第20話 このままでは私が倒れます
「では、行ってくる」
そのひと言を残し、ノアはシャルに軽く口づけをすると、
黒き精霊テネブラエの背へと跳び乗った。
出陣の準備はすでに整えられており、城の裏手に設けられた軍専用の転移拠点では、
選りすぐりの近衛騎士団が静かに整列していた。
結界に包まれた転移拠点には、魔法の転移装置《転環門》が設置され、
南方戦線への座標がすでに魔法陣に刻まれている。
ノアが空へと舞い上がった瞬間、魔導師たちが転移装置に魔力を注ぎ込む。
蒼白い光が閃き、部隊は次々とその光の中に吸い込まれるように姿を消していった。
精霊の翼が空を裂き、黒い風が巻き起こる。
ノアの影は大気を揺らしながら天高く昇り、やがて蒼空の彼方へと溶けていった。
シャルはただ、静かにその背を見送っていた。
その眼差しに宿るのは、不安や寂しさではない。深く静かな祈りだった。
影が完全に見えなくなっても、彼女はしばらく空を見上げていた。
――あの背が、必ず無事に帰ってくることを信じて。
ノアの出陣を見送った後、シャルは城内の書庫を訪れた。
皇后としての務めを担う前に、国の仕組みを理解しておきたい。
それが、彼女の考えだった。
書庫に入った瞬間、その瞳は真剣な色を帯びる。
歴代皇后の記録、帝国内政の年表、補助政務に関する実務文書。
彼女は次々と書を開き、要点を整理しながら必要な情報を拾い上げていった。
その姿を傍らで見ていたミシェルは、驚きとともに言葉を失っていた。
目で追う速度、資料の取捨選択、構造の把握――どれを取っても非凡だった。
「はい、大体この国の帝王学と歴代皇后の役割については理解しました。
補助政務の組織構造、予算配分の流れ、それと宰相職との連携についても、
もう少し深く見ておきたいですね」
彼女がそう淡々と述べる頃には、机の上に広げられた資料には
色分けされたしおりが整然と挟まれていた。
(……このまま政務を任せても、何の問題もないのでは?)
ミシェルはふと、そう思ってしまうほどに彼女の理解力と判断力に感服していた。
やがて、彼はぽつりと問いかけた。
「……本当に、貴女、王室の教育を受けていたのは八歳までなのですか?」
シャルは穏やかに笑い、ページを閉じて頷いた。
「ええ。でも、王族として育てられた以上、“できて当然”と叩き込まれましたから」
その言葉には、厳しい環境の中で育った者だけが持つ静かな自負と覚悟がにじんでいた。
ミシェルはしばし言葉を失い、そして机越しに彼女の手を取った。
「……貴女が来てくださって、本当に、心強いです……」
それは、長年皇帝の補佐として心をすり減らしてきた彼がようやく吐き出せた“本音”だった。
シャルは目を瞬かせたあと、少し困ったように微笑む。
「そんな、大袈裟ですよ。でも、そう言っていただけるなら……少し、報われます」
その品のある返しに、ミシェルはさらに深く頷いた。
「陛下は……軍略も政務も本当に何でも一人でこなしてしまうお方です。
この前の戦では、たった一晩で戦略を練り上げ、半年で南部を制圧しました。
……見事というほかありません」
そこで一息つくと、彼は額に手を添えて天井を仰いだ。
「……ただし、判断が早すぎる。“できるからやった”で段取りも相談も飛ばす。
予定は急に変わるし、命令は夜中に届く。おかげで落ち着く暇がなくて……
最近では、胃薬が手放せません」
その言葉に、シャルは小さく笑った。
「でも不思議なことに、貴女の言葉にはちゃんと耳を傾ける。
むしろ、少し従順にさえ見えるのです」
そして彼は、まっすぐ彼女に頭を下げた。
「どうか、陛下の“抑え”になってください。
このままでは、次に倒れるのは――私かもしれません」
最後の言葉には少し冗談も混ざっていたが、
その懇願には、確かな疲労と切実な願いがこもっていた。
シャルは息をふっと吐き、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ずいぶんと、ご苦労なさってきたのですね」
ミシェルはただ静かに、深く頷いた。




