第30話 欲望に染まる玉座
光の精霊は、玉座の前で不敵な笑みを浮かべた。
「戦はもうすぐ終わるわ。けれど、あなたの“苦痛の呪い”は――このままだと解けない」
淡々とした言葉の中に、どこか愉しげな響きが混じっていた。
このまま呪いが進行すれば、命を奪われることはなくとも、
終わりなき苦痛に苛まれ続けることになる――
その未来を想像し、ヴィクターの背にぞっと寒気が走る。
「どうしたらいい……」
恐れを滲ませたその問いに、光の精霊は指先をくるりと回しながら、
小さな黒い球体を取り出してみせた。
「これは“束縛の呪い”がかけられた宝具。
あなたの血を一滴しみ込ませて、相手に飲ませるだけでいいの」
精霊の声は甘く、まるで秘密を囁くように耳元に届く。
「この球を体内に取り込めば、その者の心はあなたに縛られるわ」
さらに微笑を深めながら、彼女は続けた。
「しかも少し細工をしておいたの。
相手が、あなたの“苦痛の呪い”を肩代わりするようにしたから、その苦痛も消えるわ」
黒球をそっと受け取り、ヴィクターは興味深げにその表面を指先でなぞった。
「ほう……」
転がすように手のひらで弄びながら、静かに目を細める。
「魔法陣で動きを封じてしまえば、彼女はもう抵抗できないわ」
光の精霊は、妖しく笑いながら続けた。
「その状態でこの球を取り込ませれば、
体内でゆっくりと溶けながら、彼女の意識を少しずつ書き換えていくの」
そして次の瞬間、精霊はふわりとヴィクターの耳元に顔を寄せ、甘く囁く。
「目を覚ましたときには、もうあなたしか見えない。
言葉も、思考も、すべてがあなたを中心に回るようになるの」
その声は優しく、どこまでも残酷だった。
ふわりと舞うように身を翻しながら、光の精霊は妖しく微笑む。
その瞳には、甘美な陶酔の光が灯っていた。
「たとえ心が苦痛に囚われていても……その苦しみさえ、あなたと共にいられる幸せに変わるの。
ね、素敵でしょ?」
悪意を絹で包んだようなその提案に、ヴィクターの眉がわずかに動く。
沈黙の中、彼の瞳に宿った光は、かすかに揺れていた。
それは欲望か、執着か――あるいは、愛と呼ばれる幻想か。
「あの女……前から美しかったが、今はさらに――見違えるほどになったらしいな」
玉座にもたれかかりながら、ヴィクターがぽつりと呟く。
あの女を最後に見たのは――まだ少女だった頃。
輿入れして間もなく、戦場に送り出す前に一度だけ顔を見ただけだった。
それ以降、戦果の報告と共に名を聞くことはあっても、姿を見ることはなかった。
容姿などどうでもいい。ただの“兵器”として扱っていたのだから。
だが、最近になって――城内の家臣たちがひそひそと話しているのを耳にした。
『あの娘は、見違えるほど美しくなった』と。
その一言が、妙に耳に残って離れなかった。
忘れていたはずの顔が、曖昧な記憶の底からじわじわと浮かび上がってくる。
そんなヴィクターの微細な変化を見逃さず、光の精霊は唇をほころばせる。
にんまりと頷き、妖艶な笑みをその顔に浮かべてみせた。
「そうよ。最前線で泥と血に塗れていたのに、驚くほど綺麗なままだったわ。
気になる?今の彼女の姿、見てみたい?」
そう言って指をひと振りすると、淡く輝く光が玉座の前に浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、凛とした眼差しを宿す、
一人の少女――否、もはや“少女”ではない。
苦難を越えて凛然と立つ、“女”としての気高さを湛えたシャルの姿だった。
「ほう……」
ヴィクターの口から、思わず息のような声が漏れた。
ゆっくりと玉座から身を起こし、映像に近づくように一歩、また一歩と踏み出す。
「最前線で使い潰されていたとは思えん。……なかなかに、いい女になった」
その声には満足げな響きがあった。
だが、瞳の奥に宿っていたのは、別の色――獲物を見定めるような、冷たい光。
彼にとって“女”とは、従わせるもの。
着飾らせ、見下ろし、支配するもの。
自分にひれ伏させることでしか愛せない存在。
その歪んだ欲望が、静かに――だが確かに、胸の奥で蠢き始めていた。
光に照らされた黒球の輝きが、玉座の陰で淡く揺れる。
二人の様子をうかがっていたドゥーガルの口から、ぽつりと声が漏れる。
「……あの女は、死んだはずでは……?」
その言葉に、光の精霊がふっと肩をすくめ、くすりと笑みを浮かべた。
「もうとっくに助かってるわよ。あの娘、見た目よりずっとしぶといの」
ドゥーガルは驚愕と困惑をにじませながら、額に汗を浮かべた。
「あの状態から生き延びたとは……それならば、あの女の命、兵器の源として欲しいところじゃが……」
「駄目だ」
低く鋭い声が、空気を裂くように割って入る。
ヴィクターがドゥーガルを鋭く睨み据えていた。
「あれは俺のものだ」
ヴィクターは手のひらの上に黒い球を乗せたまま、じっと見つめる。
目を細め、低く息を吐いた。
「ふっ……」
その言葉を反芻するように、唇の端がわずかに吊り上がる。
そんな彼の執着を、光の精霊は見逃さなかった。
唇に妖艶な笑みを浮かべたまま、そっと囁く。
「さっきも言ったけど……彼女は必ずここへ来るわ。
でもね――その瞬間を逃したら、もう二度と手には入らない。これが“最後の好機”よ」
艶めいた声が空間に残響し、次の瞬間、彼女の姿は光の粒となってふわりと舞い散った。
まるで最初からそこにいなかったかのように、静かに空気の中へと溶けていった。




