樹海の底 ④
義樹の手記③
継母は優しい人だった。私に手をあがることも、怒ることもなかった。いつも冷静で私に多くのことを諭してくれた。周囲の人間は私に母親が二人いることを知っていただろうが、私が高校卒業するまで真実が耳に入ることはなかった。偶然だろうが、それが幸運でもあった。幼い頃にその事実を知れば、継母を異質な存在として見ていただろう。母親を母親と見れなくなり、私の神経は平静を保つことなどできなかったにちがいない。素直に手を握ることも拒否していたかもしれない。継母は年長者であった父との子を持つことはなかった。なぜかは知らないが、血の繋がっていない私を自分の子供として育てるのには相当な覚悟があったであろう。その年月は素晴らしいものだ。他人が産んだ子に愛情を注ぐことがどれだけ大変なことか私には想像もできないが、女性は偉大な存在であると思う。その時代を私は生きていた。そんな周囲の人間に囲まれていた。女性は気品があり礼儀正しく、医者であった父親は偉大であった。私は恵まれていた。
高校を卒業と同時に実母の存在を父から告げられたが、そのとき言われた言葉を覚えている。
「その事実を受けとめ、これから生きていかなくてはならない。おまえが四歳のときに病死した母親を追い求めてはいけない。事実は変えられない。変えられないから先に向かって進まねばならない」と言った。
父は情に振り回されない人間だった。それは医者という職業に就き、そういう精神を培ってきたからだろう。私はまだそんな父の精神に辿り着くこともできず、二人の母親に混乱する部分もあった。その事実を聞いて、食欲を失い、勉学にも熱心になれずに心も晴れず、一時的に体が痩せた。そんな私を見てか、父は厳しい態度をとった。
「東京の小石川に親戚がいるから、そこで下宿をしなさい。そこから大学に通いなさい。心も体も鍛えられる。鍛えれば立派な人間になれる。立派な人間になれば人から尊敬される。私のように人から尊敬される人間になれる」
私は家を出ることに抵抗があり、継母に抵抗をしてみたが、長い説得をされて家をようやく出た。私はまだ幼かったのだ。しかし、父の指示は絶対的なものがあり、それに従うより選択はなかった。心細い私は多くの荷物を背負って東京の親戚の家に向かったのを覚えている。そこから茨城の大学に通った。親戚の家とはいえ、他人の中に一人でいるようで、事務的な規則正しい生活をした。周囲の人間は私に敬語を使い、私も敬語を使った。遠い距離感しか生まれなかったが、私はそれに従って生活をした。私がそこで頑張れたのは父親の言葉があったからだ。尊敬していた父を心から信じていた。ただ、そこで私の心が鍛えられたかというと怪しかった。見知らぬ人間に囲まれる生活は心を擦り減らす材料になっていた。甘えなど許されない生活の中で、自分自身を塀で囲ってしまった気になった。繕った会話や笑顔、礼儀正しい返事は私の一部となり、本来の自分を見失っていた。だが、そういう態度の私を人は多いに評価し、受け入れてくれたのだ。心の中に住む自分と、周囲の人間に見せる自分は一致しなかった。よくありがちなことだ。私は本来の自分を押し殺すよう努めた。弱さなど微塵も見せないよう努めたのだ。そのうち三年もするうちに、私は自分自身の内面と外面を使いこなせるようになった。器用な人間になったのだと思った。そして、それが大人なのだと思うようになったのだ。
継母からは手紙がよく送られてきた。
『元気でいらっしゃいますか。あなたのことを心配しながらも、大学で勉学に励む姿を想像しております。さぞかし立派に成長されたことでしょう。その姿が目を瞑ると浮かんでくるようです。幼かったあなたが逞しい人間に育ってくれたことを心から誇らしく思います。あなたは私の誇りです。これからの人生険しいことがあるでしょうが、多くのことを乗り越えられるはずです。私はそう確信しております。この頃、幼すぎるあなたの小さな手を握っていたときのことを思い出します。あなたはとても優しく私を信じ、私の子供であったのです。私のために成長してくださいました。感謝しております』
そのような内容だった。私は継母を尊敬していた。血の繋がっていない私を愛してくれていたことを実感した。生き抜く努力をしなくてはいけないと思った。それは今に至っても変わりはない。幼い頃から青年期と生きてきた教えは活きている。信念はもっているつもりだ。
現在、私は自分の道から大きく外れそうになっている。原因はあの娘だ。私が生きてきた細くも太い道から逸れていっているのだ。私は私の父親と継母から得たものを伝えていないからだろうか。あの娘があんなことになっている現実を、私はとても受けとめられない。腹に力が入っていない。強く生きる姿勢がまったくないのだ。私が二十一歳のときは家を出ていたのだ。親戚とはいえ、他人のような関係の中を耐えて生きていたのだ。大学の勉学も思い切り励んだ。こんなぬるい家の中で、何が一体不満だというのだ。こんな素晴らしい環境の中で、勉強をするわけでもなく、家事すら満足にできない。季節も料理の風情もない。無能なのだろうか。私の娘はどこかに障害のある人間としてこの世に生を受けたというでもいうのだろうか。神に手を合わせても、それは報われないものなのだろうか。私の父のように、厳しく接して姿勢を正せばどうにかなるものなのか。私にはさっぱり理解ができない。
動物の世界はとても厳しい。親元を離れるように無理にでも自立をさせる。人間のような助け合いはしない。愛情というのは幼いときだけであり、いずれ自然界で生きていくための術を自分で習得するために突き放す。そして、自分の力で生きていくものだ。それでダメになれば死は容赦なくやってくる。私は間違っているのだろうか。動物も人間も一緒ではないか。生物には変わりない。人間のような複雑な思考を持ち合わせていない動物も、生きることにたいしてはすべて一緒なのだ。生ぬるい世界で生き抜く術をあの娘は何ひとつ持ち合わせていない。だからダメなのだ。私はあの娘には失望している。大学も中途半端に辞め、家にいる。おまけに、情けないことに自ら命を落とそうとする。医学の進歩で助かっただけだ。優しい人間界では救ってくれるのだ。あんな娘を……。
『ときに命を落とす患者がいる。私がいくら処置をしてもダメになることがある。患者のことをどう思おうと、現実は無残にも命を奪っていくものだ。しかし、医者という人間はあらゆるときでも冷静でなければならない。死は必ず訪れるもので、私も人間であるかぎり万能ではないという現実を受け入れねばならない。生かそうとしても生きれない弱者もいる。患者の中にはそういう人間もいる。私は突き落とすときもある。そのほうが患者のためだと思うときがあるからだ。生命はそれだけのものだ』
父の死後、机から発見したノートにはそう書かれていた。本当にその通りだ。
私は残酷な人間だろうか。あの娘がたとえ死んでもそれまでの命だと思っている。生きる力がないのなら、救う意味さえない。生きるための手段もなく、考えて行動する力もなく、ただぬるま湯に浸かった生き方ならたとえ死がやってきても、仕方のないものと受けとめている。
私はあの娘よりも、この国、国民のために人生を捧げている天皇をような象徴を愛してやまない。この日本国が愛おしいからだ。私が生きている国は非常に美しく、神のごとく神秘的である。あの紙屑のような娘とは違う、この国は正しくこの世界に存在しているのだ。
照りつける太陽は由依の肌を射す。夏の陽射しはまだ強く、被った帽子を突け抜けるくらいだ。伊達メガネをかけ、西クリニックに向かう。湿気のある空気は肌に熱く纏わりつく。高い空を飛んでいく鳥たちもこんな気持ちだろうか。暑くても脱ぐことのできない蒸すような羽毛で身を隠し、目標に向かって進むのだ。由依の気分はとても悪かった。ショルダーバッグにはれいの封筒が入っている。過去の出来事をカウンセラーに見せるのは抵抗もあり、一歩一歩進む足どりは重い。けれども、クリニックに行かぬ選択もできなかった。母はとくに他人と話すことに期待を寄せていて、由依に変装しながら通うことを望んでいるのを知っていたからだ。父親の義樹は何の干渉せず、由依と顔を合わせてそのことについて語ろうなどとは一切しなかった。
西クリニックのある雑居ビルに入ると、由依は帽子と伊達メガネを外して一息ついた。エレベーターに乗り、クリニック入口のガラスのドアから覗くが、相変わらず誰もいなかった。中に入り、受付を済ませて待合室の椅子に座る。バッグから封筒を取り、膝の上に置いた。
「川西さん、カウンセリング室にお入りください」
そう言われ、通路を歩いて奥のカウンセリング室の前に行く。以前と比べると、手に汗を握るくらいで極度の緊張感には襲われなかった。ドアを開ける瞬間だけ、胸が高鳴った。中には前と変わらない少し太った白いシャツ姿の橋本学の姿がある。由依を見ては、橋本はこんにちはと言って笑んだ。悪びれないその声と、快く挨拶をしてくれる人が新鮮に由依の目には映る。
「そちらに座ってくださいな」
由依はこんにちはと小さな声で言い、橋本と向かい合いの椅子に座った。
「まだ暑いですね、残暑が一番きついです。私は汗っかきなのでね。夏は本当に辛いですよ。エアコンが効いててもダメですね」
橋本はそう言って笑った。
由依は手にしていた封筒をテーブルの上に置いた。橋本は思い出したようにあぁと声をあげ、封筒を手にした。
「書いてくださったんですね。これは参考にさせていただきますよ。紙に書くっていうのは大変な作業だなと思ったんですけどね。話すより大変というか。そういうことを勧めると、すぐにやめてしまう人もいますから。それはカウンセリングじゃないって」
由依にとっては話すよりも書くことのほうが楽だった。説明するのは苦痛でもあり、言葉で伝えるのは感情的になりそうな気がしていたからだ。笑うよりも涙を零すだろう。零せば具体的な説明などできるはずがないと思っていた。由依が渡した封筒を手に取り、橋本は中から便箋を取り出してじっと見つめていた。自分が書いた文章を人に読まれるほど恥ずかしいことはない。相手は何を思うのか。由依は自分が書いた中身を正確には覚えていなかった。そのとき湧き上がった感情に任せて書いた記憶だけがあった。過去の出来事と、浮かんでは炎のように燃え上がる憎しみが交錯していた。書いた五枚もの便箋を橋本が捲っていくのちらりと見ては、由依は伏し目がちで浅い呼吸をした。
橋本は一通り読み終わると、しばらく黙っていた。由依はその沈黙が嫌であり、また何を言われるか怖くなって体を固くした。そして、橋本はテーブルに封筒と便箋を丁寧に置き、少し身を乗り出した。
「これって男の先生でしょ?」
由依ははっとして橋本の顔をした。急にそんなことを聞かれ、面食らった。
「……いえ、女の先生です」
「あぁ、そうなんですか、女の先生とは思わなかったですね」
橋本はまた便箋を取り、眺めた。
由依はそんなことは誰もがわかりきっていると思い込んでいた。男だとか女だとかそんなことも他人に知ってもらうのは大変なことだと思った。私のことを誰も知らない。相手に知ってもらう、理解をしてもらうことは難しい。たとえ男女の違いも、自分自身が正確に発せなければ誤解しかないのだ。
「川西さん、はっきり言いますよ。これって虐待なんですよ」
橋本は静かに断言した。由依はそれを聞き、橋本の顔を驚いて見た。そんなことはないと言いたかった。今まで人にそんなことを言われたことはなく、まして教室にいた生徒誰もがその事実を見ていても、何も私に言葉をかけることはなかったからだ。それに、虐待という行為はもっと暴力的で肉体的に傷つくものだと思っていた。
「……そんな、虐待なんて受けたと思ったことなかったです」
由依は少しだけ声を震わせた。そんな世間で話題になるような事実を自分自身が受けてしまったことがショックだった。
「いや、虐待です。あなたは何もわからずにここまで生きてきたわけですね。それは、とても大変でしたね」
橋本は由依に優しく語りかけた。
「虐待なんて、人に言われて初めて気づくものですよ。自分から虐待を受けたという人もいますが、多くの人が案外気づかずにいる場合が多いです。それに、当時は虐待という言葉自体、ほとんど存在しなかったでしょう?」
由依はそう言われてそうだと思った。子供のとき、母は食べられない由依が悪いと言った。父は神社で祈ってもらおうとよく言っていた。そんなことに情熱的で率先的で、父はとくに子供に問題があると決めつけている傾向があった。そんな家の中の曖昧に漂う空気を由依自身は感じとって育った。
「でも、食べられない私がいけなかったんです。食べられれば問題はなかったはずです」
由依が少し興奮気味に言うと、橋本は冷静に言い放った。
「食べられなければ何でもやっていいんですか? 力で解決させようとしていいのかってことですよ。胸ぐら掴んでいいかってことです。食べる理由はそこにはないわけで、実際のところ、先生が満足したいからあらゆる手を使ってあなたを食べさせようとしたり、食べられないあなたに苦しめる行為をしたわけでしょう。それを虐待だと言ってるんですよ」
由依はなんだか責められてる気がして、小さく頷いては納得できずにいた。
「……じゃぁ、私はどうしたらいいんですか?」
それを聞いて、橋本は腕組みをしてうーんと唸った。
「この過去を整理して、今ある現実に繋げながら、その後に切り離して生きていかないとどうすることもできないですよ。それから、こういうことがあったとき、川西さんは子供だったわけでしょ。お父さんやお母さんは何も守ってくれなかったの? 何も知らなかったわけじゃないでしょう?」
「父や母には話していません。……単純に話したくなかったんです、恥ずかしくて。一日一日過ごすのが必死で、家で学校の出来事なんて思い出したくないし、話せなかったんです。それに、私の両親はそれほど理解を示してくれる優しい人ではありませんから」
橋本は深く頷いては黙り込んだ。孤独な感情を抱いて育って大人になった人間の心を変えるのを難しく思えてならなかった。同情しても、無償の愛情で子供のようにすべてを許すことなどできない現実を知っていたからだ。由依は過去からの気持ちが沸々と湧いてくるのを感じていた。橋本の言葉で火がついたように、子供の頃の自分を哀れに思えてならなかった。
「……まぁ、これからゆっくり考えていきましょう。今日初めて知ったことは自分自身で静かに受けとめて、深く考えずによく眠ってください。考えると人のせいにしたくなるから。それに捉われてはいけないわけですから。人を憎むことは自分を傷つけることにもなるんですからね」
由依は呆然としながら、訳も分からず頷いた。橋本が言うことが正しいとも思えなかった。自分は人を憎んでいるという今を、眠って紛らわせるなんてできそうになかった。憎しみは先生でもあり、守ることをしなかった父や母にも気持ちが向き、混乱している。いや、本当は自分自身を憎んでいるのだ。食べることをスムーズにできなかった事実は、母の言う通り食べられない私に問題があったわけだ。由依はやはり自分がいけなかったのだという気になった。そう思えば思うほど心が平穏になった。
「じゃぁ、今度、一緒に考えましょう」
橋本が静かにそう言うと、由依は礼を言って席を立ち、カウンセリング室を後にした。
和子は以前、由依から自分が管理すると言って受けとったデパスという薬を小さな巾着袋に仕舞い、箪笥の一番下の引き出しに隠していた。由依に薬のありかがわかるはずもなく、和子は娘に触れさせないためにわからない場所に仕舞い込んだ。由依がこんな錠剤を口に入れる姿を見たくなかった。不安や緊張は気の持ちようでどうにでもなることであり、過剰に反応しすぎる娘を薬漬けにさせるわけにはいかなかった。一錠飲めばもう一錠……、際限なく求めるに違いない。自分が産んだまっさらだった子が薬によって汚されて廃人になっていく。そう想像すると身震いしたくなる。心を正すために精神科医の元に行かせたのが悪かったのだろうかと思うと、少しばかり心が痛んだ。
和子は十錠入っているデパスと書かれているシートを手に取り、こんな薬と思いながら、大きな溜息をついた。由依が高校までなんとか卒業させ、やっと大学に入り、順調に生活をしてくれていると思ったら、二年ほどで辞めたのだ。説得をしても娘は私の意見を聞き入れようとはしない。大学を辞めたことで、今後の将来への不安が募った。就職や女としての結婚や、多くのことが難題と化した。大学を辞めれば、大卒の異性と付き合うことも結婚もできない。就職も安定した企業に入り込むことも不可能になった。薬などに手を染めれば子供を産むのも難しい。将来のすべてのことが不可能になる。今の時点で仕事に就いていない無職の娘に、この世間の誰が拾ってくれるのだろう。自分が教員になるためにがむしゃらに突き進んできたのとはまったく違う。努力と頑張りが見えなければ誰も認めてくれないこの世の中を和子はよく知っていた。薬のシートを見れば見るほど悲しくなった。これを飲めば由依は壊れていく。人生が終わりになると思い込んだ。何より、健康な体を薬で汚すのは許し難い。心などどうとでもなるのだから、どうにかなるように自分でコントロールすればよい。和子は薬を手にしたまま思いつめた。立て直しのきかない人生になろうとしている由依を自分が殺してしまうのではないかと、急に恐怖を覚えて体が微かに震え始めた。そして、自分の育て方が悪かったからああなってしまったのかと思った。
和子は衝動的に、薬を一錠出し、後先考えずに口に放り込んだ。残りの薬を慌てて巾着袋に仕舞い、箪笥の引き出しの奥に押し込んだ。一錠くらいと思い、そのまま洋間に行ってソファに座り込んだ。自分でなんてことをしてしまったのだと思いながら、新聞を開いて気を紛らわせた。事件や事故、殺人のニュースばかりが気になる。文字を目で追いながら、悲惨な出来事が身近に起こるような気になった。
そんなとき、二階から由依がおりてきて、洋間にやってきた。和子はそれに気づかず、新聞を捲りながらぼんやりとしていた。
「ねぇ、お母さん……」
力ない声で由依は和子に語りかける。
「……えぇ、何?」
「今日はパートだっけ? 夕食は何を作ればいいの? 何作っていいか思いつかないし、冷蔵庫に何があるの?」
和子ははっとして由依の顔を見た。
「今日は仕事休みだから。そう、カレー粉あるから、カレーなら作れるわよね。野菜だってあるし、何か切ってカレー粉入れればカレーになるから。適当に作ってくれればいいわよ」
「……だって」
由依は不貞腐れた。シチューとカレーは似たようなもので、父に文句を言われるのは苦痛だった。その日の天気や季節を感じとって食事を用意するのは頭の使う、面白みのない作業でうんざりしていたのだ。
「お母さんが作れば、お父さんは文句言わないんだ。だから、カレーなんて言わないよ。どうせ私が作ったものなんて受け入れてくれないんだから。もっと時間をかけて手の込んだものでないと納得しないんでしょ。どうせ文句言われるのは私なんだから。だから、お母さんが作ればいいじゃない」
和子は体が急にだるくなり、力が抜けていくのを感じた。由依が声を荒げるのも頭に入ってこない。すぐにでも横になりたくなる。けれども、薬を飲んだことを由依に知らせることなんてできない。
「由依、お母さん昨晩よく眠れなくってね、ちょっと横になりたいの。二階にいって寝るから。カレーでいいからね、お父さん文句言ったりしないから。いいわね、作っておいて」
和子は目の前が揺らぐような感覚になりながら、ふらふらと立ち上がり、洋間を出て階段をゆっくりと上り始めた。
「お母さんは私のことを何も知らない!」
由依はそう叫んで座り込んでは泣きじゃくった。けれども、和子にはその内容は意味をなさず、頭に何も入ってこなかった。ただ眠りたかった。
由依は泣いた。家の外に聞こえるくらい大声で泣いた。カウンセラーとの会話が心の中に残っていた。虐待という言葉も大きく、ショックでしかなかった。自分が世間でありがちで重大なマイナスの地雷を踏まされていたことを呪った。なぜ私だったのか、それとも私がいけなかったのか混乱していた。泣けば気持ちが落ち着くのはわかっていた。母に向かい合ってほしかったが、和子には何も届かない。涙は意外にも早く枯れた。洋間には誰もいない。新聞のニュース欄が開いたままだった。
和子はベッドに横になり、すぐに眠った。まるで麻酔にかかったようにすんなりと日常の喧騒が頭から消えていった。夢をみることもなく、眠り続けた。由依の存在も忘れ、人生をリセットするように疲弊した精神が死に絶えた。そんな睡眠は今までになかった。和子がベッドに体を横たえたとき、薬でこんなに楽になれるのだと実感した。それが心地よく、生きることを逃避するような気分に浸りながら目を瞑った。
静寂な時が過ぎる。色とりどり花が真っ青な空のもとで咲いている風景と、希望に満たされる空間が和子の体を覆った。悲観することも悩みもない。その眠りは死に近かった。生きるために体に力を入れることや、あらゆる苦痛から逃れようとするために守る姿勢がくだらないと感じられる空気。和子の薬による眠りは幸福に包まれていた。
「……おい、何やってるんだ、……おい、何寝てるんだ」
そんな声が遠くから聞こえる。次第に大きく、耳元に接近している。和子は薄っすら目を開けた。自分の顔の近くには、義樹の顔が迫っていた。
「ぐうぐう寝て、何時間寝てるんだ。昼間っから寝てるんだって?もう夜だ。六時半だぞ。あの由依がカレーを作ったそうじゃないか。子供から抜け出せないからそんな子供の献立しかできないって怒ったら、おまえが言ったそうだな……まったく。そんなに寝たら、夜眠れないだろ」
和子は重い体をゆっくりと起こした。
「……あら、ごめんなさい。疲れが溜まっちゃって」
義樹は和子の言葉を最後まで聞かず、そそくさと寝室を出ていった。和子はすっかり熟睡しまったことと、あの薬のせいで心と体が楽になったことを実感していた。
台所に行くと、カレーが用意されている。ぼんやりとした椅子に座り、義樹しかいない洋間に向かっていった。
「ありがとう、由依、ご飯作ってくれて。おいしいわよ」
まだ一口も食べていなかったが、明るい声で言い放った。義樹は変わらず黙っていたが、和室でテレビを見ていた由依が台所にやってきた。
「調子、どうなの?」
「あぁ、よくなったわ。疲れがとれて。……ねぇ、由依、また西クリニックにいって、医者と話してきなさいな。カウンセリングもいいけど、医者によく話して解決方法を聞いてきたらいいわよ」
母がそういうのを意外に思ったが、由依は快く返事をした。和子は現実を忘れられる薬を魅力的に思った。薬さえあればもっと楽に生きられる。たったひとつの薬に魅了されていた。
由依はカウンセラーの橋本に言われた言葉を受け流すことはできずにいた。四六時中頭に残っていて、ショックが大きかった。橋本が言った虐待が事実として受けとめられない。そして、誰も助けてはくれなかった。教育する立場である先生が生徒を虐待する。とても信じがたかった。虐待とは一番身近な親が見えないところでこそこそするものだと思っていて、堂々と誰もが見ている場所でするものではないと由依は思った。けれども、橋本は虐待という言葉でまとめたのだ。由依はそれがどんな行為をさすのがイメージできずにいた。ただ、由依自身が傷つき、生きづらい世界の中で一人でぽつんと立っているのは確かだった。
十代後半から、両親と食事をとることを避けていた。週数回は、由依は食事をお盆の上に乗せて和室に持っていき、一人で食べる。そしてテレビをつけ、テレビを見ながら食べる。そのほうが気楽だった。父は母と話すことが優先であり、娘と話すことを嫌っている。その義樹の内面を由依の目にはまざまざと映っており、遠慮をするしかなかったのだ。何より、食事の時間が嫌いだった。家族が揃えば高圧的な義樹の雰囲気に押され、由依は言葉を発すること自体をやめて黙り込むしかない。話さなければ義樹は嬉しそうに和子と話し始める。その邪魔はできず、義樹の気分を損ねることは許されなかった。テレビの中の自分の身の回りからかけ離れた笑いが、食べる行為の救いでもあった。一人の食事は気楽でもあったが、孤独でもあった。それでもひとつ屋根の下の歪んだ規則は、他人がどうであろうと成り立つのだ。
由依は覚悟を決めていた。夕食、台所のテーブルの椅子に座ったのだ。体を固くしながら、ぼんやりとしていた。
「今日のメニューは、肉じゃが。由依、作ってくれてありがとう。パートの時間も安心して仕事できるわ、家に帰って慌てて食事を作らなくていいから」
和子はご機嫌だった。由依の薬を飲んだのはあれきりだけだったが、逃げ場があるのは日々の生活を楽に構えることができる。由依の人生を具体的に考えることも、今の由依の毎日の生活に気を焦らせることをやめられた。和子はこのままの生活がずっと続くわけではなく、いずれ変化していくことを信じていた。まだ由依は二十一歳。どこかで変わるだろうと期待していた。
午後六時半。義樹は風呂に入って神棚に手を合わせた後、台所にやってきた。
「肉じゃが、ホットな食事だね……」
義樹は気の抜けた声で言い、椅子に座る。隣に座っている由依にたいして不審な視線を一度向け、鼻をわざと啜ってよいしょと言って椅子を引いた。
「……いただきます。今日はいい日だった、それほど暑くなくって。春夏秋冬っていう季節がいい。暑い夏が過ぎれば秋がくる。何事も実りの多い秋なんだ。どんな人間も動きやすくなって、勉強を励むことも気が進む季節だからな」
義樹の独り言が、由依には呪文のようにすら聞こえる。箸を握って肉じゃがを突くが、それほど食欲がない。頭はぼんやりとしているが、体は緊張しているという矛盾を感じていた。すると、横にいた義樹が由依の箸を奪い取って、床に投げた。
「いただきますの挨拶もできないのか。自分が作ったから挨拶をしなくていいのか。そうじゃないだろ、食べ物に敬意を示しなさい」
由依の心は冷めきっていて何も言わず、床に転がった箸を手に取り、水で洗った。そして、だるそうに椅子に座った。小声でいただきますと言い、箸を手前に並べて置いた。
「これ、全部食べなさい。野菜も肉も、由依のためのものだ。食べるためにあるんだから、食べなさい」
義樹が声をあげると、和子はお父さんと口を挟む。
「いいじゃないの、そんな厳しく言わなくたって。由依だってわかってるもんね」
和子は由依の顔を見たが、相変わらず黄土色のような生白いような顔色をし、血色がない。唇も赤みがない。死んだ魚のような目をし、俯いている。また深刻に思いつめているのではないかと思うと、和子はハッと目覚めたように声を強めた。
「由依、しっかりしなさい。何か考えてるんじゃないでしょうね。食べ物をしっかり食べて、体に栄養を入れなさい。そうしたら、気持ちも明るくなるから。あなたは栄養不足なの。それ、わかってる? 自分より人のほうが見る目は正確よ。嘘なんてないんだから」
それを聞き、由依は突然前を鋭く見つめ、迷いなく強い口調で言った。
「私、虐待受けてたんだ、そうなの、虐待を受けて育ったんだ」
義樹はしばらく天井のほうを見つめ、鼻を啜るように笑いながら、そのうち声を出して軽く笑った。
「何を言い出すのかと思ったら……。虐待だって、まったく、いやぁ、驚いた……、由依がそんなこと言い出すとはなぁ。困った大人になったもんだ。それとも立派な大人になったって言ってほしいのかね……。虐待かぁ、いい言葉だな。そういうのを逆さ虐待って言うんだ。身の程知らずもいいとこだ……」
義樹は呆れたのか今度は高笑いをした。
和子は、由依が突然そんなことを言いだしたことや、義樹のひねくれた態度に茫然とし、由依の顔を見ては言葉が出ずにいた。何を根拠に虐待と言い出したのか理解できない。由依の真意を聞きたかったが、義樹の怒りの含んだ顔が目に入り、黙り込んだ。
「おまえを虐待した覚えはない。これだけは言っておく、そんな気が一切ないし、現実にそんなことはない。ありえない現実をそんな妄想で、あたかも私たちのせいであるかのように言うのはやめてほしい。何か文句でもあるのか、何不自由なく育ったくせに。文句があるなら、出ていってほしい。無職の小娘に貸してくれるアパートなんかないぞ、世の中は甘くないぞ、わかってるのか」
「お父さん、そんなこと言わなくてもいいじゃないの」
和子はおろおろし、咄嗟に宥めるように言う。
「飯がまずい、もう食えんよ、こんな飯」
義樹は立ち上がり、スリッパの音を大袈裟にたて、台所を出ていった。
由依は口足らずの自分を責めた。父や母ではなく、学校の先生であった事実を説明するに至らなかった。学校という広い空間で行われた理由を理解してもらうのは難しかった。どういうわけか自分でもわからず、虐待を受けたという言葉だけが先走ってしまった。両親には、自分が小学生のときに給食を食べられないことがきっかけで、先生から暴力的な行為を日常的に受けていたなどと言った過去がなかったからだ。遠くて近い過去。二十歳を超えた今、小学校時代の自分の話をするのが苦痛だった。父なら、過去のことを思い出して何になるのだと言うだろう。相手に自分の気持ちを説明するのは苦痛でしかなかった。過去が遠くなればなるほど重くなる。その理解を求めて何になろうか。父も母も今更何を思うだろう。どうであれ、説明できなかった自分が悪かった。
「何かの本の読みすぎなんじゃないの? 虐待だなんて大袈裟なこと言わないでよ、由依」
由依は静かに頷き、しばらくしてから小声で言った。
「……あとで、お父さんに謝っておいて。勘違いだって。私の勘違いだって」
「そう。わかったから。まぁ、いいから食べなさいよ」
由依は首を横に振り、立ち上がった。少し休むと由依は言い、和子はただ頷く。台所には和子一人が取り残された。
西クリニックに行った。和子からも強く勧められていたからだ。カウンリングを受けてから、少し不安定になっていた。虐待という言葉が頭から離れられない。自分の過去にそんな出来事があったと逆に安心する人もいるだろうが、由依にはそれができなかった。自分に向かうだけの苦しみが他人へ方向転換する。由依は、小学三年の担任の赤野美代子に気持ちが向かっていたことを少しずつ気づき始めていた。虐待という言葉で平穏な気持ちになるはずもなく、自分の身に起きた事実が拡大して見えてしまう。それは虐待であったからだ。子供の頃の些細なエピソードだったはずが、大人になり、自分に大きな影響を与えてくる事実だったと認めようとしていた。
西クリニックの待合室には、年寄りの女が一人だけいただけであった。核家族で育った由依は、年寄りを見ると自分と違う世界の人のように映った。長い年月をどう生きて、顔に深い皺が刻まれていったか想像しがたかった。自分がそうなるのはいつになるだろう。遠すぎる存在だった。
名前が呼ばれて診察室に入った。初めは異様な緊張に包まれていたが、人がいないことやこの古い雑居ビルに大きな期待を寄せなくなっていた。精神科医も父親と近い年齢で安心はできないが、由依自身が受け身になっていた。何よりここに足を運ぶことに疲れていた。
精神科医の西誠治の姿を久しぶりに見たせいが、相変わらず骨ばった細い体で下を向き、カルテを見入っている。
「ええっと、この前頓服あげたんだっけね」
「……はい」
西誠治は頭を起こし、由依の顔をじっと見た。
「その後、どうですか?」
由依は戸惑い、黙った。もらった頓服薬を一度も飲んでいなかったからだ。西誠治はまたカルテを見つけ、ボールペンを持って患者からの言葉を待った。由依は母に薬を渡してあることを言おうかどうか迷ったが、なかなか言葉にできない。薬を取り上げたのは母であり、それ以上に飲む機会もなかった。何の進展もなく、母に言われるままにクリニックに来たのだ。
「食事が緊張するから食べられない……」
西誠治は独り言のように呟く。由依は道路を走る車の音や、雑談に楽しそうな明るい若い女の声に耳を傾け、窓の方を見た。外は違う空気の中を生活している人が沢山いるというのに、自分は精神科医と向かい合っている。なんて不幸なことなのだと思った。
「家での食事は? 家では食べれるんでしょう?」
「……はい」
普段は一人で食べていることが多いと言うにはくだらなく思えた。家族団欒の食卓などなく、どんなに殺伐としていようと、そんなことを医者に話す自体無意味に思える。医者が家族の中に入り込んで理路整然と説得にかかるわけもない。父や母の一人ひとりの人格を変えることも不可能であり、自分自身が生きてきた過程を覆すなど出来ないという事実だ。そんなことを考えているうちに、精神科医と話すことの意味を見失いそうになる。
「練習しなきゃダメだよ。あなたみたいなタイプは、少しずつ頓服を飲みながら恐怖を克服していかないとね。はじめは苦しいかもしれないけど、人と一緒に食べるようにしなきゃいけないですね。そのための薬なんだから。緊張を緩めるための薬なんですよ。友達でも誘って、薬を飲んでレストランなりに入って慣れさせる。恐怖突入ともいうよね。薬飲めばなんとかなるもんで、気が狂ったりなんかしないわけだから。その練習をしなくちゃね」
西誠治はそう一気に言い終わると、大きな呼吸をして、由依の顔を見た。納得のいかない由依は俯き、先生に説教されているような気持ちになり、うなだれた。
「……この前、カウンセリングやったんですよね、どうでした?」
「とくに……でも、よく話はできたと思います」
曖昧に言い、由依は黙った。
「まぁ、それは秘密事項だからね。私に言わなくていいけどね。川西さんは友達いるの? そういう自分に付き合ってくれるような友達とかいたほうがいいだろうし。自分の悩みとかそういうことを話せるような人がいるかってことだけどね」
「……いないです」
由依は少し迷いながら答えた。田村咲は私のことをプー太郎と言う。友達のようで友達ではない。唯一の人ではあったが、電話をくれても自分に向けられる言葉はナイフのように思える。私を痛めつけて楽しそうでもある。そんな人を友達と言えるのだろうか。人が思い描く友達とはどんな人であろう。由依は過去を思った。今まで友達がいなかった。小学生のときも、中学生のとき、高校、辞めた大学もそうであった。偶然ではあるが、高校時代の知り合いのような田村咲と繋がっているだけだった。気が合うわけでも、一緒にいて居心地がよいわけでもない。一緒にいれば疲れるような、少しの時間でも早くに逃げてしまいたい気持ちにもなる、そんな存在でしかない。二十歳を過ぎて友達と呼べる幼友達すらいないことが、恥ずかしくも淋しくもあった。
「友達ねぇ、それはどうすることもできないなぁ、私には。友達は自分で作るものですしね。普通は、子供の頃からの友達が繋がっているくらいの年齢でもあるんですけどね。どこかで作るといっても、今仕事してないんでしょ。だったら、何も進展がないわけですし、思い切ってアルバイトに出るとか、それは自分次第だけどね……。まぁ、苦しいことに立ち向かっていく勇気とかないと、何も変わらない年月を過ごしてしまうもんですよ。そのところは自分でよく考えて、自分で行動するようにしてください」
簡単に言い放ってしまう医者に半ば失望しつつ、由依ははいと小さな返事をした。周囲の人間の言葉はすべてが正しい。けれども、その正義が自分自身を苦しめる。そんなことは子供の頃から理解していたことだ。道徳に書いてあるような人間にはなれないということだ。心もそんな具合にはいかない。
「私の経験としては、人生なんてうまくいかないってことです。傷ついたり、人と衝突したりして、そんなことの繰り返しで生きていくもんなんです。楽なことなんてありはしないんです。でも、誰もが楽になって幸せになりたいと思っているんです。苦痛から逃げたいから。そりゃぁ、人間の本能ですよ。……薬はその助けにしかならないわけで、私は薬を処方するくらいしかできないですけど。まだあなたは若いし、迷いも多いだろうから、私の言うことは受け入れられないでしょ。私が言いたいのは、少しだけ前に進んでほしいってことです。それは医者だからというより、個人的な気持ちもありますけどね」
西誠治は俯きっぱなしの患者を見て、優しく言った。どこまで相手に聞き入れてもらえるかわからないが、話すしかなかった。できることできないことの線引きをしたかった。それには、自分自身個人の気持ちの織り交ぜるしかないと思った。
由依は、その通りですと小さな声で言った。そう認めるたび、妙な罪悪感に駆られる。自分にできないことが多すぎる。けれども、人は多くを求めてくる。頭の中が飽和状態に陥りながら、うんうんと頷いた。
「薬を出しましょう。まだあるんだろうけど、また十回分ね。街にでも出てみるといいですよ、喫茶店でもね」
由依ははいと返事をして頭を下げ、診察は終わった。
待合室にはあの年寄りの女はいなくなっていた。清算を待っていただけなのか。由依はぼんやりと椅子に座り込んだ。医者の言ったことを聞き入れたわけではない。押し殺すのだ。そうするしかないし、それでいいとも思った。体が鉛のように重い。由依は、なぜそうなのか理由を探すことも諦めた。
家に帰ると、和子が玄関で待ち構えていた。
「どうだった? 先生何か言ったの?」
「……何も。いつもと変わりないから」
「薬は?」
由依はショルダーバッグから薬の入った袋を差し出した。
「これ、薬ね。預かっておくから」
和子は嬉しそうに薬の袋を受けとる。由依は抵抗をしなかった。薬を飲む機会もなさそうに思えていたからだ。和子のこの上ない笑顔をちらりと目にし、由依は一瞬不気味に思いながら、さっさと二階の自室へ向かった。
義樹は図書館に勤め、由依は自室に篭っている。洋間に和子は一人でいた。テレビを見ようか迷っていたが、新聞のテレビ欄も際立ったものがない。由依のことを気にすればきりがない。まだやり直せる年齢ではあるが、このまま進歩なく一日が過ぎていくことも嫌っていた。専門学校に行かせる選択もあると頭に過るが、実際由依が何に興味をもっているのかわからなかった。ただ考えても無駄と雑念を追い払おうとしていた。
和子は、何となく気になっていた赤野美代子から六月に届いた葉書を手にした。由依のこともあってずっと気になっていたが、意味のわからなかった句を何度も読み返した。
『この雨音 聞けば必ず 鮮明な 炎燃ゆる 鎮火せずに』
炎や鎮火という言葉を見て、ふと思い出した。赤野美代子の夫の赤野洋が自宅近くの墓地で焼身自殺を遂げていた過去があった。それはちょうど六月であった。由依の担任をする前の年でよく覚えている。赤野洋は自分と同じ大学の文学部だった。親しくはなく、顔見知り程度だった。葬儀に足を運んだが、赤野美代子は涙ひとつ見せなかった。さすがに強い人だと感心した。和子はそれでも哀れんで近づき、赤野美代子も何か言いたげに和子の元に歩み寄ってきた。
「あの人のお母さん、去年亡くなったの。ショックでこんなことになったのよ。あの人マザコンだったから」
と気丈にもそう言ったのを和子はよく覚えている。和子は家族を置いて自ら死を選ぶほどであったのか疑問に思ったが、そういうこともあるだろうと思って赤野美代子に声をかけた。
「何か力になれることがあったら言ってちょうだいね」
赤野美代子はそれにたいしてろくに反応せず、和子に背を向けて別の弔問客のほうに行ってしまった。その姿を見て、赤野美代子はこういった逆境も乗り越えて強く生きれる人だと思った。今になると、いずれ校長になった赤野美代子はさすがであり、自分とはまったく別次元の人間だと思った。自分なら動揺して泣き崩れ、娘とともに路頭に迷ってしまうだろう。しかし、赤野美代子は生活力や生きる基盤や器が違う。夫より別格だった。
「美代子さんは強いねぇ。取り乱さないところも」
ある弔問客が話しかけてきたことを和子は思い出していた。感心したかのような六十代くらいの女であったが、同情している雰囲気は少しもなかった。
「泣いたりしないんだ。父親とそっくり。もっと強い人だったから、美代子さんも強くなったのね」
「私は赤野さんのご両親はよく存じ上げませんが……」
和子はなんとなく言ったが、その人はそうなのと言って続けた。
「美代子さんのお父さんはとっても強い人でね。強いといっても、暴力的で精神的な強さというか、誰も寄せ付けないものがあってね。美代子さんはかなりきつくしつけられて育てられたんじゃないかしら。だから、こんな場でも泣いたりしないのよね。ちゃんと弔問客に挨拶にはいくし、しっかりしてるのはしてるけど、私じゃ耐えられないからすごいと思っちゃうのよね」
「……そうですね」
和子はぼんやりと赤野美代子の後ろ姿を見つめていた。赤野美代子があのときどんな気持ちでいたかははっきりはわからなかった。ただ、夫がマザコンだなど言い放ってしまうところがすごい人だと内心思っていた。
和子は葉書を見ながら、そんな過去を思い出していた。こんな句を書いてくることを思うと、相当引きずっているのだろうと思った。けれども、そんな出来事をもろともしないその後の生き方は、夫の不幸な死を感じさせないものがある。悲壮感に溢れてなどいないのだ。むしろそんな気分でいるのは和子のほうで、娘のことに手を焼いて気が沈みがちだ。時折、由依の薬を拝借し、心と体を解き放して睡眠をとる。そんなことで気分転換を図ろうとしている自分が愚かでもあるが、そうするしかない自分自身が嫌になる。学童保育所にパートに出かけて子供たちと接しても、気分が明るくなるわけでもない。むしろ、子供たちが元気すぎて、由依と比較してしまう。小学生時代からどこか陰鬱な雰囲気のする我が子に心配しかなく、活発な子を見るとなぜ自分の子はそうでないのだろうと疑問に思っていた。食が細く瘦せ型で、活き活きとして見えなかった。その度に覇気をかけてきたが、意味があるのかないのか由依は変わり映えない。そして、今はこんな調子だ。どこで道を間違ったのだろうと思ったが、思い当たる節もない。親の思うようにはならず、大学も途中で辞めていった。その後何をするわけでもなく、自ら死のうとしたり、精神科の世話にならなくてはならない現実だ。少しは楽になりたかった。心配が延々に続くより、明るい未来を見たかった。由依が大学を出て、有名企業に入社し、そこで働いて結婚相手を見つけて結婚をする。そんな勝手な物語を思い描いていた。それなら、自分自身の心は満たされる。夫もそうであろう。由依を尊敬できる。自分の腹から誕生し、二十年以上この世の中で一緒に生活し、立派に巣立っていく。そんな過程を思い描いて過ごしてきたのに、現実は違っていく。赤野美代子も、自分の夫が焼身自殺を遂げるとは微塵も思っていなかっただろう。学生時代から何もかもバリバリとやり遂げてしまう人でさえ、こんな事態が起こったりするのか。人生は理不尽だと思う。
義樹が帰ってきた。ぼんやりとしていた和子の目の前にチラシを置く。
「ポストに入ってたぞ。もう少しエアコンの温度さげて。こっちは動いてきたから暑いんだよ」
テーブルに置いた赤野美代子からの葉書を和子は手にし、義樹に差し出した。
「なんだ、これ。誰から?」
「大学のときの友達。由依が小学生のとき担任にしてくれた赤野さん。毎年変な句を送ってくるの」
義樹は葉書を手に取り、どれどれといった調子でじっと見る。
「『この雨音 聞けば必ず 鮮明な 炎燃ゆる 鎮火せずに』……、へたくそな句だな」
「赤野さんの旦那さんは早くに亡くなってるのよ。その時の句じゃないかしら」
和子がそう言うと、義樹はふうんと言って葉書をテーブルの上に置く。
「あぁ、そんな人いたね、旦那さんが自殺したって人か。それはお気の毒にだな。でも、相当前の話だろう。いつまで引きずっていても前に進めないからな。女は過去を引きずる傾向があるからだろう、そんな句を書いて。由依も何事に置いても割り切りが悪い、女と男じゃ違うからなぁ」
義樹はバッグを手にして奥の和室に歩いていく。
和子はまぁいいわと言って、葉書を手にして、本棚の引き出しに仕舞った。もう取り出して眺めることはないだろう。赤野美代子の気持ちに引きずられたくない。自分自身もいっぱいなのだ。今のこの現実に、過去以上の潰れそうな悩み事で満たされている。どうあがいても片付きそうにない。
「今日は早くに帰れたから、ゆっくりしたいね。お茶でも用意しといて」
「あ、はい」
和子は台所に行き、ポットに水を入れてスイッチをいれた。
由依はカウンセリングを受けに行った。カウンセラーの橋本学は青と白のチェックの長袖シャツを着て、ラフなスタイルだった。由依は相変わらず緊張していて、面と向かうと受け身になって話し出すことができずにいる。橋本は以前由依が渡した紙と手元の書類を見て、少しの間黙り込んでいる。由依の気は逸れて、今夜の夕食を何にしようか考え、ずっと続けねばならないこの生活に嫌気がさせいていた。食事や風呂掃除など家の雑事をいくらこなしても、父や母が満足しているわけではなく、自分自身もこれでいいとは思っていない。けれども、次に起こす行動も思い浮かずにいた。
「……そう、虐待を受けたんですよね」
橋本は急に思い出したように言った。由依は虐待という言葉を聞き、ぎくりとした。いつ聞いても受け入れられない。自分には大きすぎる負の出来事を、単純に過去のエピソードとは捉えられない。人にたやすく言えない。父が怒ったように、抽象的な言葉に具体的な事実が詰まっていない。そもそも相手に伝えるには難しいことであった。
「で、小学校四年生から、学校の給食はどうしてたの? 食べられるようになったんですか?」
橋本は興味ありげに由依の顔を見た。由依は過去の自分を思い出しながら、うーんと唸った。
「何も食べずにここまで来たわけではないんでしょう?」
そう言われ、由依は少しはにかんだ。
「……小学四年からは、気持ちが少し変わったんです。楽になったというか。担任の先生も変わって、強制されることもなくなって。夜が昼になったみたいな……、給食にたいしてこだわる人もいなくなってきて、私自身も気が逸れていったようなところがあります。だから、はじめは抵抗があったけど、食べられるようになったんです。不安や緊張が給食に集中しなくなったって感じです。先生も気にしない人でしたし。私は元々食が細かったし、痩せていたので、母はもっと食べなさいってうるさかったですけど、学校では食べても食べれなくてもそんなに重要でなくって。誰も責めませんでした。中学になると、誰もが給食自体にどうでもよくなっていったので、残したりしながらそこそこ食べられるようにはなっていました」
そこまで一気に話し終えると、橋本はただ頷いていた。それでよかったのに、なぜという気持ちも芽生えた。その後、言葉を詰まらせている相手の姿を見て、何かあったのだろうと思った。
「やっぱり十代後半、思春期あたりに何かあったんでしょうね」
橋本がそう言うと、由依は首を傾げた。
「……小学三年生に先生から受けたことが忘れられなくて、私にとって過去のものとなっていったんですけど、過去になればなるほどどんどん忘れられなくなっていきました。高校のとき友達と映画を見に行ってそのとき食事をしたんですけど、急に食べられない気分とあの給食の時間に味わった不安と緊張で喉が詰まるような気分に襲われたんです。友達に怒られるんじゃないかと思いました。手が震えて気持ち悪くなって、結局二口くらいしてやめてしまいました。友達は怒ったりしないで心配してくれたんですけど、でも、視線が冷めていたというか。私の勘違いかもしれないけど、なぜ食べられないのかと責められてるような気になったんです。そう思うと、急に怖くなって……。怖いというのも極限なんです、私にとって。誰もが楽しいはずの食事なのに、私にとっては怖いんです。逃げたいっていうか。そのうち、そういう外食は避けるようになりました。とくに友達とか。……高校のときはお弁当だったんですけど、なんとなく憂鬱であまり食べられなかったりしました。誰も何も言わないのに。大学に入学したときは、両親はとても喜んでくれたんですけど、私はとても不安でした。新しい友達と、やっぱり食事が。結局友達もできなかったです。というか、私自身が避けていたんだと思います。食事はいつも一人でした。周りの人は楽しそうにやっているのに、なぜ私はってコンプレックスを抱くような気分になって、カウンセリング室によく出入りをしていました。でも、誰も私のことを理解してくれる人はいませんでした。大学に行く意味もわからなくなって、結局辞めたんです」
由依の唇は乾ききっていた。これまでの経緯を相手に理解してもらうよう説明するのは難しかった。いくら話しても足りないようでもあり、たとえどこまで話しても伝えきれない諦めに似た感情もあった。これが自分の今までの人生であり、その気持ちを話し続けて誰がわかってくれようか。目の前のカウンセラーに思いをぶつけてもどうなるのだろうと思った。
「……それは辛かったですね。今までの人生は食にずっと悩んできて、人間関係を築くのも難しくなっていったといったところですね。ご両親にはそんな話をしてきたのですか?」
「……いえ。やっぱり人生のレールっていうか、そういうのを求めてきたし。たとえば学校に行くのが当たり前だし、行ってもらわなきゃ困るし、大学だって……。食べなければ食べなさいって言うし、勉強もできれば褒められるけど、そうでなければ嬉しくないんです。大学も受かっていなかったら、不満に思うと思います。それだけです。私の両親はそんなタイプの人です。だから、大学を辞めた時点で私を許さないっていう雰囲気がありました。私は辞めることに納得していても、辞めさせたくないっていうか。当然かもしれません。求められる期待に応じるのは、とても辛くてどう生きていったらいいのかわかりません。ただ苦しいって思うくらいしかないんです」
由依は俯き加減でぼそぼそ呟くように話した。後ろめたい気持ちしかない。こんなことを話していると、目の前のカウンセラーに怒られる気がした。なぜそう思うのか疑問にすら感じながら、また、なぜそんな習慣がついてしまったのか思いながらつい身構える。
「よくわかりました。過去の虐待も川西さんの人生を大きく左右させてしまったでしょうし、生きづらさを作り上げてしまったのかもしれませんね。でも、ここまで生きてきたことが大きなことで、犯人探しはやめることです」
それを聞き、由依は矛盾していると思った。虐待という現実があり、犯人探しをやめるのも難しく思った。時折アルバムを開き、赤野美代子の顔を画鋲で刺すということも、恨みがあるからだ。虐待と犯人を点と点で結び付けてしまっている。それを辞められるだけの過去を打ち消すだけのエネルギーはなかった。由依は視線だけ橋本に向けて言った。
「私は先生のことが嫌いなんです。私の人生を終わりにさせてしまったような先生のことが許せないんです」
由依の本心だった。人に自分の気持ちを知らせたのはこれが初めてだった。
「そりゃ、わかります。でもね、人を憎む将来ではなく、川西さん自身がこれから幸福で生きていくことが復讐でもあるんですよ。いかに幸せになれるか、そこが一番重要だと思いますよ」
由依は内容が飲み込めず、でも……と言って口をつぐんだ。
橋本は目の前の幼さのある若い娘が、モンスターのように思えてならなかった。自分の人生を終わりにさせたと言い放ったことに恐怖すら感じたのだ。怨念のようでもあり、二十一年生きてきたその年月、自分と関わってきた人間によって心情と風景を変えられていってしまう。若く、まだ客観的にみることができない。このモンスターをどう操っていいのか内心困っていた。今までのカウンセリングで過去のトラウマを扱ってきたことが多いが、やはり難しかった。何ひとつ解決はできずに終わっていったケースが多い。掘り起こせば怨念のように相手がなり、将来のことを考えるには過去に心が支配されすぎている。いくら説得しても心を動かせない人が多く、いずれ自分の元から去っていく。橋本自身、自分の仕事に未完結であったのだ。
「過去にスリップして戻ってやり直すことができないんです。子供のときは何でも可能なように思ってしまうでしょ。でも、大人になって思うのは、過去は過去のままで何も変わらない、変えられないんです、川西さんにはそれを受け入れてほしいんです」
由依は静かに頷いた。できないと思ったが、カウンセラーの言うことも最もだと思った。
橋本学の目の前にいる、まだ可愛らしく映るモンスターは大人しくも、荒々しい内面を持っている。橋本には言葉が出てこない。忘れるなんてできないだろう。それでも敢えて忘れるよう努めてほしいなどと言ってしまいそうになる。言葉を抑えながら、モンスターにたいして優しく声をかける。
「川西さんは、悪くないんですよ」
由依はほろりとして、右目から一滴の涙を流した。自分でも何の涙かわからない。自分が悪いと思ってきた人生そのものを、ほんの一言で肯定された気がし、そう言ってくれる人が存在したことに心が揺れた。