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炎の戰乙女  作者: 合歓稲
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第17話 隔絶の中の安らぎ

部屋にひとり残されたシャルは、扉越しの静寂の中で虚空をぼんやりと見つめていた。


「……南では、まだ戦争が続いているのに」


ふと口をついた呟きは、自嘲を含んだ微かな響きを帯びていた。


北の帝都は、まるで戦火など知らぬかのような平和に満ちている。

しかしその内側には、皇帝の寵愛を巡る貴族たちの静かな、だが熾烈な争いが渦巻いていた。

血は流れないが、ここもまた別の意味での「戦場」なのだと、シャルは改めて思い知る。


そんな複雑な環境の中で、シャル自身は皮肉にもノアの寵愛を受け、穏やかな日々を享受している。

この日々を、穏やかで幸福だと感じ始めている自分がいた。


――本当にそれでいいのだろうか?


護れたかもしれない命がある。自分がもう剣を握らないことで、救えない命もあるかもしれない。

そう考えるたび、胸が鋭く痛んだ。


けれど、シャルはその痛みすらも飲み込んで、彼の手を取ることを決めたのだ。

その選択に迷いはないはずなのに、心のどこかで問いかける声が消えることはなかった。


それでも彼女は決めたのだ。

ノアの手を取り、もう剣を握らずとも“生きる”と。

ノアは誓ってくれた。彼女をもう二度と戦場には立たせないと。

その言葉を、シャルは信じたかった。


イグニスと心を通わせるうちに、彼女は初めて精霊の“本当の声”を理解するようになっていた。

ずっと小鳥のように思っていた姿は仮のもので、本来は炎の翼を持つ神聖なるグリフォン――

威厳と力を宿した、誇り高き守護の存在だった。


そして、イグニスが告げた“炎の加護”の本質。

それは戦いに勝つ力ではなく、真に“平和を導く”ための力だということ。


自分は、ずっとそれを誤解していたのだとシャルは思った。

忌み子として蔑まれ、心を閉ざしていた自分。けれど、孤独だったのは自分だけではない。

イグニスもまた、長く心を通わす主を失い、ただ共に戦うことだけを目的にされてきた。

その歪みが、誤った加護の在り方を強いてしまったのだ。


「……勝つことが、すべてじゃなかった」


そしてもう一つ、イグニスは語った。

彼女が数々の戦場で生き延びてきたのは、加護だけの力ではなかった。

加護に支えられながらも、命を奪ってきたのは、紛れもない“彼女自身”の力だった――と。


シャルは思わず目を伏せ、唇を噛んだ。


「……赦されない。せめて、生きて償わなきゃ」


その小さな呟きに応えるように、イグニスがその大きな体をそっと彼女に寄せた。

シャルはその炎に似た毛並みに手を添え、微笑む。


「最後はちゃんと、ケジメをつけなきゃね。……それだけは、絶対に」


彼女の心は、かつての主――いまもなお暴政を振るう水の王国の王へと向かっていた。

最終防衛線が崩れるその時、必ずイグニスと共に、あの城へ向かう。

それが、彼女の決意だった。


「でも……今はちょっと、疲れちゃったな……」


そっとソファの背に身を預けると、彼女は静かに目を閉じた。

揺らめく灯りがその頬を照らし、やがて部屋には穏やかな寝息だけが残された。


***


一方その頃、謁見の間に隣接する控室では――


選帝侯たちとの長い謁見を終えたノアは、椅子の背にもたれながら深いため息を漏らしていた。

そのすぐ隣では宰相ミシェルがいつもの無表情で、記録書を淡々と整えている。


「……終わった。ようやく、だ」


ノアがぼやくように呟くと、ミシェルはちらりと視線を向け、書類の束を閉じながら静かに告げた。

「陛下、一応申し上げておきますが、選帝侯との謁見も皇帝としての『義務』です」


その容赦ない指摘に、ノアは肩をすくめ、やや気まずげに返す。

「わかってるさ……。だが、明日には戦場なんだぞ?」


疲れ切った表情で息を吐くノアだったが、ミシェルはその様子にも全く動じない。

むしろ静かな調子でさらりと言葉を続けた。


「この一ヶ月、陛下が帝都に滞在されていたのは――他でもなく、彼女の傍に居たいがため、でしたよね?」

「……第二防衛線の件ではちゃんと出陣した。他の政務だって、俺なりにこなしてるつもりだが」


反論するようにそう告げるノアだったが、ミシェルは書類を揃える手を止めることなく、冷静な声音で返す。

「ええ。その『つもり』のおかげで、私の業務は倍増していますけどね」

ノアは言葉に詰まり、少しだけミシェルの表情を窺った。


「お前……怒ってる?」


ミシェルはすぐに否定したが、整えた書類の束には微かに力がこもっていた。


「いいえ?」


その返答の短さが、かえってミシェルの機嫌を伝えているように感じられ、ノアはそれ以上問いかけるのをやめた。

気を取り直すように立ち上がったノアは、軽く伸びをして、やや明るい口調で言った。


「よし、これでようやくシャルに会いに行けるな」


しかし、すぐにミシェルの冷めた一言がノアの動きを止める。

「残念ながら、祝賀会はまだ終わっていませんよ」


ノアはがっくりと肩を落としかけた――その時だった。


控室の隅に差す影の中から、音もなく黒き精霊・テネブラエが現れると、ノアの耳元にそっと報せを届ける。

シャルが祝賀会場から貴族令嬢たちによって連れ去られたというその知らせに、ノアの表情が一変した。


「……なんだと?」


低く鋭い声が、部屋の空気を震わせた。ノアは即座に振り返り、ミシェルに告げた。

「ミシェル、祝賀は後回しだ。すぐに南中庭の奥へ向かう」


ミシェルは諦めたように軽く肩をすくめ、小さくため息を漏らすと、静かに頷いた。

「……陛下のその顔を見ると、誰も止められませんね。どうぞ、ご随意に」


ノアはその言葉を背に受け、迷うことなく控室を後にした。

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