第6話 北の皇帝
「……落ち着いたか?」
ノアの声は、先ほどと変わらず優しく、穏やかだった。
彼女は小さく頷き、胸に残る温もりをそっと感じていた。
すると彼は、少しだけ真剣な面持ちで口を開いた。
「そういえば、まだちゃんと名乗っていなかったな」
たしかに――彼が“黒衣の騎士”であり、北の帝国の皇帝であることは知っていたが、
その名前までは、まだ聞いていなかった。
「俺は、ノア・ラザラス・ニグルムネブラ。
前にも言った通り、北の帝国――ニグルムネブラの今代の皇帝だ」
その名を聞いた瞬間、どこか荘厳で、風のように静かに力を感じさせる響きだと、彼女は思った。
だが、その裏で――ふと、疑問がよぎる。
――皇帝なのに、なぜ……あんなにも、強いの?
王女として生まれ、幼い頃は外交知識を多少は学んだものの、
戦場に出てからは政のことなど、知るすべもなかった。
だからこそ、目の前の男が「皇帝」でありながら、
「大陸最強の剣士」であり、「精霊の使い手」でもあるという事実に、少し混乱していた。
すると、少し離れた場所にいた男が、ゆるやかに近づきながら言った。
「北の帝国の皇帝は、世襲ではなく、精霊に選ばれた者がその座に就きます。
山と雪に囲まれたこの国では、精霊と共に生きる文化が根付き、
国家の頂点もまた、その意志に委ねられてきました」
彼女は彼の説明に静かに耳を傾ける。
「ただ、精霊が常に現れるわけではありません。
もし選定がなければ、各部族の代表者による“皇帝選定の儀”が行われ、
知・武・心のすべてにおいて最も優れた者が皇帝に選ばれます」
その説明の最後に、男はふと笑みを浮かべた。
「ノア様は、その選定で皇帝として選ばれた直後、精霊に選ばれるという異例の出来事を起こされた。
今代唯一、“民と精霊の両方から選ばれた皇帝”なのです」
「ノア様はこのように、少々特殊な選定で皇帝となっていることから、民の信頼も厚いのですよ」
「おい、ミシェル……」
ノアが少し困ったように声をかける。
それを無視するように、シャルを見つめながら男――ミシェルは軽く会釈をした。
「ああ、こいつはミシェル。この国の宰相を務めている。俺の右腕みたいなものだ」
「“みたい”ではなく、右腕そのものですね」
そんなやりとりを交わすふたりの姿は、不思議と和やかで、信頼の深さを物語っていた。
その光景に、彼女の胸の奥にぽつりと灯る想いがあった。
――私にも、こんなふうに心を許せる相手がいたなら……。
ふと考えたその瞬間、ノアが柔らかく微笑みながら彼女の方へ視線を向けた。
「……ノアでいいよ。君にはそう呼んでほしい」
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。
“特別な呼び方”を許される――そんな経験は、今まで一度もなかった。
「……ノア……」
呟くように口にしてみると、名前がこんなにも温かく、
こんなにも特別なものだったのかと、初めて知った気がした。
そして、少し間を置いて、彼女も自らを名乗った。
「わ、私は……シャルロッテ。シャルロッテ・リーディア・ルーデルフレアです」
名乗るとき、わずかに声が震えた。
誰かに“名前を伝える”という行為そのものが、あまりに久しぶりだったから。
ノアはにっこりと微笑み、自然な口調で言った。
「じゃあ、シャルと呼ばせてもらうよ」
「――へっ?」
思わぬ愛称に、シャルは間の抜けた声を漏らしてしまった。
「どうした?」と覗き込まれ、彼女は慌てて視線を逸らす。
「えっと……その……」
耳まで赤く染まりながら、口元を手で隠して言った。
「……愛称で呼ばれるの……初めてで……なんだか、恥ずかしくて……不思議な気持ちです……」
ぽつりと零したその言葉に、ノアはどこか満足そうに頷いた。
「なるほど。君の“はじめて”か。それは……光栄だな」
そして、からかうような茶目っ気を含んだ笑顔で、続けた。
「じゃあこれからも、君の“はじめて”を――もっと、もらうとしよう」
「えっ……」
突然の言葉に、シャルは息を呑む。
彼の微笑みは無邪気で、それでいてどこか確かな想いを孕んでいた。
(こ、これから……どうなっていくの……?)
彼女の胸は、また新たな“はじめて”を前に、静かに、けれど確かに高鳴っていた。