第六章
当たり障りのない世間話をしているうちに、僕らは店の前にたどり着いた。アイカとの会話がつまらないものにならないように気を付けながら、頭の中ではずっとサヨのことを気にかけていた。僕は元来不器用なので、そんなことをやってのけるのには、かなりの集中力を使う。ほんの数分だったはずなのに、正直疲れてしまっていた。慣れない歩幅で、緊張しながら歩いていたので、足にも心なしか疲労のようなものを感じた。これからアイカと過ごすであろう数時間の間、最初からこんな調子では、今日が終わる頃には僕は一体どうなってしまっているんだろうか。
それにしても、アオイの言っていた通りのお洒落な店構えだ。むしろ想像以上でもある。こんなバーがあったなんて、全く知らなかった。
駅の裏にある煩雑な路地に、その店はあった。白っぽい色のレンガで建てられ、優しげな木製のドアが人々を中へと誘う。少し場違いなのではないかと思う程、小綺麗な店だった。店先には、店の名前らしき文字と、おすすめメニューやドリンクが書かれた黒板が置いてある。店の名前は、なんと読むのか分からない。日本語でも英語でもない言語だろう。僕の範疇外だ。
「ここだよ」
初めて来たくせに、知っていたような口調で言ってみせる。右肩越しに、こっそりアイカの反応を伺ってみた。反応は上々だ。店先の明るめの照明に照らされたアイカの顔は、明らかに店の様子に興味を示しているようだった。
「すごい。いい雰囲気のお店ね」
「お気に召されたようで。じゃあ入ろうか」
そう言って、ドアノブに手をかけた。アイカが僕の脇を通り抜けて店の中に足を踏み入れる。
少し暗めの照明で照らし出された内装もやはり洒落たものだった。お酒の瓶がたくさん並べられたカウンター。所々に、アクセントとして乳白色の何かの像が鎮座している。マリア像だろうか。繊細なフォルムの丸テーブル。それと対になっている、可愛らしい椅子。明日は土曜日だということもあってか、店内はすでに数名の客がそれぞれで会話とお酒を楽しんでいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、細身で背の高い男が声をかけた。このお洒落な空間に似合う、渋い感じの男だ。年は僕と同じくらいだろうか。
僕らは、入口から一番遠い奥のテーブルに座った。テーブルの上には、銀細工のポットがあり、その中でキャンドルがゆらゆらと優しい灯りで、テーブルの周りを幻想的に照らしている。それに合わせているかのような、さりげないジャズが耳を撫でる。
僕らが席について落ち着いたのを見計らって、さっきの男が注文を取りに来た。アイカはメニューを少し見て、カシスオレンジを頼んだ。僕はとりあえずビールにした。
「お酒は強い方?」
アイカが僕に尋ねた。少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら。なるほど。アイカが期待している答えが分かった。
「生憎だけど強いよ。学生の時から、どれだけ飲まされても潰れたことないからね」
「ほんと? 意外。言うと悪いけど、すごく弱そう」
アイカがくすくすと小さく笑った。どうやら僕の言うことをいまいち信じていないようだ。
弱そうだとはよく言われる。見た目では、僕はいわゆる草食系男子に分類されるのだろうから。おそらく、中身も草食系だ。しかし、強いのは事実だ。これは見栄じゃない。お酒を飲むようになってからの、僕の細やかな自慢でもあるのだから。
「アイカはどう?」
「私は普通かな。酔いはするけど、そこからが結構強い感じ」
何となく分かる気がする。
「今日は飲んでも大丈夫なの? 俺は明日仕事休みだけど、アイカは仕事あるんじゃないの?」
「心配無用よ。今日、明日と連休なの」
アイカは、ピースサインを出しながら答えた。細くて長い指が僕の目に飛び込んできた。艶やかで繊細な、女性らしい綺麗な手だ。こんな大したことでもない仕草でも、相手がアイカだと、いちいちドキドキしてしまう。本当にこれからが心配になった。
そんなことよりも、アイカは明日は仕事がないという。その言葉を聞いて、僕の本能が真っ先に反応した。良からぬ想像が、脳裏をよぎる。まさか。僕は少し瞳を閉じて、冷静な理性を呼び戻した。
「そう言えば」
アイカの発した言葉で、僕の理性が完全に舞い戻ってきた。これで一安心。
「ジュンちゃんのお父さん、すごくお酒強かった記憶があるわ。お父さんの遺伝なのね」
「あぁ、きっとそうだね。お酒飲むようになってからは、実家に帰ったときには決まって親父と二人で飲むんだ」
そんなことを話していると、さっきの男とは違う、もっと若い大学生くらいの青年が注文したドリンクを運んできた。
僕らは顔を見合わせて、テーブルの上に置かれたグラスを持った。
「乾杯」
お互いにグラスを軽く当てる。これから始まるであろう、二人の過去を巡る旅の出発の合図だ。
予想通り、早速思い出話が始まった。徐々にお互いの緊張も解れて、懐かしい話に花が咲いた。アイカが思い出を語る度、僕の心は温かい喜びで溢れた。もう僕だけしか覚えてないだろうと思っていたようなことも、アイカはしっかりと覚えてくれていた。しかも、時には僕よりも細やかに覚えていることさえあった。本当に、嬉しかった。
誰にも語らずにずっと胸の中に閉じ込めていた思い出が、今こうして、一つずつ僕の中から溢れ出していく。それを、アイカが一つも落とすことなく受け止めてくれる。その喜びと言ったら。
物心ついた頃から常に一緒、とまではいかなかったが、それでも僕らは幼なじみであることには違いなかった。ただの幼なじみとは違う、とても特別な幼なじみだった。夏休みの一週間を幾つも積み重ねて作り上げた絆。僕らが共に過ごした時間は、1年にも満たない時間だろう。でも、僕がアイカのことを想ってきた時間は、僕の人生の長さとほぼ同じだ。これだけは、僕が誇りを持って言える、決して揺るがない事実。
「ねぇ、覚えてる?」
そう言って、アイカは次の思い出の引き出しをゆっくりと開けた。僕も、その引き出しの中をそっと覗き込んだ。