第9話 皇帝の差し入れ
彼女が北の帝国に来てから、もう二週間が過ぎていた。
まだ療養中ということもあり、食事は彼女の部屋でとることが多かった。
ノアも最前線の指揮や宰相との執務で多忙な日々を送っていたが、
不思議と夕食時だけは毎日のように彼女の部屋を訪れ、共に食卓を囲んだ。
彼が来るのは嫌ではなかった。ただ、その美貌と熱い視線にはどうにも慣れず、つい俯いてしまう。
「そんなに緊張しなくてもいいぞ?」
ノアはそう気遣うが、内心では――“恥ずかしいんです…”と何度も心で叫んでいた。
そんなある日、食事の世話係がふと気付いた。
彼女が日に日に食べる量を減らしているのだ。
心配になって聞いてみても、
「いいえ!とても美味しいです……。今まで食べたことのないほどに」と笑顔で答えるばかり。
だが食事量は減る一方。心配した世話係は皇帝にそのことを伝えた。
ノアは「ふむ……」としばらく考え、
「少し城下に行ってくる。すぐ戻る」と言い残し、城を出て行った。
昼食後、見たことのない種類のケーキが山ほど運ばれてきた。
「えっ、このケーキは……?」
世話係は「皇帝があなたへ差し入れだそうです」と微笑んだ。
『差し入れ……? いや、これ全部は無理……』
戸惑っていると、ノアが現れた。
「君の好みがわからなかったから、店にあったケーキを全部買ってきた」
「……陛下自ら、お店で?」
「そうだが? 何か問題でも?」
あまりにも自然に言うので、彼女は思わず「えぇ……」と声を漏らしてしまう。
「……気に入らなかったか?」
ノアがどこか寂しげな顔をするのを見て、彼女は慌てて否定した。
「いえ! 驚いただけなんです。ただ、こんなにたくさんは食べきれませんし……」
「全部食べなくていい。好きなのだけで構わない」
戸惑いながらも、彼女は小さな勇気を出して尋ねた。
「あの、陛下……ごめんなさい。私、こういうものを食べたことがなくて、どれを選べばいいのか……」
ノアは少し考えたあと、「今の時期、一番人気なのはこれだ」とショートケーキを指差した。
生クリームと苺のケーキ――ショートケーキ。
初めての味に、思わず顔がほころぶ。「とても、美味しいです」
その笑顔を見て、ノアの胸は跳ね上がった。だが悟られぬよう「気に入ってよかった」とだけ返した。
それでも、食べたのはほんの少しだけ。
ノアはついに正面から問いかけることにした。
「食事の量が減っていると聞いた。味に問題がないなら、何か理由があるのか?」
彼女はさらに顔を赤くし、困ったように俯いた。
「ごめんなさい、身体に異常はないんです。ただ……」
しばし言い淀み、「運動もせず、毎日こんなに美味しいものを食べているので……」
顔を真っ赤にし、両手で顔を隠す。「……ちょっと、太ってきてしまって」
ノアはぽかんとした後、思わず笑みを漏らした。
「こんなにも羽のように軽いのに?」
「作っていただいた服が、きつくなってきたんです……」
彼女は恥ずかしそうに俯いた。
ノアは彼女をそっと抱きしめ、「あははは、そうだったのか」と笑った。
「笑わないでください……」
「ごめん、ごめん。でも、運動ならいくらでも付き合うさ」
「剣術の訓練を、少しだけ……」
彼は一瞬複雑な表情を見せたが、やがて「わかった」と頷いた。
「本来なら君にはもう剣を持たせたくなかったが……俺が相手をしよう。鍛錬場まで付き合って」
彼女は「あの、歩いていきます……!」と訴えるも、
ノアは「君を抱いていると、とても気分がいいんだ」と無邪気に返し、
結局抱きかかえたまま鍛錬場へ。
木剣を手渡され、「全力で来ていいぞ」とノアが笑う。
彼女は「はい」と力強く答え、二人の稽古が始まった。
剣が打ち合わさる音が鍛錬場に響き、集まってきた帝国兵たちも、その優雅な動きに息を呑んだ。
まるで舞踏のように、息を合わせて剣を振るう――
彼女は生まれて初めて、剣を振るうことが「楽しい」と思えた。
三時間に及ぶ稽古が終わる頃には、心地よい疲労とともに、
「陛下……私、こんなに楽しく剣を振ったのは初めてです。ありがとうございました」
と、明るい笑顔を見せた。
ノアは心から嬉しそうに頷く。「それならよかった。これからも、毎朝付き合おうか?」
「はい、ぜひ!」
今日は何度も、シャルの笑顔を見ることができて、ノアはひときわ満ち足りた気持ちでいた。




