第八章
アイカと思い出を語れば語るほど、僕の中の迷いは大きくなっていった。アイカは、こんなことを話すために僕に会いに来たわけじゃないはずだ。
僕らの間には、いくら楽しく会話をしていたとしても、決して消えることのない壁があった。僕とアイカの間で怪しく蠢く、十年の空白。
僕らは申し合わせたように、決してその話をしようとはしなかった。十年の間に何があったのか。聞きたくても、何故かひどく怖くて聞くことが出来ない。それはアイカも同じのようだった。アイカも同じように、その話題に触れることを頑なに避けている。
いつ核心に触れるべきか。僕はそのタイミングを計っていた。そろそろ、腹をくくるべきだろう。お酒が進み、アイカも饒舌になっている。思い出を語るのが、さも楽しくて仕方ないという風に振る舞っている。
そしてアイカが次の思い出を語ろうとし始めたときだった。僕は敢えて、アイカに真剣な眼差しを向けてみせた。結露でしっとりと濡れたグラスに触れる彼女の手が止まる。僕の気配に気付いてくれたようだ。気付かれないように、僕は静かに、深く深呼吸をしてから言った。
「アイカ」
そう言った刹那、今までは柔らかくて心地よかった空気が、突然硬いものに変わってしまった。アイカの表情もその空気と同様に、固くなってしまった。
あぁ、出来るならこんな空気になるのは避けたかった。しかしこれは仕方ないのだろう。胸が締め付けられる感覚を押さえながら、何とか言葉を絞り出す。
「アイカが僕に、本当に言いたいことは何?」
言った。心臓が僕の身体から飛び出そうとしているかのように、体内で暴れまわっている。その鼓動に合わせて、全身から汗が滲み出す。
アイカの顔が、戸惑いで満ちる。彼女は、テーブルの上で遊ばせていた手を下に下ろした。肩が強ばっているように見える。恐らく、テーブルの下に隠した手を、強く握っているのだろう。そして、少しずつ視線が落ちていく。長い髪が流れ、彼女の輪郭を隠す。いよいよ、彼女の表情は見えなくなってしまった。
沈黙が耳を刺す。さっきまで聞こえていたジャズも、聞こえない。
ちらりと、アイカの口元が髪の隙間から見えた。下唇を噛み、必死に何かを考えているようだ。そんな彼女の姿が、僕の胸を更に締め付ける。けれど、もう昔の頼りない僕じゃない。アイカを導けるだけの力は、備わっているはずだ。僕は声を優しくして、もう一度アイカに呼びかけてみた。するとアイカは、俯いたまま小さく息を漏らした。次に何か言葉が出てくることを期待していたが、違った。
彼女は、一粒涙を溢した。一粒、また一粒と、彼女の瞳から溢れ出す涙。
あぁ、どうして。苦しい。僕は苦しくて死にそうなのを堪えて、アイカに届くように手を伸ばした。
五十センチ。
二十センチ。
十センチ。
五センチ。
そこで一度躊躇って、伸ばした手を戻そうとした。けれど、気持ちは止まらない。
遂に、ゼロ。
僕の手の平が、彼女の柔らかい髪に触れた。よくやった、俺。見たか、昔の俺。場違いなのは分かっているが、この自分の行動に賛辞を送らずにはいれなかった。
「ごめん。辛いこと聞いちゃったか。……泣かないでくれ」
アイカの涙が止まるように願いを込めて、そう囁きながらアイカの髪を撫でた。一挙一動全てに優しさと愛情を込めて。アイカの涙は、僕の言葉で更に勢いを増したようだった。止まりそうにない。
「ごめんね……泣くつもりじゃなかったのに……どうしてかな」
アイカは涙を拭いながら、出来るだけ明るく答えた。そんな無理はしなくてもいいのに。アイカは髪を撫でている僕の手をそっと握って、そのまま下ろした。
「ごめんなさい。大丈夫」
気丈に振る舞う彼女の声は、まだ少し震えていた。
「本当に? 無理しないでいいから」
本当に心配で、もう一度問いかける。とても大丈夫そうには見えないから。
アイカは、ぱっと顔を上げてみせた。涙のせいで、頬に髪がへばりついている。いつか見た泣き顔とは、もはや違っている、美しい泣き顔だった。目は充血して真っ赤だし、鼻の頭も赤く火照っている。あの時と同じ。なのに、美しいと思った。尚更に彼女が愛しくなる。不思議な魔法にでもかかったようだ。
アイカはずっと、僕の手を握り締めたままだった。更に不思議なことに、そうしていることで安らぎを感じるようになった。柔らかい手だ。見た通りの感触。滑らかで、つやつやとしていて、温かくて。サヨとは、何もかもが違っているように思う。
アイカは僕の手を見つめながら、何か考えているようだった。恐らく、一所懸命言葉を探しているのだろう。僕は、アイカがその答えを何とか見つけ出してくれるのを、ひたすら待つことしか出来ない。歯痒いが、仕方ない。
時折、アイカは僕の手をぎゅっと力を込めて握った。何か伝えようとしているかのように。伝わるものが、確かにあった。確信は持てないが、手の平の温かさの中に、愛情を感じた。僕の自惚れかもしれない。いや、きっとそうだと、僕はなるべくそう自分に言い聞かせた。そうでもしないと、僕の全てのバランスが一気に崩れてしまう気がしたから。
自分の思考を巡らすのに精一杯だったので、アイカの視線に気付くのに少し時間がかかってしまった。それに気付いて、僕は急いでアイカの瞳に焦点を合わせた。
先程の僕と同様にアイカは、真剣な眼差しを僕に向けていた。いよいよだ。
アイカが胸にしまっていた思いを、吐き出そうとしている。僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
僕らは、目だけで会話をしていた。互いに準備をするために。また、互いにそれを促すために。それだけで、少しでも何か伝わればという、淡い期待を寄せて。
繋いでいた手が、そっと離された。温もりが遠ざかる。そして、アイカがゆっくりと口を開くのが見えた。その瞬間に、耳を塞いでしまいたかった。
しかし、そんなわけにはいかない。僕は彼女の告白を聞かなければならない。そんな絶対的な義務が、僕には課せられているのだから。
「私ね、結婚するの」
震えた声で、彼女が呟いた。そんな答えを、覚悟をしていなかったわけではない。なのに、その言葉をいざ耳にした瞬間、僕の頭は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。心の中に、波紋の輪が広がる。低い音が全身に響いているようだ。その重みに耐えることで、僕は必死だった。
また一粒、彼女の目から涙が溢れ出した。自然と手が伸びた。テーブルの上で握り締められたアイカの手を握る。強く。優しく。
アイカは、自分自身の涙に負けてしまわないように必死なのだろう。何とか涙を堪えようと、下唇を噛んでいる。そんな姿が、もう痛々しくて仕方ない。
「泣かなくたっていいじゃないか。おめでたいんだから」
何とか優しい笑顔を作り上げて、目一杯優しく言ったつもりだ。もしかすると、顔はひきつり、声は上ずっていたかもしれないが。
さっきから、僕が何か言う度に、アイカの涙はたくさん流れ出てくる。アイカが必死で堪えていた涙は、無情にも、止めどなく溢れている。出来れば泣いてほしくはないが、泣くことで、アイカの辛さや苦しみが少しでもなくなってくれたら。そう思った。
アイカの涙の訳は分からない。結婚を決めて、僕に会いに来て、そして、涙を流して。アイカの様子から、涙の理由として思い付く中で最もしっくりとくるものを、僕は見つけていた。けれど、僕はそれが答えだと思うのが、どうしても怖かった。恐れていた。アイカが、僕と同じように、ずっと、僕に恋い焦がれていた、なんて。
ドクン、と、心臓が跳ね上がる音が聞こえた。アイカが、涙をいっぱい溜めた瞳で僕を見つめる。おめでとう、と一言告げようとした瞬間だった。アイカの手に力がこもった。
「ずっと、ジュンちゃんが好きだったの」
耐えきれないといった風に、アイカが目を瞑った。涙が一筋、アイカの頬を静かに伝った。一気に目頭が熱くなった。息が出来なくなりそうだった。
信じられない。ずっと、僕の一方通行の恋だと思っていたのに。それが僕の間違いだったなんて。大好きなアイカが、僕と同じ気持ちでいたなんて。もう彼女に何と言えばいいのか、分からない。
嬉しい。確かに嬉しい。けれど、僕の気持ちを伝えたら、どうなってしまう? アイカがこれから手に入れようとしている幸せを、壊してしまうことになるんじゃないか? アイカだけじゃない。アイカの相手、それに僕とサヨの幸せまでもが、壊してしまうんじゃ? けれど、僕は自分の気持ちを伝えずにはいられなかった。
僕の、生涯閉じ込めていた気持ちが報われようとしている。その気持ちが、自分ではどうにも出来ないくらいに、暴れていた。
「僕も……ずっと、アイカが好きだったよ」
言ってしまった。後悔と解放感が交錯する。世界が変わったように思った。
アイカも、僕と同じだったようだ。まさか、と言わんばかりに目を丸くしている。その次の瞬間には、アイカの表情は曇ってしまっていた。顔をくしゃくしゃにして、眉を寄せて、涙を流している。不安が喜びを覆い隠そうとしている様が、アイカの瞳に手にとるように見えた。
「嘘でしょう? ジュンちゃん、そんな嘘つかなくていいよ」
アイカの柔らかい声が、震えている。悲しそうな旋律。
「嘘なんかじゃない。僕だって、アイカが……僕を好きだったなんて……本当に信じられないくらいなんだよ」
アイカが本気で嘘だと思っているわけではないと、頭では分かっていた。けれど、感情がついてこなかった。
物心ついた頃からずっとアイカを想っていた。そのことを、アイカ自身とはいえ、自分以外の誰かに否定されるということが、余りにも許せなかったのだ。だから、思わず声が大きくなってしまった。アイカも、僕の様子を見て何かを悟ったのだろう。
「本当に?」
消え入るように小さな声で、アイカが僕に尋ねた。僕を見つめるアイカの大きな瞳に、キャンドルの灯りが映りこむ。溜まった涙のせいで、光が乱反射して、キラキラと美しく輝いている。その光に、思わず見とれてしまいそうになる。
アイカはすでに僕の気持ちに気付いている。信じたいけれど、それを受け入れることで自分がおかしくなりそうだと感じているのだろう。本能が素直に喜びを感じるのを、憎らしいほど冷静な理性が押さえつけている。僕と同じように。
僕が本当だと言えば、冷静な理性も、本能に従わざるをえない。つまり、彼女を押さえつけるものは、何もなくなる。それは僕にとっても同様だ。僕らは、どうなるのだろう。サヨとの関係は? アイカと、彼女の結婚相手との関係は? そんなことを考えると、躊躇わずにはいられなかった。本当だと言おうが、嘘だ、冗談だと言おうが、どちらにせよ結果的には、僕の答えでアイカが傷付くことになるのは間違いない。少しでも、彼女が傷付かずに済むのは――
「本当だよ」
言った。その瞬間、アイカはきつく目を瞑った。まるで、喜びを噛み締めるかのように。アイカの目から、一際大きな雫が溢れ落ちるのが見えた。アイカはとうとう、堪えきれなくなったのだろう、声をあげて泣き始めてしまった。耐え難い大きな喜びのためだろう。さっきまでの涙とは違っている。
しかし、アイカも分かっているのだろう。自分が大きな傷を背負っていかなければならなくなったことを。僕は、アイカの手を一層強く握った。
嬉しい。けれど、それと同時に僕らが背負うことになる傷のことを思うと、辛かった。僕らは恐らく、一生この傷を背負って生きていくのだ。お互いが深く愛してしまったが故に。それと同じくらいに、他の人を愛してしまっているが故に。
「ジュンちゃん……」
思わず漏れてしまったのだろう。アイカが僕の名前を呟いた。聞き取るのが難しい程の、小さな声だった。しかし、その声にこもった想いは余りにも大きくて、僕の胸を締め付けた。その声が、頭の中で何度も反復され、どんどん大きくなる。何かが弾けてしまいそうになる。そう、それは、僕の理性に違いなかった。
「アイカ、外に出よう。風に当たって、ちょっと落ち着かないか」
泣いてばかりで、もう何も考えられないという風な彼女の様子を見かねて、僕は言った。すると、アイカは泣きべそをかいた小さな少女のように、黙ってコクンと頷いた。なんて愛しいんだろう。僕の下心が、あからさまに疼いてみせた。