第7話 知られざる帝国
それから数日が経ち、シャルの傷はすっかり癒え、体調も回復していた。
肩の傷を考慮して、これまではワンピースのようなゆったりとした服を着せられていたが、
治癒と共に、今度は彼女の体に合わせた「普通の服」が用意されるようになった。
――とはいえ、それは貴族の令嬢が着るような、装飾の施されたドレスである。
「う……動きにくい……」
裾を踏むたびにつまずき、ひょこひょこと不自然な歩き方になる。
かつての彼女は、常に戦場にいた。成長してからは、軽く動ける服しか知らない彼女にとって、
ドレスなどただの“鎧より不便な拘束具”に過ぎなかった。
何度も転ぶ彼女の姿を見て、ノアは最初こそ微笑ましそうにしていたが、
さすがにそのうち心配になったのか、ぽつりと呟いた。
「……よし、ちょっと城下に出て、君に合う服を見繕おうか」
「えっ、城下……?」
思わず首をかしげた。
皇帝が、わざわざ城下に出向くなど……大丈夫なのだろうか?
そんな疑問が、彼女の顔に出ていたのだろう。
ノアはすぐに察して、笑いながら言った。
「ああ、俺はよく城下に顔を出す。
民と近い存在にいればいるほど、国の結束は強くなるからな」
そう言ってから、少し冗談めかして続けた。
「まあ……城の中より、城下の方が賑やかで性に合ってるんだ」
その笑顔を見て、彼女の中の“皇帝”という概念が、少しずつ変わっていくのを感じた。
かつて、水の王国の王は王座から一歩も動かず、民の顔も兵の命も見ずに、
ただ自らの野心だけを追い続けていた。
ノアは、それとはまるで正反対の存在だった。
北の帝国――その存在は、南の大陸、特に中部以南の国々にとっては、謎に包まれた地であった。
大陸の中央には険しい山脈が連なり、その先には雪に閉ざされた大地。
交易は分断され、文化も異なり、互いに干渉し合うことはほとんどない。
ましてや、北には戦闘民族が多く、魔物の棲む山域もあって、長らく“暗黒の地”などと恐れられていた。
だが――実際の北の帝国は、南の人々が抱く印象とはまるで違っていた。
各部族が独自の文化と伝統を持ちながらも、精霊信仰を軸に繋がり合う連邦国家。
豊富な資源と、いまだ解き明かされていない古代文明の遺跡が各地に残され、
科学と魔術が融合した高度な文明が築かれていた。
先の砦戦で使われた巨大兵器も、その遺跡から発掘された技術を基に復元されたものだという。
表面だけを見れば、“蛮族の国”と呼ばれがちだが、
内実は――遥かに洗練され、強く、そして誇り高い国だった。
北の帝国には十二の選帝侯がおり、彼らの合議もしくは、精霊の意志によって皇帝が選出される。
貴族派と皇帝派――出自や信仰の違いこそあれど、根底にあるのは“この国を守る”という一点にある。
そして、今の皇帝――ノア・ラザラス・ニグルムネブラは、
南から迫る不穏な気配を感じ取った各部族が一致団結し、
史上最年少の十六歳で帝国をまとめ上げた青年だった。
さらに、闇の精霊“テネブラエ”に選ばれし存在として、民からの信頼も絶大であり、
圧倒的なカリスマを持つ男として名を馳せていた。
その存在は、南にも伝わり――「黒衣の騎士」として、大陸最強の名を冠するようになった。
……という話を、ミシェルに聞かされたシャルは、
『――とんでもない人に……興味を持たれてしまったんじゃ……』と思わずにはいられなかった。
彼の優しさも、懐の深さも、何もかもが大きすぎて、
ほんの少し、自分がどこに立っていいのかわからなくなる。
でも、それでも――彼の隣にいると、不思議と息がしやすかった。
(……私なんかが、隣に立っていいのかな)
そんな戸惑いと、淡い喜びが、彼女の胸の奥に、そっと芽吹いていた。