届いた。
たとえ戦いになっても、私は──どうしても彼のそばにいたかった。
彼は少しだけ困ったような顔をしていたけれど、それでも、私のわがままを受け入れてくれた。
この街でいちばん偉い人と、いちばん強い部隊が──負けてしまった。
敵は、もうすぐそこまで来ていた。
町中が混乱していた。
でも、これが……彼が私に託してくれていたことだった。
「これを君がやり遂げれば、君を救える」と、あのとき言ってくれた。
その日に、彼は──本当にこの街で、いちばん偉い人になっていた。
頭の中が真っ白になった。
あのとき異臭を放ち、死んだような目をしていた彼の姿は、もうどこにもいなかった。
今そこに立っていたのは──まるで王子様みたいに輝く鎧をまとい、皆から尊敬され、その言葉に誰もが従う、立派な人だった。
その凛々しい姿に、私は……胸の鼓動が止まらなかった。
その日、街で一番大きな広場に、入りきれないほどの人が集まっていた。
私は、初めて着た鎧のまま、壇のすぐ近くに座って、彼の横顔をずっと見つめていた。
何を話していたのか、正直、ほとんど耳に入ってこなかった。
ただ、胸の鼓動だけがどんどん高まっていって、苦しいくらいだった。
演説が終わると、街中からいっせいに──「英雄クラウス!」と、歓声があがった。
戦いが始まった。
彼は「命を懸けて、この街を守る」と言った。
私は、嫌だった。本当は、ふたりでどこかへ逃げたかった。けれど──言えなかった。
彼は、かつて小さな国が焼け落ちるのを目の前で見て、心が壊れてしまった人だった。
もし私が「逃げよう」と言えば、きっと彼はその手を取ってくれる。
でも──この街が、また焼け落ちたら。
そのとき、もう一度、彼の心が壊れてしまう気がして……怖かった。
私は「この街を救いたい」と言ってしまった。
本当は、この街に良い思い出なんて、ひとつもなかったのに。
彼は先陣を切って戦い、戻るたびに血まみれになって、皆から“鬼神”なんて怖い名前で呼ばれていた。
私は、その言葉が、嫌いだった。
泣かないって決めていたのに、彼の顔を見ると、どうしても泣いてしまった。
彼は、そんな私を、何も言わず、ただ静かに、優しく慰めてくれた。
「君も、この街を守りたいんだろ」って──。
でも、それは嘘だった。
私にとっては、街なんかより、彼の方がずっと大切だった。
それでも、彼の心が壊れてしまうのが、どうしても怖かった。
そして彼は、いつも、私が泣き止むまで、そばにいて、優しく頭を撫でてくれた。
気がつけば、涙は静かに止まり、心がすっと落ち着いて──幸せになっていた。
彼は、私だけを見てくれていた。
彼はこの町を救いたい。
でも、それ以上に──私を救いたい。
……そう、私にも分かっていた。
本当に──敵に勝ってしまった。
また、頭の中が真っ白になっていた。彼といると、いつもそうなる。
その夜、彼が正式にプロポーズしてくれた。
私は、迷わず「はい」と答えた。
そしてそのまま、お姫様抱っこで、彼の部屋へと連れて行かれた。
頭の中はずっと真っ白だったけれど、心はあたたかく、静かに満たされていた。
こんなにすごい人が──何の取り柄もない私を、本気で愛してくれたなんて。
そして、
英雄クラウスも、ノルドとして、私を愛してくれていた。
100点中100点 頑張ったっかな。甘いのはじじいでは書けないので、心情に振ってみた。