16 慢心
クスタリカを包囲する十万を超える大軍。その陣頭に立つ総司令官、グラディオス・ダルザーンの胸に、ひとつの欲が芽生えていた。
──もう一度、あの愚かな将軍が夜襲を仕掛けてくれれば。
勝者の誤算。敗者の綻び。どちらも戦場にはつきものだ。だが、もしそれを繰り返させることができれば──戦わずして勝てる。
「街を壊す必要などない。敵自らが崩れてくれるのなら、それに越したことはない」
グラディオスはそう呟き、まずは様子を見ることにした。
そして──三日が過ぎた。
その間、クスタリカの街からは何の動きもなかった。夜襲もなければ、陽動らしき挑発もない。
焚き火の前に座ったグラディオスは、ちらと火の揺らぎを見つめながら呟いた。
「やはり、あれほど愚かな指揮官はいないか……」
その声音には、落胆が混じっていた。
翌朝には総攻撃を命じると決め、伝令を各陣へと走らせた。
だがその夜──密やかな蹄の音と共に、再び敵が動いた。
夜襲の報が届いたのは、明け方近くだった。
報告は整っていた。敵は無謀な突撃を試み、多大な損害を出したという。一方、こちらの被害は軽微とのこと。
「ふふ……」
グラディオスの口元が、ゆっくりと綻ぶ。
「これで街は壊さずに手に入る。ロクス──何たる愚か者よ。自らの首を絞めてくれるとはな」
彼は総攻撃の命令を、即座に撤回した。
その夜にも、またしても夜襲があった。
報告を受け取ったグラディオスは、わずかに眉を上げた。
驚きはあったが、それは怒りでも焦りでもない──歓喜に近い感情だった。
「そんなに自滅したいのなら、望みどおり自滅するまで付き合ってやるか」
そう言って彼は笑った。高らかに、勝者の余裕に満ちた笑みだった。
以後も、数日おきに夜襲は繰り返された。
敵の損害は次第に減ってきていたが、それでも味方の被害は「ほとんどなし」と報告され続けていた。
だが、最前線を預かる指揮官たちは、次第に窮地に追い込まれていた。
兵士が数千も逃亡したなど、今さら報告できるはずがない。言えば、首が飛ぶ。
「敵が亡骸を持ち帰っているのでは……?」
そんな疑念が、幾人かの間でささやかれた。
だが、それもつまりは「こちらが大損害を被っていた」と認めることになる。
敗北や逃亡を報告すれば、責任を問われる──いや、問われるどころか、命も危うい。
負け戦であれば、損害を正確に伝えねば、さらなる被害を招く。
だが今回は違った。
完全な勝ち戦──誰もがそう信じていた。
勝っているのだ。細かい数字にこだわる必要はない。
多少の誤差など、あとから帳尻を合わせればいい。
それ以外に、自らの立場を守る道など、残されていなかった。
包囲が始まってから、やがて一月が過ぎた。
グラディオスもまた、百戦錬磨の将である。
戦果報告に誇張が混じっていることなど、とうに見抜いていた。
だが、それを差し引いても──敵兵の数は、すでに一万にも満たないと判断していた。
十万対一万。
数こそが力。勝負は、もはや決している。
そして、ついに決断の時が来た。
グラディオスは、数の利を生かし、深夜の総攻撃を命じた。それは、敵に対する“最後のとどめ”となる一手である。
その夜、クスタリカの周囲には、土煙を上げながら十万の敵部隊が静かに集結していた。
東にはグラディオス率いる本隊四万。西・南・北には、それぞれ二万ずつが配置された。
正確に兵数を確認すると、一万ほどの欠員が出ていた。
グラディオスは各方面の司令官たちに問いただしたが、返ってくるのは曖昧な報告ばかりだった。
だが、もはや決戦の火蓋は切られていた。
老名将が──負けるはずのない戦に、勝利を確信して臨む瞬間だった。
グラディオスの号令とともに、月明かりすらない深夜の闇の中で、総攻撃が始まった。
まもなく、西の門が突破されたとの報が届く。
「もろいな……」
グラディオスは笑みを浮かべると、間髪入れずに命じた。
「南と北の部隊の一部を西へ回せ。街は壊すな──そう伝えろ」
だが二刻後、暗闇の中から伝令が作戦司令室に、息を切らせて飛び込んでくる。
「西の門が閉じられた」と、即座に報告する。
グラディオスの顔には、まだ笑みが浮かんでいた。
「……本当か?」
そんな馬鹿なことがあるはずがない──。
この伝令自体が、敵の罠ではないかと疑っていた。
次々と、「西の門が閉じられた」との伝令が届く。
グラディオスの顔からは、徐々に血の気が引いていった。
そのとき──「南の門を突破」との報が入った。
グラディオスは、西の門の件は何かの誤報だろうと安堵し、
すでに街の掌握は成ったと判断して、王への勝利報告の草案に手をつけ始めた。
しばらくすると、暗闇の中から伝令が駆け込んできた。
「南の門も、閉じられました!」
「……西の門は?」
「開いたとの報告は、ありません」
グラディオスは椅子を蹴るようにして作戦司令室を飛び出し、クスタリカの街を見渡した。
火の手は上がっていない。戦いの音も、まったく聞こえてこない。
闇夜のなか、うっすらと城壁の輪郭だけが浮かび上がっていた。
「何が起こっている……?」
「……なんだ、これは……」
「お前たちは、何をしている!」
怒声は、部下に向けたものではなかった。
それは、思い通りに進まぬ現実に対する苛立ち──そして、自分自身への怒りだった。
そのとき──「北の門を突破!」との伝令が届いた。
グラディオスの胸に、焦りが一気に湧き上がる。
これを逃してはならない。そんな思いが、冷静な判断を覆いはじめていた。
「本隊三万、北門へ急行せよ!」
命じながら、グラディオスは自らに言い聞かせていた。
これで勝負は決する。
……だがその一方で、深い闇に沈んでいく己の姿を、どこかで確かに感じていた。
そして──最終通告が届いた。
北の門が、閉じられたと。
グラディオスは、その場に崩れ落ちそうになる。
視線を上げた先、闇に浮かぶ城壁には、かがり火と共に幾つもの人影が並んでいた。
人は、判断を誤る。
自分にとって都合のよいほうへ。
それが──幾千の戦を勝ち抜いてきた老名将であっても、例外ではない。
いや、老名将だったからこそ──
長い経験と成功が、判断を鈍らせたのかもしれない。
「味方が制圧したのか……?」
グラディオスは、ぽつりと呟き、安堵の息を吐いて椅子に腰を下ろした。
だが、東門が開く気配はない。
やがて、闇を押しのけるように空が白みはじめ、城壁の上が明るみに照らされた。
そこに掲げられていたのは、味方のものではなかった──
高く翻る敵軍の旗。
その下には、まるで溢れ返るように、数えきれぬほどの兵が並んでいた。
四方はすでに固めていた。援軍が到着したという報告も、どこからも上がっていない。
そう思いかけた、そのときだった。
自分が今回使った策が、ふと脳裏をよぎった。
「……やられた」
援軍は、最初からこの城の中にいたのだ。
(総司令官ガリウス・デヴァルドの先鋭軍二万は、この策によって壊滅させられた)
決断は早かった、全軍撤収の号令は出したが、時すでに遅しである
東門が開かれた瞬間、全身を煌めく装備で包んだ騎兵たちが、怒濤のごとく突進してきた。
その数はわずか二万──だが、彼らの迫力と速度は、それ以上の数に見えた。
グラディオスをはじめ、副官たちもその光景に目を奪われ、恐怖に動きを奪われていた。
体感では、数万の騎兵が押し寄せてくるかのようだった。
副官の一人が、呆然とする老名将グラディオスの身体を支え、主力の先鋭騎兵部隊だけを連れて撤退を開始する。
そのとき、グラディオスは何一つ指示を出せなかった。
くやしさと、情けなさ──
そのすべてが胸を突き上げ、彼は馬上で、声を上げて泣いた。
残る四万の兵の事は忘れていた。
のちに、老名将グラディオスは、忘れていた四万の兵が捕虜となり、奴隷兵としてクスタリカの守備に組み込まれたと聞いた。
その報を受け取ると──
静かに、剣を取り、『老名将グラディオス』の命をみずからの手で絶った。
老名将として──恥じぬ最期を選んだ。
総合評価:100 / 100点 プロ基準満点。
知らなかった
「決戦の火蓋」とは、「決戦を始める」という意味です。これは、「火蓋を切る」という慣用句から派生したもので、もともとは火縄銃の火皿の蓋(火蓋)を開けて火薬に火をつけることを指していました。