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図書館の男

作者: じょん

 昔、昔の話をしよう。遠い昔。遠すぎて、知る者はおらず、語り継ぐものはおらず、書き記されたものさえない遠い昔。この世界かどうかすら分からない、ずっとずっと、昔の話。

 ある図書館の、男の話。


 

重苦しい闇に、蛍のように小さな光がともる。小さな蝋燭にぼんやりと照らされた樫の机は、あちらこちらに細かな傷が付いており、角や縁は鑢でもかけたように丸くなっている。明らかに長い年月、人の一生より長い年月を過ごしてきたと思われる机で、小さな灯を頼りに、一人の男が羊皮紙に羽ペンを走らせている。

 骨ばった体に、飾り気のない、ゆったりとした白い服。蝋燭に照らされた顔には少し皺があるが、四十を超えているようには見えない。だが、羽ペンを機械のように動かし続けている手は熟達した職人のそれであり、三十年、いや、百年書き続けてもそれほどの境地には至らぬと見える。

 男は年代記を書いているようだった。それも事細かに、どこの王が何をして、どの国に対して侵略しようとしているのかまで。それ自体は不思議なことではない。だが、おかしなことに、男の周りには一切ない。巻物も、羊皮紙も、本も、資料と思われるものは一つも。机にあるのは、男が今書いている羊皮紙と、インクを乾かすために開いて置かれている、書き終えた羊皮紙だけだった。加えて、彼は古い言語を用いていた。とてつもなく古い、いつ作られて、いつ使われなくなったのさえ定かでない古代の文字と言語。今は存在さえ知っているものは少なく、伝承するものが絶えて久しい言語。

 男の後ろには、大きな影がぼんやりと浮かんでいる。それは本棚だった。ゆうに男の身長を超える高さの本棚には、びっしりと、隙間なく本が収まっている。そこだけではない。あたりを見渡せば、同じような影がいくつも浮かび上がっているのがわかるだろう。それらは男の背後に置かれた本棚よりもはるかに大きく、蝋燭の明かりではその全容は測りかねた。

 ここは図書館。それも、とてつもなく大きな、普通の図書館がいくつも入るような大きさの図書館。図書館の大きさはすなわち知識の量であり、それらを駆使するのであれば、全ての物事を知ることができるだろう。これらを男が使っているのであれば、男がしていることはなにもおかしくない。だが、男はそれらを一切参照することなく、わき目も振らず、一心不乱に書き綴っている。その筆先に迷いはなく、まるで、知っている事実をそのまま書き写しているかのように……。

 突然、闇に切れ目ができた。油の切れた蝶番が軋んだ音を立てる。開かれていくにつれ差し込む光は、蝋燭よりも力強く闇を払い、埃混じりの空気が外に流れていくのを照らしだす。男は眩しさに奔る手を止め、その手を目の上にかざした。上半分が隠れた視界に、朝日を背にした人の影が映る。

「あー!またこんなに暗い所で書いて!明かりなら気にせず使ってくださいって、いつも言っているじゃないですか!」差し込んだ光のように明るい声が男を呼ぶ。

「すまない。ついつい昔からの癖でね。このほうが、何か、雰囲気がいいんだ。」男はまだ眩しさに慣れない目を瞬かせながら微笑んだ。

「そんなことしてると、目が悪くなりますよ、タナエルさん。」



「悪くなんかならないさ。私は衰えることはないからね。」私がいつもの調子で答えると、エレナ君はむっとした表情をしたが、何も返さずに、窓際に上る梯子に向かって行った。

 図書館には明り取りの窓がたくさんあるのだが、その中でも一際大きい窓は、二階にある。二階に昇る階段もあるのだが、窓に向かうだけなら、壁際に設置された梯子の方が早いと言って、彼女はそちらを使う。

 梯子を登りきると、彼女は教会のステンドガラスほどもある大きな窓を覆っているカーテンを、腕を目いっぱい伸ばして一息に開けた。

 重たいカーテンが開かれると、飾り映えのしない窓が現れ、朝日が真っ暗闇だった図書館全体に差し込んだ。二階は吹き抜けになっており、窓の明かりを最大限取り入れるように設計されている。

私はこの瞬間がとても好きだ。触れられるかと思うほどたちこめていた闇が、一瞬にして消え去る。コインを裏返すかのように、名残を残すことなく闇が光に代わっていく。私は闇を好むが、光も愛している。

 エレナ君は次々とカーテンを開けていく。跳ねるように歩く彼女のあとを、栗色の長い滑らかな後ろ髪が朝日に輝きながらついてゆく。全てのカーテンを開けると、彼女は階段を下り、今度は一階のカーテンを開け、窓もいくつか開けて空気を入れ替え始める。

一度、疑問に思って彼女に訪ねたことがある。どうして一階から開けないのかと。わざわざ上るより、下からやった方が早いのではないかと思ったのだ。

彼女が少し気恥ずかしそうにはにかんだ顔を、よく覚えている。

「だって、このほうが気持ちいいじゃないですか。図書館いっぱいに朝日がぱあーって。……変ですかね、わたし?」私は首を横に降った。確かに、闇を振り払う朝日は、いつか見た光のように美しいと思うから。

 物思いに耽っていると、鈍い鐘の音が鳴り始めた。

「いけない、もう時間!」エレナ君は慌ただしく図書館を走り回り、準備を始めた。

「エレナ君、今日はいつもより遅く来たみたいだね。」急ぐ彼女を横目に私も準備を手伝う。

「う……。実は、ちょっと寝坊してしまって……。」先程まで書き物をしていた机に受付の道具を置きながら、彼女はばつの悪そうな顔をした。私はそれを正しい位置に配置していく。

「寝坊か。君にしては珍しいな。何かいいことでもあったのかい?」予想は的中し、彼女の顔が一瞬にしてリンゴのように赤くなった。

「いい、いいことなんて、べ、別にありませにょ……!」

 噛んだ。

「……ふむ。よほどいいことだったらしいね。」

「ああ!にやにやして!本当に何もしてないですってば!」彼女は腕をぶんぶん振って否定する。

「さて。私は『いいことでもあったかい?』と訊いたのだが。そうか、今日は君からしたわけだ。」くつくつと笑う。彼女の顔が、リンゴから、最早たとえられない色になっていく。

「……タナエルさん!」

「はは。これ以上はやめておこう。早くしないと人が来てしまう。」先ほどの鐘は、図書館の振り子時計の音で、十時を知らせている。

図書館の開館時間は十時十五分から。エレナ君の反応が面白いからといって、これ以上彼女を困らせたら業務に支障が出てしまう。

……それに。

「あまり怒らせると、後で大変だからな……。」



「……それで、何て言ったと思います?『そんなにたくさん祝ってどうするんだ』ですよ!?信じられます!?」彼女はティーカップを机に叩きつけた。紅茶が跳ね、数滴こぼれたが、気付いている様子はない。私は苦笑いを浮かべた。

「それは彼の言い方が悪かったかもね。」ティーカップをソーサーに置く。勿論、彼女よりも優しく、ゆっくりと。

 振り子時計は三時を過ぎており、図書館は昼間と夕方の中間である柔らかな光をとり込んで、時までもが歩みを緩めているかのようだ。

 私達は受付の後ろに設置された、背もたれが固い椅子に腰掛け、昼下がりの休憩を紅茶で楽しんでいた。

彼女が考え出したことだ。

「お昼過ぎに紅茶って飲みたくなりません?」そう言いだしたのはいつだったか。彼女はいつも突拍子もないことを言い出す。

私があいまいな返事をすると、翌日彼女は自宅から茶葉とティーカップ一式を持ち込んだ。以来、三時になるとこうしてひと時の休息を楽しむようになった。当然、まだ図書館の開館時間なのだが、この時間は人の入りは少なく、たくさんの利用者がいるわけでもない。騒ぎ立てない限り、だれに迷惑がかかることもない。なにより、こうした時間は私にとっても楽しい時間となっている。

「ですよね、やっぱりそう思いますよね!」エレナ君はその回答に満足したように胸を張ると、置いたばかりのティーカップをまた手に取った。

 この時間、私たちはとりとめのないおしゃべりをして過ごす。といっても、話しているのはエレナ君が主で、私はほとんど聞き役に徹している。私が話上手じゃないのもあるが、図書館から出られない私には、提供する話題がない。エレナ君も承知しているのか、彼女は進んで最近の街の様子や世情について話してくれる。最も、大半はエレナ君の恋人の話だが。

 恋人の名前はジョー。町の警備隊で働く青年で、エレナ君が道に迷っていたときに助けてくれたのがなれ初めらしい。彼女は方向音痴なのだ。最初のころは、しょっちゅう道に迷って遅刻をしていたほどに。つきあいはもう三年ほどになる。さっぱりとした性格で、言いたいことをはっきり言うらしい。それは彼女も同じなので、よく衝突もするみたいだが、すぐに仲直りする。といったことが、ジョー君に会ったことのない私が知っているほど、よく話題に上る。それだけエレナ君がジョー君を愛しているということである。……因みに、仲直りの助言をしたのも一度や二度ではない。

今回は、恋人がエレナ君との「出会いの日」を忘れていたそうだ。その事で喧嘩になり、まだ許してあげていないらしい。

「でも、彼は忘れていたわけじゃないと思うよ。単に、お祝いをする日じゃないと思ったのではないかな。」

「それこそひどいじゃないですか。それって、特別な日だと思ってないってことですよね。私との出会いなんて、あの人にとっては特別じゃないんだ……。」しぼみがちになっていく言葉と比例して、うつむくエレナ君。

「そんなことはない。彼は君のことをとても大切に思っているよ。彼は、一言でも『忘れていた』なんていったかい?」小さな子供をなだめすかすように尋ねる。エレナ君はうつむいたまま、首を横に振った。

彼女は時折子供のような表情を見せる。よく笑い、良く泣く。落ち込んだかと思うと、すぐに立ち直ったりとせわしない。

「じゃあ、君の誕生日はどうだろう。忘れたり、祝ってくれなかったかい?」彼女は首をぶんぶんと振った。

「……私の誕生日は、仕事を休んで、お出かけして、おいしいお店に連れて行ってくれて……プレゼントをくれます……すごく高いのを。」ぽつぽつと話す彼女だったが、言葉の端々に、その日の事を想い出しているのか、嬉しさがにじんでいる。

「ほら、大事な日にはちゃんと祝ってくれているだろう?」

「でも……。」うつむいた顔を上げるエレナ君。目が潤んでいる。私は席を立つと、彼女の頭に手を置いた。

「大丈夫。君の恋人は、ちゃんと君を愛してくれているよ。私が保証しよう。」

 エレナ君は濡れた目で私を見上げたが、やがて袖で目をごしごしとこすると、また私を見上げた。

「タナエルさんがそういうなら、許すことにします。」彼女はにっこりと笑った。眩しくて温かい、朝日のように。私も微笑んで返した。

 

「タナエル書記はいらっしゃるか。」低く響く声に振り向くと、図書館の入口に、長い影がいくつも並んでいた。皆鋼の鎧を着こんでいる。

 盾に一枚の羽根が描かれた紋章を、皆鎧の胸辺りにつけている。それは、この国の正式な兵士であることを示すもの。

「タナエルは私ですが。」彼らの方へと向きなおり、手を後ろ手に組む。エレナ君は怪訝そうに彼らを見つめている。

「失礼しました。私は、ラント国軍騎兵隊隊長、ブランケットであります。」一団の先頭に立つ、一際豪奢な鎧を纏った兵士が一歩前に出ると、仰々しい礼をした。彼の率いる兵士たち膝まづいてこうべを垂れた。

「そんなことはしなくて結構です。私は将校ではありませんから。どうか楽にしてください。」

「はっ!」返事はしたが、彼は軽く足を開いただけだった。兵士たちも立ち上がりはすれ、直立不動の姿勢は崩さない。私は心の中でため息をついた。

「ブランケット騎兵長ですね。今回の戦で、なかなか活躍をしておられるとか。そのような方が、ただの図書館書記である私に、何のご用でしょうか。」

「ただの、とは御謙遜を。あなたは、神に愛され、祝福されたお方と聞いております。」いちいち大げさなもの言いをする。

「それこそ誇張です。やらなければいけない仕事があり、私が一番適任だっただけの話です。」

「そう、あなたは仕事を任された。私が来たのは、そのことなのです。」ブランケット騎兵長は、少し興奮した調子で言った。

「単刀直入に申し上げます。あなたの英知を、私たちにお貸しいただきたいのです。」

「お断りします。」私は即答した。考える余地もないことだった。

「な、なんと。協力しないとおっしゃるのですか。」

「私は個人、集団、国家、宗教、思想その他あらゆる世界の物事に対して干渉できないことをあなたもご存じのはず。私が授けられた力は人のために非ず、神のためにあるのです。故にあなたには協力できない。」

「ですが、あなたはこの国に属している。国民である以上、国に尽くすのが国民の務めでしょう。」彼はいきり立って私に詰め寄った。どうも彼は感情的になりやすい性質らしい。

「属しているのではありません。ただ、この国の領地にこの図書館があるだけの事。」

「同じ事です!」

「違います。この図書館は私と同じく、どの国にも属さず、知識の扉は誰に対しても開かれています。この図書館は全てから独立している。故に中立でもある。」

「……どうしても、協力しないというのですね。」彼は肩をいからせ、拳をかたく握りしめている。

「しないのでなく、できないのです。貴方には、理解していただけないようですが。」

厳めしい顔で睨みつける彼の視線を、私はまっすぐ受け止めた。

 やがて彼は視線をそらしたが、拳は握りしめたままだった。

「わかりました。今日のところは引き上げます。ですが、お忘れなきよう。国が敗れて困るのは、貴方も同じだということを。」

「国が変わっても、私は仕事を続けるだけです。最も、そうならないために貴方達がいるのでしょう。貴方に武運があらんことを。」ブランケット騎兵長は小さく頷くと、その場で回れ右をして兵士たちと共に去っていった。

「まったく、なんなんですかね、あの態度!」鎧の音を激しく立てながら去るかららの背中をみながら、エレナ君は口をとがらせた。

「それだけ焦っているということだろう。だいぶ劣勢だからね、この国は。」

「無理に戦なんか仕掛けるからこんなことになるんですよ。どうして仲良くできないのかな。」

「戦争なんて、いつの時代も不毛なものだ。勝っても負けても、たくさんの命が失われていく。たくさんの民の血が流れていくだけなのにな。」

 いつの時代も変わらない。戦って、勝って、負けて、いくつもの国が興り、いくつもの国が滅亡した。人はそれをずっと繰り返している。何度も、何度も、歴史は繰り返されていく。

「タナエルさん?」

「ん?ああ、すまない。ちょっと考え事をね。」不安げに声を掛けられて、物思いから離れた。

「ずいぶん深刻な顔してましたけど、どうかしました?」

「いや、どうもしないよ。長生きすると、くだらないことを考えてしまうものなんだ。」

「そんなものなんですかねぇ?」彼女は小首を傾げた。そんな彼女を見て、思わず笑みがこぼれる。

「そんなものだよ。私ぐらい長生きしたら、きっとわかるさ。」

「そんなの無理じゃないですか。」頬を膨らませるエレナ君。

「がんばって長生きしなさい。さ、そろそろ休憩は終わりにしよう。あんまり休んでいると、閉館時間になってしまうよ。」



 太陽は不思議だ。普段は白く光っているというのに、日の出と日の入りの時はどうして紅く染まるのだろう。長い年月、幾度もこうして眺めているというのに、いまだに解らない。

図書館とはすなわち知識。特にこの図書館は、世界に類をみないほどの蔵書を誇る。調べようと思えば何でも調べることができる。知識を求めれば応えてくれる。どうして太陽が朱に染まるのかなど、調べれば造作もなく解ってしまうだろう。

だというのに、私は解らないままにしている。

自分で言うのもおかしな話だが、知識欲、知らないことを知りたい、解らないことを理解したいと思う欲求は、人一倍ある。だからこそ本を愛し、こうして司書となって生きている。

だが、この事だけは、あえて解ろうとはしない。どうしてだろうかと考えるのにもかかわらず、答えを求めない。意地になっているのか、ただこうして考えるのが楽しいのか。私にもわからない。だが、解らなくてよいと思っている。解らないままで、いいのだと。

時を告げる鐘が鳴る。一回、二回、三回、四回……。

図書館全体に響く鈍い音は、五回目を鳴らして止まり、空気に溶けて消えてゆく。

五時、閉館の時間だ。

「エレナ君。もう残っている人はいないかい。」図書館全体に聞こえるよう、できる限りの声でたずねる。

「はーい。最後の人も、十分前にお帰りになられましたー。」彼女の間延びした声が二階から聞こえる。

「じゃあ、君も今日はもう帰りなさい。後の事は私がやっておくから。」

「え、でも、まだ本の整理が終わってないですし……。」エレナ君が、二階の手すりからひょっこり顔を出した。

「それは私がやるよ。君より、私がやった方が早い。もう勤務時間外なんだから。」

「でも……。」彼女はまだ迷っている。仕事はきっちりこなす彼女だから、途中で投げ出すように感じてしまうのだろう。

 私は目線で外を見るよう促した。彼女は二階の窓から、外を眺める。

 図書館の外、向かいの建物に寄りかかって立っている男がいる。腕を組んで、眠っているように見えるが、時折目を開けては、図書館をちらちら見ている。それも三十分以上前から。

「あんまり人を待たせるものじゃないよ。」

「……はい!」元気よく返事する彼女は、満面の笑み、嬉しくて、幸せな表情を浮かべていた。

 いつもはぱたぱたという表現がぴったりくる彼女が、ドタドタと激しい音をたてて階段を駆け下りてきた。手には既に荷物を持っている。

「すいません。じゃあ、あとの事はよろしくお願いします。」

「はやく行ってあげなさい。」私は待ち人の所へ早く行くよう促した。彼女は最後におじぎして、図書館を後にする……。

 ところで、入口の前でぴたりと止まってこちらに振り返った。

「忘れてました。すいません、私、明日お仕事お休みします。父と母が郊外に住んでいて、明日こっちに引っ越すことになっていて、それの手伝いをするので……。代わりの者が来ることになっているので、よろしくお願いします。」

「わかった。御両親によろしく。気をつけるんだよ。」

「はい。それじゃあ、また明後日。」そう言って、今度こそ、彼女は図書館を後にした。私は入口に立って、駆けていく彼女を見送った。駆けていく先には、彼女の恋人が待っている。

 エレナ君がジョー君の所につくと、二人は何か話し始めた。というより、ジョー君が、というべきなのだろうが。しばらくして、二人は家路へと向かった。しっかりと手をつないで。私はそれを、見えなくなるまで見ていた。彼らが町角へと消えていくまで、ずっと。

 二人が見えなくなるのを見届けると、仕事を終わらせることにした。なに、彼女なら一時間以上かかる仕事も、私なら早く終わる。この図書館に関して、最も詳しいのは私だ。いや、寧ろ親しいというべきか。なにしろ、図書館の誕生に立ち会ったときからの付き合いだ。親友とさえ言っても過言ではない。無機物を人と同格に扱うとしての話だが、少なくとも、私はこの図書館に愛着以上のものを感じている。

 仕事は十分かからずに終わった。これからは、私の仕事の時間だ。図書館の扉を閉め、カーテンも閉めようと窓へと歩み寄る。だが、私は伸ばした手を宙で止めた。

 今日は夕日が綺麗だ。せっかくなのだから、夕日が沈むまで眺めていることにしよう。仕事は山積みで、刻一刻と増えるが、期限はない。そもそも終わりのない仕事だ。焦る必要はない。夜は長いのだ、日没までの休息くらいはいいだろう。

 窓辺に腰掛け、沈みゆく太陽を見つめる。理由のわからない赤が、地平線を染めながら沈んでゆく。それを見つめる。瞬きも、そらすこともせず、ただ、じっと見つめる。



 太陽は沈んだ。昼が終わり、夜が訪れる。空には白銀の月が浮かび、星とともに煌めいて夜空を飾っていることだろう。だが、それは私には見えない。カーテンは閉め切られ、図書館は闇に包まれている。明かりは、古びた机に置かれたちっぽけな蝋燭の光のみ。

それで十分。仕事に月はいらない。冷たく優しい、白き光はいらない。必要なのは、手元をはっきりと照らしてくれる蝋燭だけでいい。

羽ペンを執る。ペン先をインクの瓶にそっとつける。羊皮紙に、ペン先が触れる。

仕事が始まる。

ペンを奔らせる。羊皮紙という名の大地を、羽が駆ける。後にはインクの道が残される。道は文字であり、歴史である。この国の、或いは別の国の、或いは別の大陸の歴史を、羊皮紙に綴る。目は自らが綴る文字のみを捉え、資料の類は一切見ない。それらは机に存在しない。私はそれらを必要としない。私に資料は必要ない。ただ、頭にある知識を、送り込まれ、流れ込む知識を、書き写すだけ。



昔、昔。まだ、神々が人とともに在った時代。

私はこの図書館で働いていた。今と同じように、一介の図書館司書として。この図書館の建設に立ち会い、完成と共に職に就いた。

私は本が好きだった。何よりも好きだった。本に熱中して、食事を忘れることは度々だった。

私には父がいた。母がいた。たくさんではないが、友人もいた。親友と呼べる者がいた。恋人がいた。私は、孤独ではなかった。

その彼らよりも、愛し、愛される家族、仲間、伴侶よりも、私は本が好きだった。本は生き甲斐だった。本があれば生きてゆける。本がなければ生きてゆけない。いつしか本は私のすべてとなり、それを私は幸せと感じていた。

そんな私の生き方が、神々の目に止まった。世界最大の図書館に働く、全ての蔵書に目を通し、全ての本の蒐集に異常な熱意を注ぐ男の存在を、神々は知った。

彼らは契約を持ちかけた。

「老いず、死なず、眠らず、渇かず,餓えぬ体をやろう。代わりに、世界を記録せよ。」と。

三十を過ぎたある日、ふと思ったことがある。一生こうしていられたら、未来永劫本を読んでいられたら。だが、それは叶わぬこと。人は不死ではない。いずれは老い、死んで行くのだと。考えたら怖くなった。死ぬことが怖いのでない。老いることが怖いのでない。死んで、本が読めなくなること。老いて、文字が読めなくなり、今まで得た知識がこぼれて行ってしまうこと。それが、それだけが怖かった。

私は迷わず契約した。不老不死になり、世界を記録するようになった。

私には知識が流れ込む。世界のすべての知識が。私はこの世界に起こっていることすべてを知ることができる。

 この力を使い、私は記録する。神々に任されたのは、歴史の記録。いつ、何処で、誰によって国が興り、どのように滅んでいくのか。それらを羊皮紙に記し、記録する。

 これがなぜ必要なのかはわからない。なぜ神々がこれを必要とするのか、こんなものがなくても、神々は世界を知ることができるというのに。

私は知らないし、知らされていない。ならば、知らなくていいことなのだろう。知ってはいけないことなのだろう。

だから私は聞かない、尋ねない。ただ、流れ込む知識を、書き記すのみ。

 これは人の目には触れてはならない。人には過ぎる知識だから。神々のための、神聖な知識だから。夜に書くのもこのため。この場所、この時間であれば、人の目には触れられない。

 書き終えたものは厳重に保管される。私しか知らない、秘密の隠し場所に。そこがいっぱいになることはない。気づけば、古いものから順に無くなっている。

 私は慌てない。それは、神々が持ち去ったのだ。私が罰せられないのがその証拠。神々は全てを見ている。神々は全てを知っている。契約を破った瞬間、神々はそれを知る。

 一つ。記録を与えてはならない。

 一つ。知識を与えてはならない。

 一つ。図書館を出てはならない。

 神々と交わした、三つの約束。それは神のためであり、人のためであり、私のため。故に私は忠実に約束を守る。この身に何が起こるのかを、私は知っているから。

 私は書き続ける。ひたすらに書き続ける。不老不死の対価を、私にとっては安すぎる対価を。

 書き続ける。何年、何十年、何百年、何千年もそうしてきたように。何年、何十年、何百年、何千年と書き続ける。

 終わらない記録を書き続ける。



 青く澄み渡り、美しい夕日を見せてくれた空は、一転してどんよりとした雲が世界を覆い、今にも泣きだしそうだ。窓辺から薄暗い空を見上げつつ、代理の司書を横目に見る。

 エレナ君の代わりに来たのは、少し年を召した男性だった。が、仕事ぶりはしっかりしていて、安心できる。正直エレナ君よりも仕事が早く、私は手伝う必要もないためにのんびりと読書をすることができた。

彼女がいる時も読書はしているが、それは度々中断される。昔よりはだいぶ減ったが、それでも時々、彼女は失敗をする。

本を運ぶときに転んで床にばらまいたり、整理し終わったと持ったら、間違っていたり。その度、私は小さなため息と共に苦笑し、読みかけの本を置いて彼女を手伝う。

お気に入りの安楽椅子に座り、読書にふける。本当に久しぶりに、読書に没頭できる。それは、私にとってはこの上なく幸せなことだ。この時間のために、私は神々と契約したのだから。

なのに。なのに私は、時折本を読み進める手を休め、図書館を見渡す。

ここは、こんなにも静かだったのか。こんなにも、広かったのか。

こんなにも、暗かったのか。

それを、寂しいと感じてしまうのはなぜだろうか。いつもの図書館、いつもの風景。ただ、彼女だけがいない。それだけで、どうして、こんなにも……。

頭を振って思考を中断する。自らの思考を鼻で笑う。これでは子供だ。たった一日いないだけの事。明日には彼女は戻ってくる。なら、今はこの時を楽しむべきだ。明日からはまた、読書に没頭する時間はなくなるのだから。

窓から外を覗く。地面にポツリ、ポツリと雨粒が落ちていく。それは次第に数を増し、速さを増し、やがて激しい雨に変わっていった。

引越しの手伝いをする。彼女はそう言っていた。もう終わったのだろうか。この雨に降られてないといいが。

ふとあることを想い出し、書き物机の引出しをあける。そこからあるものを取り出すと、窓辺に打ち込まれた釘にくくりつける。

一歩下がって見栄えを確認する。

「よし。」私の奇妙な行動を見ていた代理人が、不思議な顔をして尋ねた。

「それは、なんですかな。初めて目にするのですが。」

「ああ、これは、『てるてるぼうず』というものです。異国の風習で、雨の日にこうして吊るしておくと、雨が止むという、まあ、願掛けやおまじないの類ですよ。」と、小さなボールを布でくるんで紐で止めただけの人形の説明をする。

「ほう、異国の風習ですか。流石ですな、私のような凡人とは知識の量が違う。」老人は感心して何度も頷いてはてるてるぼうずを眺めている。


それは、今日みたいに突然激しい雨が降ってきた日の事。彼女は外を見て嘆いた。翌日に、ジョー君と出かける予定があったそうだ。彼女は恨めしそうに外を見ると、

「明日にはやんでくれないかなぁ……。」と、ため息をついた。私は、異国の文化をまとめた本に、雨を止ませるための呪物がのっていたのを想い出し、彼女に話した。

彼女はそれを聞くと、それを作ろうと言った。こう言い出した時の彼女の行動力は知っていたので、私は思い出すままに、作り方を教えた。

十分後。窓にはてるてるぼうずがつるされていた。笑い顔に、舌を突き出した、なんとも奇妙な表情をしていた。

「何で舌を出しているんだい?」私は尋ねた。

「空にしているんですよ。私の邪魔しようったって、そうはいかないんだから。」そう言って、彼女は空に向かって舌を突き出した。

翌日、雨は止んだ。

「早く止むといいんですけどね……。」雨は、さらに激しさを増して降り注いでいる。窓に小さく舌を突き出す男が映っていた。



雨は止まなかった。

十時の鐘が鳴り、私は手を止めた。

「あれ、まだエレナ君は来ていないというのに。寝坊でもしたんだろうか。」呟きながら、いそいそと片付けを始める。

最近はまったくしないが、寝坊は以前にもあったことだ。そういう場合は、彼女が来るまで私が仕事をする。元々が司書であるし、何の問題もなかったが。

 それとも、昨日の雨で風邪をひいたのかもしれない。そんなことを考えながら、カーテンを開けていく。

 何も問題はないだろう。どうして彼女が来ないのかは気になるが、この雨では訪れる者もいないだろうし、読書の日だと思えばいい。そう考えると、今日はなんだかいい日がしてきた。喜ぶ心の隅で、不安が首をもたげていた。

 突然、ノックの音がした。いや、どちらかといえば、拳を叩きつけるような、強い、大きな音が。

「開けてくれ!頼む、開けてくれ!」雨の音と共にくぐもった叫びが扉から漏れる。

「わかりました、すぐ開けます。」扉をたたく音はさらに強くなる。放っておけばぶち破って入ってきそうだ。

「今開けるから叩かないで。……まったく、長い間この図書館に勤めてきたが、開館前に入ろうとする人は初めてだ。」扉の向こうにいる人物に話しかけながら、かぎを開ける。

 扉が開くと同時に、人が倒れ込むように入ってきた。思わず飛び退く。だが、私の足にしがみついてこちらを見上げる顔に見覚えがあるのに気付いた。

「君は……ジョー君?」癖のある茶色の髪に、太い眉。エレナ君が良く話してくれるジョー君の特徴であり、一昨日彼女の手を引いて行った男が目の前にいた。

「助けてくれ!お願いだ、エレナを助けてくれ!」彼はわれた声で叫んだ。全身はびしょぬれだが、顔をながれていくのは雨だけではなかった。

「落ち着いて。一体、何があったのですか。」

「エレナが……エレナが攫われた!」


「ほら、飲むといい。温まるし、少しは気分が落ち着くだろうから。」

「……ありがとうございます。」ジョー君は、悲痛な面持ちのまま、熱い紅茶のカップを受け取った。取っ手には手を触れずに。熱いのには慣れているのか、感覚がないほど動転しているのか。彼はカップを両の手で包みながら、口はつけなかった。タオルを貸したが、彼は使わず、ただ頭にかぶせている。

 それでも、さっきよりは落ち着いたようだ。私も紅茶を一口すすった。いつもは彼女が入れてくれるお茶を。味はよく解らなかった。

「それで、エレナ君の身に何が起こったんだい。」私は努めて平静を装った。だが、落ち着きがないのは私も同じだ。彼のように叫びたくなる。彼をゆすって答えを求めたい。だが、私は彼が語るのを待った。

 悠久よりも長く感じさせられた沈黙ののち、ジョー君はおもむろに口を開いた。そして、何が起きたのかを簡潔に伝えた。

 昨日、エレナ君は彼を伴って両親の元へ向かった。引越しを手伝うためと、恋人を紹介するために。二人は彼を気に行ってくれ、引越しのためにわざわざ仕事を休んできてくれたことに感謝した。

 荷づくりが終わり、出発の準備が整った時だった。

 敵が、攻めてきた。戦争相手のアルト国の奇襲だった。エレナ君の両親が住んでいたところは、国境に近いところだった。

 ジョー君は国境警備の者たちに交じって戦ったが、その最中に頭を殴られ気絶した。目を覚ました時には全てが遅かった。

 村は略奪され、人々は殺された。

絶望に襲われながらも、彼は逃げ延びた人々の中を捜しまわった。そして、エレナ君の両親を見つけた。しかし、そこに彼女はいなかった。

彼女は捕虜として連れ去られたのだ。

ジョー君は、語り終えると、口をつぐんだ。重くのしかかる沈黙。雨の音が、耳に喧しい。

「……教えてくれてありがとう。だけど、どうして君は私の所に来てくれたんだい。君と面と向かって話すのは、これが初めてだと思うけど。」沈黙がつらくて、現実を受け止めるのがつらくて、とりあえず会話をしようとした。

 彼はその言葉を聞くと、語る間もずっとうつむいていた顔をあげ、両の目でしかと私を見据えた。

「エレナから聞きました。ブランケット騎兵隊長が貴方のもとを訪ねたと。警備隊でも話題に上っています。」

「……そうですか。」

「こうも聞きました。貴方は神々に祝福され、全ての知識を持つと。貴方が知らないことはないと。」

「全て、とは言えないでしょうが。この世に起きていることならば、です。」

「貴方にはわかるはず。敵の弱点から、作戦まで全て、貴方には手に取るようにわかるはずです。」

「……。」その先は聞かないでも分った。

「お願いです。その知恵で、知識で、エレナを助けてください!」深々と頭を下げる。

「……お受け、できません。」私が返す言葉もまた、変わらなかった。

「なぜです!?貴方の知識を少し貸してくれるだけでいい!あとは我々が、兵士たちがやります。貴方はただ、少しだけ、ほんの少しだけ、知識を与えてくれるだけでいい!」

「私は神と約束したのです。知識を与えてはならない。神の力によって得た私の知識は人に与えてはならない。私がこの国に加担すれば、勝利は間違いないでしょう。ですがそれは、運命さえ捻じ曲げてしまう行為なのです。」

「じゃあ、エレナを見殺しにするのですか!?救う力が、助ける力を持ちながら、貴方はそれを使わないというのですか!?」

「君は事の重大さを理解してない!」

「恋人より大事なことがどこにあるんだ!」私の叫びは、彼の叫びにかき消された。

「……そりゃあんたには御大層な運命ってものの方が大事だろうさ。でもな、俺にとっちゃそんなことどうでもいい。運命がねじ曲がろうが構わない、愛する者が助かるなら、なんだってする。それが、人を愛するってことだろう。あんたは、そういう気持ちがわからないのか?」

「……君の、願いには、応えられません……。」私に返せるのは、その答えだけだった。

 彼は私を見つめる。私はその目を見ていられなかった。

 ジョー君は力なく立ち上がった。そのまま扉へと向かう。私は声をかけず、見送ることもしなかった。

 ジョー君が扉を開ける。外は相変わらずの大雨だ。雨音が激しくなり、湿った空気が図書館内に入ってくる。

 彼は去り際こういった。それは、私の耳にいつまでも残った。

「エレナが、あんたの事をよく話してたよ。素敵に優しくて、賢い人だって、笑顔でな。だから、もしかして、と思って、ここに来た。けど……。」雨の中に歩きだすジョー君。

「俺もエレナも、過ぎ去る時の一瞬でしかないんだな。」



夜。雨はまだ降りやまない。月も、星も出ていない外は真っ暗闇で、窓につく雨粒すら見えない。

 だだっ広い静まり返った図書館に一人、私は闇に埋もれていた。

 机にはいつもの道具。インク、羽ペン、羊皮紙、蝋燭。時刻はすでに夜、閉館時間はとっくに過ぎている。

羽ペンはインクにどっぷりとつかったまま。羊皮紙にはなにも記されておらず、蝋燭は灯されてすらいない。私は手を動かさすことをせず、まどろむこともなく、ただ彼の言葉を反芻していた。

『俺もエレナも、過ぎ去る時の一瞬でしかないんだな。』

 返す言葉がなかった。長い、悠久の年月を重ねてきてきた私には、一時間、一日、一週間、一年、十年、百年ですらが一瞬だ。

愛してくれる家族がいた。想ってくれる友がいた。隣を歩く伴侶がいた。

それらを過去に置いてきた。過ぎ去った時に、別れを告げた。

皆死んだ。家族も、友も、恋人も。皆老い、土へと還った。私だけが先へと進んだ。

悲しくなかったと言えば嘘になる。涙だって流した。でも、それだけだ。彼らを失っても、私は絶望しなかった。彼らがいなくなっても、私は生きていけた。

私のすべては本だったから。どれだけ悲しもうと、本があれば生きていけた。どれだけ人を愛そうと、私の一番は本だけだった。

親しくなった司書はいた。打ち解け、語り合い、気心の知れる仲になったものがいた。私を友と呼んでくれる者がいた。結婚式を図書館で行い、仲人を頼んでくれた者がいた。

皆死んでいった。私は彼らの死に涙を流すだけだった。

だから、同じ。エレナ君はいい子だった。私に親しくしてくれたし、私も彼女といて楽しかった。

それだけ。特別なことは何もない。彼女が死んだら、きっと悲しくなる。涙を流す。

それで終わり。彼女は私の友人として心に刻み込み、時々思い出しては意味もなく感傷に浸る。ただ、それだけの事。

そう。たった、たったそれだけの事。

なのに、なのになぜ。

なぜ苦しい。なぜ悩む。一瞬のはず。私の長い時間の、一瞬の記憶に過ぎない。羊皮紙に記す一文のごとく、大きな流れの中のちっぽけな存在のはず。

なのになぜ、彼女の笑顔がちらつく。なぜ、胸が痛む。心臓が張り裂けそうだ。

胸の中心を握りしめる。強く、強く。その手が、硬いものに触れた。

服の中に手を突っ込む。取り出した手には、小さなペンダント。星の形をした、一時期は流行ったが、流行が終わった途端に見なくなった、安物の、ペンダント。


「これ、今流行りなんですよ。」それはいつだったか、彼女がくれた贈り物。

「タナエルさんって、いつも同じ服装ですよね。シンプルでいいんですけど、なんか地味っていうか。少しはおしゃれすればいいのに。」そう言って、私の首にかけてくれたエレナ君。見栄えを見て、満足そうに頷くエレナ君。服の中にしまってしまう私を見て、それでは意味がないと頬を膨らませるエレナ君。

昨日の事のように、今起きているように、まざまざと、ありありと、目に浮かぶ。


「そうか……。私は……。」

朝図書館に来て全ての雨戸をあけて行く彼女が。

細い腕でたくさんの本を抱えて歩きまわる彼女が。

訪れる人を案内する彼女の声が。

昼過ぎに入れてくれる彼女の紅茶が。

日々の事、町の事、付き合っている相手の事を楽しげに、時には悲しげに涙する彼女の仕草が。

「さようなら、また明日」と告げてくれる笑顔が。

恋人の手を取って去っていく姿が……。

「君の事を……。」

太陽のように笑う彼女を、私は……。

それが、失われる。理不尽に、突拍子もなく。罪もなく、咎もなく。ただそこにいたというだけで。

それだけは許されない。

それだけは、堪えられない。

彼女のいない世界に生きてはいられない。もう本だけでは生きられない。

いつかは失われる命だ。常命の運命だ。共に歩むことはできない、最後を共にできない命だ。

それでも。それでも、それはまだ、先の話だ。死はいつか訪れる。でもそれは、今じゃない。

彼の言葉を想い出す。

『愛する者が助かるなら、なんだってする。それが、人を愛するってことだろう。』



十時の鐘が鳴り響く。重たいカーテンを開けていく。窓から朝日が差し込み、闇が払拭される。

空は突き抜けるように蒼い。てるてるぼうずはやっと役目を果たしてくれたようだ。

「お疲れ様。」てるてるぼうずを外し、引出しの中に戻す。

鍵を開けて、扉を開く。音の波が押し寄せる。路上を兵士が列をなして歩く。その前を、その脇を、その後ろを、音楽隊が練り歩く。誰もが飲めや歌えやの大騒ぎ。戦争の終結に、国はお祭り状態だった。

五年にわたる戦争。それが、攻め込んで三日で、あっさりと終わった。この国の勝利で。

捕虜は解放された。パレードの後ろに、囚われた人たちがつき、家族を、友人を、恋人を探している。彼らは次々と列から離れていく。あるものは見つけられ、あるものは見つけ、あるものは捜しに。

相手を見つけると、ひしと抱き合う。彼らの再会を周りのすべての人が祝福する。

私も見つけた。彼女を。両親に抱きしめられ、恋人と熱い口づけを交わす姿を。

ほっと胸を撫で下ろす。同時に、疲れがどっと押し寄せる。

 空を見上げる。どこまでも蒼く、高い空。そのずっと先を見つめるように。

「ありがとうございます。もう……、結構です……。」



溢れる涙が止まらない。嬉しすぎて、胸が苦しい。起きたことが、信じられない。

勝った。戦争に、勝ったのだ。あっという間に。囚われた五日目に戦争が終わったのだ。

「信じられない!本当に、奇跡ってあるのね!」興奮のままに彼を抱きしめ、叫んだ。周りが私たちを祝福する。その声に負けじと、彼が叫んだ。

「奇跡じゃないさ!彼が力を貸してくれたんだ!」

「……え?」

悪寒が、走った。興奮が一気に冷めた。

 今、何と言ったの?ジョーは、誰の事を言ったの?

「どういうこと……?」私は彼から離れて、聞いた。血が凍っていく。冷や汗が流れる。私の顔は、きっと真っ青だ。だけど、彼は気付かない。私に突き放されたことに困惑しているが、いまだ興奮冷めやらぬ、といった表情だ。

「だから、彼だよ!図書館の男だよ!君が良く話してくれた、タナエルさんだ!彼に頼んだんだ。君のために、知識を貸してくれって。彼、最初は断ったけど、後でブランケット騎兵隊長に手紙を送ったんだ。どうすれば勝てるか、敵の情報をすべて、事細かに。彼のおかげで戦争に勝ったんだ!彼は英雄だ!」

「図書館の男、万歳!」周りで囃し立てていた一人が叫んだ。それは他の者にも伝染し、大きな輪となった。

「図書館の男、万歳!図書館の男、万歳!図書館の男、万歳!」

乾いた音が響く。合唱が止んだ。

私は初めて、恋人に手を挙げた。

「……エレナ?」頬を叩かれたジョーが、信じられないという顔をしている。

「馬鹿!」私は走り出した。人込みをかき分ける。向かうのは、ひときわ大きな建物。町の中、堂々と立つ、四角い図書館。後ろからジョーが追ってくる。私の名前を呼んでいる。私は振り向かない、立ち止まらない。ただ、図書館を目指して走る。知らず、私は泣きながら、必死に呟いていた。

「お願い……お願い……!」



「タナエルさんは、図書館から出たくないんですか。」私の問いに、タナエルさんは苦笑いを浮かべた。

「別に外が嫌いなわけじゃないよ。外に用事はないけれども、私は散歩が結構好きだし、木陰に寝そべって読書するのは私の楽しみの一つだった。……でもね。私は、出ないのでなく、出られないのさ。」

「え……?」言っている意味が良く解らなった。彼はまた苦笑いを浮かべた。でも、それは何かを決心したようであり。

 どこか悲しげだった。

「せっかくだし、君には話しておこうかな。私が神々と契約したのは知っているよね?それで不老不死になったのも。……代わりに仕事を任されたのだけど、それとは別に、三つの約束をしたんだ。」

「三つの約束?」おうむ返しに尋ねた。

「そう。一つ。記録を与えてはならない。一つ。知識を与えてはならない。一つ。図書館を出てはならない。これは、神々と、人間と、私を守るための約束なんだ。どれか一つを破っても、いいことは起きないからね。」

「記録と知識はわかるんですけど、どうして外に出ちゃいけないんですか。」

「できるだけ干渉を少なくするためじゃないかな。後、私の不老不死はここ限定なんだ。要は結界みたいなものだね。」

「……それで、破ったらどうなるんです?」

「うーん、そうだね。」彼は少し思案したふりをして、言った。実際、それは思案だったのだろう。でも、それはどうなるかを考えたのでなくて。

「消えて、無くなるだろうね。」私に話すべきか悩んでいたのだ。



 突然エレナは俺をひっぱたいて走り出した。訳がわからないまま、彼女のあとを追う。

「おい、待てよ!どこ行くんだ!」人込みをかき分けながら名前を呼ぶ。振り返りもしない。

 人込みを抜けた先に、エレナは突っ立っていた。

「おい、どうしたんだよ急に。なにかあったのか?」やっとエレナに追いつき、彼女の手を取る。だが、彼女は見向きもしない。

「なあ、一体何だって……。」彼女のほほを涙がぽろぽろ流れる。足は糸が切れたように崩れ、地面にぺたりと座り込んだ。

 涙がとめどなく流れる。まるで洪水だ。仕舞には泣き始めた。子供のように、大声をあげて、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。

「ああああああああああああああああああああああああ!」

 俺はどうしていいかわからず、うろたえるばかりだった。

「おいおい、どうしたんだよ。なんでそんなに泣いてんだよ。」

「わ、わだじの、ぜい、だ、!、わだじの、ぜいで!」

「何言ってるのかわからな……い?」そこで、俺はやっと気付いた。この場所。エレナが向いている先。

 世界最大の図書館。不老不死の住まう場所。国を救った英雄の住まう場所。

 エレナから離れて、歩き出した。ゆっくり、ゆっくりと、図書館へ。

 扉は小さくあいていた。今日は休館のはずなのに。まるで、先ほどまでだれかが覗いていたかのように。

 中には誰もいない。だが、扉の足元に、見覚えのあるものを見つけた。

 屈みこみ、拾い上げる。

 それは服だった。今はだれも着ない、古い時代の服。

あの男が来ていた服。

図書館を覗き込む。誰もいない。静まり返っている。

「おい、いるなら返事をしてくれ。」返事はない。こだまが返ってくるだけ。図書館の主の姿はどこにもない。

 図書館の中に一歩踏み出す。

 服から何かが落ちた。それを拾い上げる。

「なんだ、これ?」ペンダントだ。一時期流行った、時代遅れのペンダント。

 星の形の、ペンダント。



 昔、昔の話をしよう。遠い昔。遠すぎて、知る者はおらず、語り継ぐものはおらず、書き記されたものさえない遠い昔。この世界かどうかすら分からない、ずっとずっと昔の話。

 一人の男の、終わりの話。


 どうも、じょんです。すっごい疲れてます。これは、実は別のところに投稿する予定で、締め切りが今日だったので凄く頑張ったのですが、規定の枠に収まらず、投稿できませんでした。なんだか頑張りが水泡に帰したままにするのも癪なので、あげることにしました。

かなり長い癖に、見直しもしていません。かなり読みにくいところもあると思いますが、お暇な時にでも、どうぞ。

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