第19話 この手を取るということ
ノアの突然の宣言に、広間は一瞬の静寂を挟み、次いで大きなどよめきに包まれた。
「皇帝が、ついに皇后を迎えるのか――!」
歓声が波のように広がっていく。
貴族たちは驚きと困惑の入り混じった視線を交わし、民衆の間には高揚と祝福の色が広がっていた。
その中心に立つシャルは、呆然とノアを見つめていた。
(……えっ? 今、何て……?)
言葉の意味は理解できていた。けれど、あまりに唐突すぎて――心がまるで追いつかない。
唖然として立ち尽くすシャルのもとに、そっとミシェルが近づき、耳元で小声で囁く。
「……申し訳ありません、シャル様。合わせていただけると助かります。
こうなっては、もう誰にも止められませんので」
その言葉を受けて、シャルの思考はさらに混乱する。
(ちょ、ちょっと待って……今の、まさか……プロポーズ?
いや、それどころじゃない……“皇后になる”って、そういうこと……!?)
いきなりの展開に思考が追いつかず、ぐるぐると頭の中を巡る疑問と動揺。
胸の奥が妙に熱くなって、呼吸が浅くなる。
そんな混乱の最中――ノアがそっと彼女に微笑みを向けた。
そのまなざしが、まるで「大丈夫だ」と言っているようで、シャルの中に少しずつ、覚悟が芽生えていった。
その微笑みに背中を押されるように、シャルはようやく一歩踏み出すと、
深く顎を引き、凛とした表情で前を見据えた。
「皆様、あらためましてお目にかかります。
私は、炎の国ルーデルフレアの第二王女、シャルロッテ・リーディア・ルーデルフレアと申します」
その声は、驚きでざわついていた場を一気に静めるだけの力を持っていた。
「先ほど陛下も申されましたように、私にも炎の精霊の加護があります。
そしてその加護は――“平和を導く”ものとされています」
視線を正面に向けながら、シャルはまっすぐに言葉を続けた。
「この大陸に長く続いた戦が終わりを告げ、
北も南も区別なく、すべての人々が穏やかに過ごせる日々が訪れることを心より願っています。
陛下と共に、その未来を築いてまいりますので……どうか、よろしくお願いいたします」
言い終えると、シャルは優雅に一礼し、静かに微笑んだ。
その慈しみに満ちた笑顔に、民衆から再び歓声と拍手が湧き上がる。
ちなみに――さきほど無礼を働いた貴族令嬢たちは、
目の前に立つ女性が王女だったこと、そして今や皇后となることに見事に青ざめていた。
ノアはその光景に軽く目をやりながら、壇上の民衆へと再び目を向けた。
「俺は明日に備え、これで引き上げる。だが、皆は今宵の建国の宴を、存分に楽しんでくれ」
その一言を残し、ノアはシャル、そして宰相ミシェルと共に広間を後にした。
***
「……やはり、やらかしましたね」
執務室へ戻るなり、ミシェルは深いため息を吐いた。
ノアはしれっと肩をすくめる。
「何のことだ?」
そのとぼけた調子に、ミシェルは静かに書類を机に置く。
視線だけで、「手続きの話は何度もしましたよね」と言っていた。
「……皇后を迎えるには正式な手続きが必要です、とお伝えしたはずです」
「お前なら、なんとかすると思ってた」
悪びれもせず笑うノアに、ミシェルはこめかみに手を当てて言葉を絞る。
「……では、水の王国を速やかに落とし、炎の国には正式な親書を。責任、取ってくださいね」
「了解」
ノアのあっさりした返答に、横で聞いていたシャルは思わず内心でつぶやいた。
(……軽い。いろいろと軽すぎる……)
まるで昼食の相談でもしているかのような会話に、
重大な出来事の渦中にいるはずの自分だけが、少し現実から浮いているように感じていた。
そんな彼女の様子に気づいたのか、ノアはふと真面目な顔に戻る。
「シャル、さっきは急に言ってしまって……すまない」
そう言うと、ノアは懐からそっと小さな箱を取り出した。
その中に納められていたのは、彼自身が採掘した希少な鉱石からつくられた、特別な指輪だった。
ノアの想いを託し、腕利きの宝飾職人に依頼して仕立てた一品――
淡く輝く紅玉があしらわれ、その中心には精霊を象る繊細な意匠が彫り込まれている。
形式や伝統によるものではない。
彼の手で選び、彼の想いで贈られる、シャルのためだけの“唯一の指輪”だった。
ノアは静かに膝をつき、シャルの左手をそっと取ると、その薬指に指輪をはめた。
その仕草は慎重で、けれど揺るぎない想いがこもっていた。
「シャル――俺と、結婚してくれ」
あまりにも真っ直ぐなその言葉に、シャルは思わず吹き出してしまう。
「あはは……ノア、それ、順番が逆よ」
笑いながらも、その瞳はどこか嬉しそうだった。
ノアがぽかんとした顔を見せる中、シャルはひとつ息を整え、柔らかくも真剣な眼差しで彼を見つめる。
「――北の帝国ニグルムネブラ皇帝、ノア・ラザラス・ニグルムネブラ陛下。
その申し出、確かにお受けいたします」
その返答に、ノアの頬がふっと赤らむ。
照れたように視線をそらすその姿に、シャルは今度は静かに微笑んだ。
それを見届けたミシェルは、ようやく肩の力を抜き、静かに息を吐いた。
(……シャル様が常識ある方で、本当に助かりました)
ふたりの背を見つめながら、心の中でそっと願う。
――どうか、陛下の“抑え役”になってくださいますように。




