第16話 春宵の微熱
ニグルムネブラ帝国 建国祭当日。
昼下がりの帝都、中央広場に姿を現したノアは、集まった帝国民を前に立ち、
さらに精霊の力を通して遠く離れた民にもその声を届けるように静かに語りかけた。
「我が帝国はいまなお、水の王国との戦いの最中にある。
だが――今日という日は、共にこの国の歩みを祝い、明日への希望を灯す日だ。
この地に生きるすべての民が、安らぎと誇りを胸に笑える未来を――」
その言葉に、広場は歓声と拍手に包まれた。
老若男女を問わず、多くの民がその姿に希望を見出し、信頼と誇りが宿っていた。
皇帝の宣言と式典が終わっても、帝都の熱気は冷めることがなかった。
街の通りには音楽が響き渡り、屋台の灯が次々とともされていく。
広場の舞台では楽団が華やかな演奏を奏で、子どもたちが輪になって踊り笑い声が夜空へと舞い上がる。
この日ばかりは戦の不安も忘れ、誰もがその時を祝福していた。
日が暮れ、空が群青に染まる頃――
帝都の王城では、建国祭を締めくくる盛大な祝賀会が催された。
シャルは、ノアから贈られた深紅のドレスに身を包み、華やかな祝賀の会場へと足を踏み入れていた。
ノアはそっと彼女の手を取り、目を見つめながら柔らかく微笑む。
「少しだけ、選帝侯たちに挨拶してくる。終わったら迎えに行くから……それまで、待っていてくれるか?」
その言葉に、シャルは小さく頷き、彼を見送った。
――だが、すぐに愚痴が始まる。
「……あと何組残ってる?」
隣の宰相が静かに答える。「八組ほどです、陛下」
「長すぎる……シャルと早く踊りたいのに」
そのぼやきに、宰相はわずかに笑みを見せた。
「ようやく、陛下も女性に関心を持ってくださって安心しました」
「どういう意味だ?」
「今まで一度も誰にも心を傾けたことがなかったでしょう。帝国の未来について、いささか不安もありましたから」
少しばかり意外な話だった。ノアが眉をひそめると、宰相はさらに言葉を続けた。
「彼女、ああ見えて貴族社会での振る舞いはかなり整っていますよ。
幼少期の厳しい教育が生きているのでしょう。そこらの淑女より余程――」
「……なんでお前がそんなこと知ってるんだ」
「彼女から直接聞きました」
「いつの間に……」ノアの目が細くなる。
「ご安心を。奪う気はありません。ただ、陛下が関心を示さなければ、私がいただこうかと――冗談です、もちろん」
そう言いながらも、宰相はにやりと笑ってみせた。
「冗談に聞こえないのが、お前の厄介なところだ」
「ですが、お二人が真に想い合っていることは明らかです。
であれば、早々に皇后の手続きをお進めください。遅れると、他がうるさくなりますよ?」
その頃、シャルは会場の片隅で静かに祝賀会の賑わいを見つめていた。
こうした場所はあまり得意ではない。
目立たぬよう、壁際に身を寄せていたところ――彼女に声をかける数人の貴族女性たちが現れた。
「あなた、最近陛下とよく一緒にいる子でしょう?」
リーダー格らしい女が挑戦的に言葉を投げかける。
「……何かご用でしょうか?」と返したシャルに、「ちょっと話があるの」と告げ、
彼女たちは彼女を南の中庭の先にある人気のない部屋へと連れ出した。
「さて、ここで何の話を?」と問うシャルに、女は突然声を荒げた。
「あなた、陛下の何なのよ!?」
あからさまな嫉妬と敵意に満ちた声。周囲の令嬢たちも口々に責め立てる。
「最近、目に余るの。あの方に寄り添ってばかりで――誰もが見てるわ」
シャルは静かに受け止めながらも、語気を強めることなく応じた。
「私は陛下に迎えられて、ここにいます」
(……まあ、建前上は“捕虜”だけどね)と心の中で呟きながらも。
「それにしても、赤い髪の平民なんて前代未聞よ! それにそのドレスも――陛下を誘惑してるつもり?」
「このドレスは陛下が贈ってくださったものです。それについて、なにか異議が?」
その瞬間、リーダー格の女が小さなナイフを取り出す。
「なら、引き裂いてあげる。陛下の目が覚めるようにね!」
シャルは軽くため息をついた。
「……幻滅されるのは、そちらかと」
襲いかかろうとする貴族たちを軽々といなし、ナイフを持った女の腕から武器を取り上げると、
逆手に持ち替え、部屋の壁へと正確に投げた。
刃は音もなく深々と突き刺さる。
「貴族の令嬢方にしては、随分と野蛮ですね」
その圧倒的な迫力に、女たちは声も出ず立ち尽くした。
「どうせ私には敵わないのでしょう?なら、せめて無様にならない程度に、引き下がっては?」
恥をかかされた怒りからか、令嬢のひとりがふと悪戯めいた提案を口にする。
「このまま閉じ込めておきましょう――少しは反省するでしょうし」
そう言うやいなや、扉に向けてそっと手をかざし、簡易な封印の魔法をかけた。
静かな光が走り、扉はぴたりと閉ざされる。ノブを試してみても、びくともしない。
満足げにその様子を見届けると、令嬢たちは何事もなかったかのように笑いながら、足早にその場を去っていった。
部屋の中に残されたシャルは、深いため息をついた。
「……女性の嫉妬って、戦場より厄介ね」
イグニスが実体を現し、心配そうに顔を擦り寄せてくる。
「大丈夫よ、ありがとう。むしろ、あの喧騒から解放されて、ちょうどいいくらいだわ」
部屋の隅にあった埃を被ったソファに軽く払って腰を下ろすと、シャルは伸びをしながら体を預けた。
「ほんと……こっちのほうが落ち着く」
そう呟きながら、彼女はほんの少しだけ、目を閉じた。




