第32話 贄と王
少し時は遡り――ノアとエドによって救い出された後、
シャルは炎の精霊イグニスの回復の加護を受け、自身の身体もようやく癒されていった。
帝都の一室――かつて王族の客人としてあてがわれたその部屋で、
シャルは静かにベッドに身を横たえていた。
カーテン越しに差し込む朝の光が、白い寝具に淡く影を落としている。
それでも、心の奥に残るわだかまりは晴れず、目を閉じることはなかった。
やがて、決意を胸に抱くようにシャルはゆっくりと身体を起こした。
「…ありがとう。少しだけ、一人でいたいの。席を外してもらえるかしら」
傍らに控えていた侍女たちにそう告げると、部屋を下がらせた。
誰もいなくなった室内に、わずかな足音だけが響く。
シャルは静かに立ち上がり、クローゼットの前へと向かう。
扉に手をかけ、ゆっくりとクローゼットを開ける。
中には数着の衣装が丁寧に並べられていた。
その一角に、訓練用として仕立てられた衣装があった。
深紅の布地に繊細な意匠が施されたその服は、
実戦向きとは言い難く、どこか舞台衣装のような華やかさを纏っている。
――これは、過去の自分が望んだ「戦わないための衣」。
けれど今は、その願いに背いてでも、自らの意思で立つための衣になる。
今のシャルには、その色も、形も、なぜかしっくりと胸に落ちた。
深紅に染められたその衣装は、かつて訓練用として作られたはずのもの――
けれど、今はまるで、己の決意を映すかのようだった。
静かにその衣に手を伸ばし、そっと胸に抱きしめる。
その布に頬を寄せながら、シャルは小さく、言葉を漏らした。
「…これは、私が…殺めた命の色。私も、けじめをつけに行く」
指先がわずかに震える。だが、その手に込められた力は確かだった。
衣をぎゅっと抱き締めると、深く息を吐き、静かに瞳を閉じる。
「ノア、エドウィン様…ごめんなさい。でも、これは――私自身の戦いなのです」
その決意に呼応するように、彼女の前で炎がふわりと立ち上がった。
内に秘めていた意思が形を持ち、今まで封じられていた力が静かに解放されていく。
炎は揺らめきながら輪郭を結び、やがて、紅蓮の光に包まれた一体の存在が姿を現す――
炎の精霊イグニス。彼女の意志を映すように、本来の姿でこの場に具現したのだった。
紅き焔を纏ったその身は、威厳と優しさを宿しながら、黙ってシャルを見つめていた。
その瞳には、主の選んだ運命を受け入れる覚悟が、確かに宿っていた。
「イグニス、ヴィクターのもとへ――…飛んで」
その一言に、イグニスは炎の羽を大きく広げる。
そしてシャルを背に乗せると、眩い軌跡を残しながら、空へと駆け上がった。
夜明けの空を焦がすように、紅の炎が疾走する。
少女は今、すべてを終わらせるために――その空を翔けていた。
そして、戦を終わらせるための最後の布陣が敷かれる中――
シャルはその静けさを縫うように、水の王国の城内へと密かに足を踏み入れていた。
ノアとエドの密談の一部始終は、イグニスを通して聞いていた。
場内を無用に騒がせぬため、必要最低限の兵だけを残して他は宿舎に下げさせる――
その指示が出されたため、城内は異様な静けさに包まれていた。
廊下を踏みしめるたび、足音がやけに大きく響く。
明るく設えられた室内も、今は妙な薄暗さを帯びていた。
そして、彼女は玉座の間へと辿り着く。
重く軋む音を立てながら、シャルは玉座の間の扉をゆっくりと押し開けた。
冷たい石床に足音が吸い込まれていく中、彼女の視線は玉座へと向けられる。
そこには、静かに腰かけたヴィクターの姿があった。
うつむいたまま、微動だにせず、まるで深い思索の淵に沈んでいるようだった。
空気はひどく静かで、まるで時間そのものが凍りついたかのよう。
シャルは警戒を解かぬまま、玉座の階段の手前までゆっくりと歩み寄った。
その瞬間――ヴィクターが、ふいに顔を上げる。
「…本当に、一人で来たんだな」
低く、けれどどこか感慨を帯びた声。
シャルは思わず立ち止まり、その言葉の意味を探るように眉をひそめた。
「どうして…私が来ると?」
声に揺らぎが滲む。
ヴィクターは淡々と、むしろどこか晴れやかな笑みを浮かべながら答える。
「とある者が、知らせてくれたのだ」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。
玉座の階段を一歩ずつ降りながら、シャルに向かって歩み寄る。
その足取りは重く――だが確実で、まるで逃げ道など最初からないと語っているかのようだった。
近づくにつれ、ヴィクターの放つ気配が肌に突き刺さる。
背筋に走る冷たいものを感じながらも、シャルは目を逸らさずに立ち尽くす。
「怯えることはない。俺は…お前をずっと、待っていたんだ」
柔らかい口調のその言葉に、得体の知れない執着が滲んでいた。
すると、シャルの足元に淡く光る魔法陣が浮かび上がる。
展開される結界のような術式が地を這うように広がっていき――
シャルの動きを、静かに、だが確実に奪っていく。
「動きを封じるだけだ。お前を傷つけるつもりはない」
仄暗い笑みを浮かべながら、ヴィクターはゆっくりと告げた。
逃げようとしても、体が言うことをきかない。
足元が縫いとめられたように一歩も動けなかった。
冷たい汗が頬を伝い、呼吸が浅くなる。
けれど、シャルは目を逸らさなかった。
ヴィクターの目が、どこか哀しげに揺れていたからだ。
「少し…昔話をしてもいいか?」
静寂を破るように、ヴィクターが静かに口を開く。
「俺は…かつて、先王――父の命によって、“王国繁栄の贄”として選ばれた」
その声音には、感情を抑え込んだような張りがあった。
目を伏せ、記憶の淵を辿るように語りを続ける。
「望んだわけじゃない。だが、拒むこともできなかった」
まるでそれが当然であったかのように、彼は事実だけを淡々と紡いでいく。
けれど、その裏には確かに深い苦悩が滲んでいた。
「受けたのは、“永劫の苦痛”という名の呪いだ。
死ぬことすら許されず、肉体も精神もゆっくりと腐らせていく地獄だった」
言葉の端々に、怒りと哀しみ、そして諦めの影が混ざる。
「生かされたまま、ただ苦しみの中で朽ちていくしかなかった」
シャルは、静かにその語りを聞いていた。
目の前の男に何があったのか――今、ようやくその輪郭が見え始めていた。
これまで知り得なかった過去。そして――
「数年後――ある者から“この苦痛から逃れる方法”を教えられた」
ヴィクターの声は淡々としていたが、その奥には狂気めいた熱が潜んでいた。
「他者に代償を担わせることで、自分は苦痛から逃れられる…そんな方法だ」
次第に、その表情に歪みが混じっていく。
「だが、ただ移すだけでは意味がない。条件があった。
ひとつは――“無数の命”を犠牲にすることだ」
シャルはその言葉に息を呑む。まさか、と思いたい。だが――
「大義名分のもと、人の命を奪う最も効率的な手段…それが“戦争”だ。
王国の繁栄を願ったのだから、侵略に何の非がある?
そう父に説いたが、奴は首を縦に振らなかった」
冷ややかな口調でそう語ると、ヴィクターは口元を吊り上げ、嗤う。
「だから、殺した。こんな簡単なこと、なぜもっと早く気づかなかったんだろうな」
高らかに笑い声を上げるその姿は、もはや人としての理性を逸していた。
その声が、玉座の間の静寂に嫌というほど響き渡る。
「そして俺は王となり――その条件を満たすため、近隣諸国への侵略を始めた。
だがもう一つ、呪いを“肩代わりできる者”を見つけなければならなかった」
ヴィクターは、まっすぐシャルを見つめる。
「それが――お前だ」
その言葉に、シャルの心が強く締め付けられる。
「清らかな心と身体、精霊の加護まで備えていた。しかも炎の精霊だ。
前線に出れば戦果は跳ね上がる。お前は、俺の理想の存在だった」
「だから、お前を手に入れるために…根回しもした。すべては計画通りだった」
吐き捨てるようなその言葉に、シャルの視界がにわかに揺れる。
深い、深い絶望が胸を支配していく。
「お前に呪いを移した日…俺は、数年ぶりに心身ともに晴れやかだった。
本当に…感謝してるよ」
満足げな笑みを浮かべ、ヴィクターは続ける。
「戦場でのお前の働き…見事だったよ」
シャルは、目を見開いた。
理解が、ようやくすべてをつないだ。
――なぜ、戦場に出され続けたのか。
――なぜ、苦痛を伴い、何度も死にかけたのか。
――その裏にあったのは、彼の“呪い”だった。
知らぬ間に、彼の苦しみの一部を、確かに自分が背負わされていた――。
そんなシャルに、ヴィクターはゆっくりと歩み寄り、凍りついたような手でその頬に触れる。
「けれど…お前は俺の手から逃れようとした。
再び、呪いの苦痛が戻ってきたとき、俺は悟った。
俺には…お前が必要なんだ」
シャルは言葉を失った。
ただ、心の奥底からこみ上げてくる何かが、口から零れる。
「ヴィクター…あなたは…」
その声に、ヴィクターがふと彼女を見つめ返す。
そして――初めて、彼女の名を呼んだ。
「シャルロッテ…」
その名を、切なげに、震えるように。
「俺を、愛してくれないか。俺を…満たしてほしい」
それは愛の告白などではなかった。懇願であり、支配の言葉だった。
その頬を、一筋の涙が静かに伝う。
だがシャルには、その涙の意味が分からなかった。
彼女は、動けぬままその姿を見つめる。
――哀れだった。
呪いに囚われ、愛を知らぬまま、狂気に堕ちた王の末路。
戻ることのできない場所まで進んでしまった男の姿。
“愛してほしい”という言葉の奥に見えたのは――欲望。執着。そして、支配。
その叫びは哀しくて、恐ろしくて…どうしようもなく、遠い。
彼女の前で、かつて王だった男は――
救いを求めるように、ただ、静かに立ち尽くしていた。