第2話 助けられた命
未だ状況を完全に理解できていない彼女の様子を察してか、
北の帝国の皇帝はさらに静かに言葉を継いだ。
「瀕死の君をここに運び込んで、今日で七日目になる」
「七日……!?」
思わず口に出したその言葉に、自分でも驚いていた。
それもそのはず。
これまで、どんな重傷を負っても一日と経たずに目を覚まし二日もすれば戦場へと舞い戻っていたのだ。
しかし今回ばかりはそうではなかった。
「――ああ。君が目覚めなかったのには、理由がある」
そう言うと彼は、テーブルに視線を落とす。
その先にあったのは見慣れた宝具。だが、それは真っ二つに割れた状態で静かに置かれていた。
「……っ!なぜ、それがそこに……!?それに、壊れて……!」
その瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
震える指先が、無意識にシーツを握りしめていた。
あの宝具は、王から与えられた“鎖”だった。
それを外せば、故郷が滅ぼされる。
そう脅され、抗うことも許されず、自ら首にかけ続けていたものだった。
それが今――壊れている。
「……心配はいらない。君の故郷は無事だ」
皇帝は落ち着いた声で、そっと語り始めた。
「君の傷を癒そうとしたが、何をしても治るどころか刻一刻と命が削られていった。
最初は理由がわからず、ただ君が弱っていくのを見ていることしかできなかった」
その時のことを思い出したのか、彼の表情がわずかに曇る。
「五日目を迎えるころ、ようやく気づいた。宝具から、微かに精霊の力が感じられたんだ。
あまりにもか細い力だったが、俺の精霊と似た波長を感じてね。
そこからようやく“それ”が君を蝕んでいると知った」
皇帝はそう語りながら、割れた宝具に手を添える。
「俺の精霊の力を使って、その呪いを断ち切った。遅すぎたかもしれないが……」
悔しげに目を伏せる彼に、彼女は言葉を返せなかった。
「本来この宝具は、君の位置を把握するためのものだと、とある者から聞いた。
だが、実際には“ある一定の距離を越えると、君の命を奪う”という呪いが仕込まれていた」
皇帝の声音には、怒りを抑え込んだような静かな熱がこもっていた。
「つまり――君は最初から、逃げることなど許されていなかった。
ただ利用され、使い捨てられる運命だったんだ」
その言葉に、彼女は息を呑んだ。
王は、炎の精霊の力を利用するために、自分を飼い殺しにしていたのだ。
心から忠誠を捧げていたわけではない。
ただの“道具”――そう感じた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
「……ただ、奇跡のようなことも起きていた」
皇帝は続けた。
「その宝具に潜んでいた精霊は、水の王国に伝わる“癒しの加護”を持つ存在だったらしい」
「本来なら、君は二日と持たず命を落としていた。
だがその精霊の主が、君を何とか生かそうと最後まで力を注いでくれていた」
――その話を聞いたとき、彼女の脳裏に一人の姿が浮かんだ。
戦地に赴く直前、一度だけ出会った、水の王国の宰相。
きっと、あの人が……。
「……六日目の時点でも、君は目を覚まさなかった。命の灯が今にも消えかけていた。
その時だった。宝具に宿っていた精霊が、最後の力で俺の生命力を橋渡しし、君に繋いだ。
精霊の主は俺に“君を救ってほしい”と伝えてきた」
皇帝の話は、静かに、だが確かな重みを持って胸に響いた。
彼女も、どこかで分かっていた。
あの王が軍を捨て贅沢に溺れていたこと。
そして、その代わりに宰相が、命を懸けて軍を支えていたことを。
何度も命の危機を乗り越えられたのは、宰相の采配と、遠くから寄せられた“想い”があったからだ。
それを思い返しながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……そう、ですか……」
助けられた命だ。
だが、その命で多くの命を奪ってきたことに変わりはない。
救われたはずなのに、胸にのしかかるのは罪の重さだった。
「おそらく、君は“死んだ”ものとされている。
君が消えた後、俺の軍はあの砦を攻略し、
水の王国へと通じる各国の防衛線を次々と解放しながら進軍している。
あの王国に君の故郷を攻める力は、もはや残されていないだろう」
そして――皇帝ははっきりと告げた。
「君は、もうあの国……あの王の呪縛から解き放たれたんだ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
何かが、心の中でふっと消えた。
喜びでも、安堵でもない。
ただ、ぽっかりと空いた虚無が、彼女の胸に静かに広がっていった。