第五章
八時まで、あと十五分にまで迫ってきたときだ。公園の入口を見ると、アイカの姿が見えた。辺りはもうすっかり暗くなっているが、公園の入口付近は街灯がやけに明るくついているので、こちらからはよく見える。
割りと長い時間じっとしていたので、手や首筋を蚊にさされている。痒い。しかしそれも我慢だ。ぷっくりと腫れたところに、爪を立てる。痒みを抑えると昔から言うが、全く効かないということも知っている。それなのについやってしまうのはどうしてだろう。
アイカは僕がいることに気付いたのか、歩調を早めて、小走りで僕の近くまでやって来た。少し乱れた髪を直しながら、アイカが僕の目の前に立つ。
「なんだ、もう着いてたのね。絶対に私の方が早いと思ってたのに。」
ゆっくり立ち上がって、改めて向かい合って立つと、妙に違和感があった。
前にこうして並んだ時は、まだ僕は成長期前で、何より元から背が高いほうではなかったので、アイカの方が僕よりも背が高かった。なのに今は、視線がほとんど同じくらいだ。背比べをしたら、間違いなく僕の方が高いだろう。それに、アイカは高めのヒールを履いている。僕は十年程の間に随分成長したようだ。こんなところで実感するとは思わなかった。
アイカの方がサヨより少し高いくらいだろうか。ふと、そんなことを思った。サヨは今何をしているだろう。
「これからどうする?」
アイカの声で、一瞬でサヨのことは僕の頭から消え去ってしまった。本当に愛しているはずのサヨのことなのに。アイカの前では、僕のサヨに対する想いはちっぽけなものになってしまうのか。ぎゅっと締め付けられるように、胸が苦しくなった。
アイカが僕の目を覗き込んでいる。これからのことを何か期待しているような無邪気な黒い瞳が、僕の心を弄ぶ。
「駅の近くにバーがあるんだ。そこに行こう。アイカが他に行きたいとこがあるなら、そこでいいけど。何かある?」
「ううん、ないわ。じゃあそこに行きましょ」
アイカがにっこりと微笑む。まるで花のようだと、柄にもないことを思った。
僕が歩き出すと、アイカは少し後ろの方に回って、同じように歩き出した。
アオイに教えてもらった道を、間違えないように細心の注意を払いながら歩く。アイカの歩幅に合わせて、一人の時よりもゆっくりと。微調整をしながら。こうして並んで歩けることが、夢のように思えた。
アイカからの連絡が途絶えたとき、もう二度と会えないような絶望を感じていた。そしてその絶望の中でもがいて苦しんで、何度も悩んで、失敗して、また苦しんで。そうしてやっとたどり着いた、サヨという存在。サヨとの時間は幸せだった。サヨは、ありのままの僕を受け止めようとしてくれた。それだけでありがたいと、本当にそう思えた。
忘れられない人がいると打ち明けたときも、優しく受け入れてくれた。それでいい。それも含めて、今のあなたがいるんだから。そう言ってくれた。
そして今、その忘れられなかった人と、僕は歩いている。それでもサヨは許すと言うのだろうか。
サヨとアイカ。どちらも僕には欠かせない存在であることは間違いない。言うなれば、今の僕と、過去の僕の戦いなのだろう。どちらかを選ばなければならななくなるのは分かっていた。これは、僕が前に進むための試練のようなものだ。その試練のときを先伸ばしにして、僕はずっと前に進めないまま立ち止まっていたに過ぎない。いつかは選択しなければならない答え。アイカが再び僕の前に現れた今。これがきっと、僕に与えられたチャンスなのだろう。そしてそのチャンスはもう二度と与えられない。きっと、最後のチャンスなのだ。選択することがどれ程苦しいことになるのか、考えることは出来た。しかし、その苦しみは実際に味わうことかなければ分からない。出来ることなら、そんな苦しい思いはしたくない。僕は臆病者だ。