第七章
あれは、僕が小学校4年生、アイカが6年生の夏休み。この年のアイカへのプレゼントは、夕焼けだった。街の外れの山の上に行くと、夕焼けに染まる街が一望出来る上に、真正面に大きな夕日が見える。そんな絶好のスポットを、僕は見つけていた。その場所に向かう道での出来事だった。
僕は、自慢の自転車の荷台にアイカを乗せて、強い西日の中でひたすらペダルを漕いでいた。遠慮がちに横向きに座ったアイカの手が、僕の腰に触れている。そんなことにドキドキしていたせいか、夏の西日の強さのせいか、とにかく僕はやたらと汗だくだった。アイカが時々僕を心配して声をかけてくれた。何せ、山のてっぺん近くまで自転車で登っていくのだ。大変なのは目に見えている。幼い僕は、ただただ懸命にペダルを漕ぐだけで、アイカの優しい呼びかけにも反応する余裕がなかった。
「あっ」
僕は思わず声をあげ、自転車を停めた。その声を聞いたアイカが、僕の後ろから前の方を覗く。
山へ続く畦道。右の方には青々とした田圃が広がっていて、左の方には土臭い森が茂っている。その真ん中を土がむき出しになった、足場の悪いでこぼこ道が延びていた。そんな道で、僕らの目に飛び込んできたもの。
雀が一羽、羽を広げて死んでいた。田舎者の僕は、動物の死体にはよく出くわすことがあった。しかし都会っ子のアイカは、こんなところで動物が死んでいるのは、見たことがなかったのだろう。
僕らは自転車を降りて、雀の死体に近付いていった。どうして、こんな何もないところで死んでいるのかは分からなかった。ただ僕らに突き付けられたのは、死んでいるという事実だけだった。
「ジュンちゃん……この子、死んでるの……?」
僕の一歩前に立つアイカの声は、震えていた。泣いていたのかも知れないが、顔が見えなかったので、分からない。
「うん……多分もう……死んじゃってる」
アイカは僕のその答えを聞くと、雀のすぐ側まで行き、黙ってしゃがみこんだ。
僕らは互いに黙ったままだった。蝉の声が雨のように降り注いでは、僕らを打つ。しゃがみこんだアイカは何も言わず、ただ細い肩を震わせていた。
アイカはしばらくの間、小さな命の終焉に涙を流すばかりで、そこから動こうとしなかった。僕もただ、そんなアイカの小さな後ろ姿を、黙って見つめていることしか出来なかった。そうしている間にも、アイカに見せたかった夕焼けの時間が近付き、もうすでに日が傾き始めていた。僕は動こうとしないアイカに対して、徐々に苛立ちを感じ始めていた。
いつまでメソメソしているんだ。雀が死んでるくらいで、何がそんなに悲しいんだ。泣かなくたっていいじゃないか。さっきまであんなに元気で、あんなに楽しかったのに。こんなのつまらないよ。
堪りかねた僕は、アイカの背中に声をかけてみた。
「ねぇアイカ。そろそろ行こう?」
アイカの返事を待つ。
本当にこのまま動かなかったらどうしよう。夕焼けを見せてあげたいのに。本当に綺麗なんだ。
祈るような気持ちでいると、アイカが静かに立ち上がった。
「アイカ……?」
アイカがようやくこちらを向いた。そのとき初めて見た、アイカの泣き顔。真っ赤な目に涙をいっぱい溜めて、俯いたままだ。鼻の頭も赤くなっていた。
「ジュンちゃん……ひどいよ」
アイカが唐突に僕にぶつけた言葉。その声はまだ少し涙声で、震えていた。アイカが泣いているのは、何となく気付いてはいたが、目の前の泣き顔に、どうすればいいのか分からずに、僕は少し動揺していた。そこにいきなりそんなことを言われても。幼い僕が答えられるはずがなかった。
「帰ろ」
「えっ」
またも、僕は言葉を失ってしまった。今度は何だ?もう訳が分からない。
「せっかくここまで来たんだよ。アイカに見せたいものがあるんだ。すごいんだよ!」
僕は焦燥と苛立ちを感じずにはいられなかった。アイカに見せたい一心で頑張ったのに。ただ雀が死んでただけじゃないか。たったそれだけなのに。
どうしてアイカはそんなこと言うんだよ。目の前で、アイカが俯いたまま立ちすくんでいる。
どうにもならない気持ちを、僕は両手の平で握り潰した。爪が食い込むほど、強く。
僕は何も言えなかった。アイカは、黙って僕の横を通り過ぎて、もと来た道を歩き始めた。
アイカ。そう呼びかけようとしても、その気持ちは霧のように空を漂うだけで。
僕らはそのまま、二人で俯きながら歩いて帰った。石を蹴飛ばしながら前を歩くアイカの姿を直視すると、何故か涙が出そうになるものだから、俯いていた。アイカを見ないように。自転車がやけに重たくて、腕が痛かったのを覚えている。
これが、僕らの唯一の喧嘩だった。
「もちろん覚えてるよ。あれはかなりきつかったから」
大人になった僕がそう言うと、大人になったアイカは、声をあげて笑った。もしこのアイカの泣き顔を見たら、僕はどうするんだろう。どうなってしまうんだろう。
「それで、ジュンちゃん家に帰ってから、私のところに謝りに来てくれたのよね。でも私、まだヘソ曲げたままで……」
「あれ、そうだっけ?」
「そうよ。なかなか仲直り出来なくて。結局お母さんに仲介してもらったの」
やはり覚えていることは同じでも、そのポイントは二人の間で異なっているらしい。
思い出話は尽きない。僕らは本当に十年前にタイムスリップしたようだった。覚えていなかったことも、二人で話していると、次々と溢れてくる。今まで押し込んでいたからだろうか。本当に不思議なものだ。