第3話 道具としての人生
すっかり日が暮れ、世界が静寂に包まれた深夜――
彼女は再び、ゆっくりと瞼を開いた。
どうやら気を失っている間も泣いていたのだろう。
目尻は赤く腫れ、乾いた涙の痕が頬に残っていた。
静かに身を起こすと、椅子を窓際まで引き寄せ、
そっと窓を開けて冷たい夜風を受けた。
頬を撫でる空気は冷たいのに、どこか心地よく、今の彼女には必要なものだった。
昼間見た雪雲はすっかり晴れ、夜空には無数の星が瞬いていた。
椅子の上に足を引き寄せ、膝を抱えるようにして座る。
そのときふと、足裏にうずくような痛みを感じた。
見ると、昼間踏んだ破片で切った箇所が丁寧に包帯で処置されていた。
――なぜ、あの人たちは私を生かそうとするのだろう。
ふと、そんな思いがよぎる。
彼女は思い出す。
故郷にいた頃も、忌み子として扱われ、
幼いころから家族や兄弟が暮らす宮殿とは別の離れで育てられた。
離れで暮らしていたが、他国に嫁ぐための「道具」として、
兄弟たちよりも遥かに厳しい英才教育を受けさせられていた。
誰も、心から彼女と接する者はいなかった。
家族も使用人も彼女を避け、必要最低限以上には関わろうとしなかった。
そして、ある年齢に達すると同時に、半ば強制的に幼年騎士団に入団させられた。
それ以来、ただ剣の道を歩き続けてきた。
――ただ、使われるために。
――道具として生きるために。
「人」としてどう生きるのか。
誰も、彼女にそれを教えてはくれなかった。
王の束縛から解き放たれ、自由を得た今、
彼女はその自由をどう使えばいいのかがわからなかった。
戦場で共に戦った兵たちは、彼女を慕ってくれた。
だがその眼差しの奥には、「戦乙女としての力」への依存があった。
彼女がいたからこそ、自分たちは生き延びられた――そんな感情が透けて見えた。
誰も、ただの一人の「人間」として、彼女を見てはいなかった。
宰相も、皇帝も――
彼らは、どんな気持ちで私を見ているのだろう。
哀れみか、それとも罪悪感か。
それとも、未だに私は「使える存在」として見られているのだろうか。
そんな想いが胸をよぎる中、背後で静かに扉が開く音がした。
「また、窓を開けて……。身体が冷えるだろう」
少し苛立ちを含んだ声が部屋に響く。
彼女はふと夜空から視線を外さず、呟くように答えた。
「……ここは空気が澄んでるから、星がよく見える。
こんな光景を、ゆっくり見るのなんて……初めて」
その言葉には、淡く滲む哀しみが宿っていた。
皇帝は短く息を吐くと、そっと彼女に歩み寄り、開いた窓を静かに閉めた。
そして、何も言わず彼女の身体を抱き上げた。
「え……っ?」
不意を突かれた彼女が小さく声を上げる間に、彼は彼女をベッドへと運び、優しく横たえた。
続けて、窓辺の椅子を暖炉の前まで持っていき、再び彼女を抱き上げる。
「……やっぱり、冷たくなっているじゃないか」
彼女の体温を確かめるように、彼は膝の上に彼女を座らせ、そっと自分の上着を肩にかけた。
「まずは、身体を温めろ」
その言葉は静かで、けれど優しさに満ちていた。
彼女は戸惑いを隠せなかった。
誰かが自分に触れることさえなかった今まで。
こんなにも近くで、ましてや抱きしめられたことなど一度もなかった。
彼の体温が、じかに肌から伝わってくる。
それは暖炉の火とは違う、柔らかなぬくもりだった。
耳まで真っ赤になっていることに、彼女自身も気づいていた。
恐らく彼の苛立ちは、体を冷やしたことよりも、
また自分が自棄になりかけていたことへの心配だったのだろう。
そう気づいた頃、彼は彼女の顔を覗き込み、静かに問いかけた。
「……少しは、落ち着いたか?」
その瞳はまっすぐで、どこか不器用なほどに真剣だった。
初めて彼の素顔を見たときにも感じたが――
雪のように白銀の髪と、整った顔立ち。
きっと、どんな女性が見ても目を奪われるような美貌の持ち主だろう。
そんな彼に真剣な眼差しで見つめられて、
彼女はどうにも心を落ち着けることができなかった。