第三章
案の定よく眠れなかった。
嫌になるくらい無駄な葛藤を、嫌になるくらい長い時間繰り返した。ようやく眠りについたのは確か、空が白んできた頃だった。明らかに睡眠時間が足りない。いつまで経っても、恐ろしい程に頭が重い。逆算すると、三時間程しかまともに寝れていないようだ。学生の頃は、二時間くらいしか寝ていなくても、次の日は元気にやれたものだが。こういうときにはすごく老いという嫌な変化を感じる。自分も確実に老いていってる。確実に死に向かっている。そんなことを考えずにはいられない。
ベッドの上でダランとあぐらをかき、まだ重い頭を軽くとんとんと叩く。そうして、眠りたいと駄々をこねる怠け者の脳を叩き起こそうとした。ふむ、僕の司令塔はなかなか強情なようだ。
朝の支度を済ませ、家を出る。眠い割りには、何とかいつも通りの時間に起き、家を出ることが出来たので、急がないといけないような事態にはならずに済んだ。
僕の職場は最寄り駅から地下鉄で四駅先にある。出勤の時間が、通勤ラッシュの時間帯とはずれているので非常に助かる。
電車の中は、眠そうな学生や、やたらと着飾ったOL、何を考えているのか分からない仏頂面の中年男性など。ありきたりな光景で、別にこれといって変化のない、極々平和な様子だ。僕はいつも、一番前の車両のドアにもたれかかって立つ。ここが僕の定位置だ。今日は特別眠いものだから、いつも以上に、居眠りをしないように注意する必要があった。今眠ってしまうと、起きるのがいつになるのか分からない。きっと、寝過ごしたことにも気付かないまま、終点に辿り着くだろう。
窓の外には、何も見えない。ただ、規則的に並べられた電灯の灯りが次々と通り過ぎていく。地下鉄独特の轟音が鼓膜に響く。うるさくて仕方ないこの音。でも何故か僕は嫌いじゃない。この轟音の中に身を置いて目を閉じると、音の中に飲み込まれ、自分自身が窓の外の闇に溶け込んでしまったような感覚に陥る。それが、心地いい。闇に溶けた僕を光の下に連れ戻すのが、アナウンスの機械的な音声だ。そのアナウンスを聞くと、それまでは少しも動きを見せなかった人々が、一斉に動き出す。この人達も僕と同じで、闇の中から連れ戻されてきたんだろうか。
三回同じようなことを繰り返し、闇と光の間をさまよった後、僕は電車を降りた。人が作る流れに身を任せ、導かれるままに改札口を抜ける。
職場まで、徒歩約十五分。近いわけでもないが、遠いわけでもない。こんな寝惚けた頭を覚ますにはちょうどいい運動になるはずだ。夏の暑さもピークを過ぎ、朝の空気はついこの間に比べると、随分過ごしやすくなったものだ。しかし、まだ日射しは夏のものだ。しばらく歩いていると、背中に汗が滲んできた。職場までの道のりが平坦で本当に良かったと思う。
オフィスビルの立ち並ぶ通りを一つ路地の方に入ると、サラリーマンの憩いのためにあるような、ひっそりとした静かな公園がある。僕の職場は、この通りのもう一つ先の筋にある。ランチや休憩で余裕のある時には、決まってここに来る。木立が立ち並び、その下にぽつりぽつりとベンチがある。
朝なので、人はあまりいない。新聞を読む老年の男性、あるいはベンチに座り、のんびりと話す夫婦。あとは、犬の散歩をしている人が時々通り過ぎるくらいだ。朝は、ここで一服してから出勤するのが、僕の中のルールになっている。いつも通り、十五分程余裕がある。時間を確認したあと、胸ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。一口目の煙を空に向かって吐き出す。秋の始まりを感じさせる高く透き通った空には、飛行機が白線をひきながら悠々と飛んでいた。
僕はゆっくりと瞳を閉じ、二口目の煙草を吸う。瞼の裏には、当然のようにアイカがいた。まるで僕が目を閉じるのを待っていたかのようだ。
「ジュンちゃん」
そうだ、アイカはそんな風に僕のことを呼んでいた。柔らかい声。もしも声というものを具現化させて、質感を持たせることが出来るのならば、アイカの声は羽毛のように柔らかくて、軽やかなものになるに違いない。
だが、瞼の裏のアイカが発した声は、僕の知るものとは少し違っていた。柔らかい声質は変わっていないが、少し大人びて落ち着いたような感じがする。
そもそもこの声は、僕が記憶を頼りに再生したのか? 頭の中で聞こえたはずのその声は、何故か耳から聞こえた気がした。極限の眠気は、幻聴まで引き起こすのか。そう思いながら、目を閉じるときよりも、さらにゆっくり時間をかけて瞼を開けていく。
朝独特のきらめきが、刺激となって僕の目に刺さる。真っ白な視界。その中にぼんやりと人影が見えた。その人影がはっきりと見えたとき、僕の心臓は、全身を揺るがすほどに高ぶってみせた。
アイカだ。僕は頭の中が真っ白になった。
どうしてこんなところにいるのか?どうして僕がここにいると分かったのか?アイカだ。あのアイカがいる。いくら恋い焦がれても決して届かない場所にいたアイカ。今なら届くだろうか? アイカは僕に会うためにここに来たのか? 何のために会いに来たんだ? しかも随分突然じゃないか。サヨと知り合ったのだから、サヨを通して再会することも出来たろう。あぁ。アイカだ。何度も頭の中で描いていた、成長した大人のアイカが、ここにいる。
ベンチにだらしなく座った僕の正面、三メートル程先に、彼女がいる。
「ア……イカ……?」
僕はやっとの思いで、目の前にしゃんと立っている美しい女性に声をかけた。あぁ、これが幻で、声をかけた途端に消えてくれたなら、どんなにいいだろうか。
大人になったアイカは、そっと僕に微笑み返してみせた。幻じゃないのか。
僕の心は、今までにないくらいに混乱していた。嬉しいはずなのに素直に喜べない。そんな自分を殴り飛ばしてやりたいくらいだった。理性と本能の葛藤とでもいうのだろうか。自分の目が今程信じられないことは、後にも先にもないだろう。
アイカが一歩僕に近付いた。僕らを隔てていた十年という距離。それが今、なくなろうとしているように思えた。近付こうにも、なかなかこの距離を縮められない。まだあのアイカが目の前にいるということが現実だとは思えず、触れたら泡になってアイカの姿が消えてしまうんじゃないかと思った。もしくは、羽のように散ってしまうのではないかと。出来るなら、アイカを抱き締めてみたかった。
「サヨさんに聞いたの。この近くの会社に勤めてるって。毎朝、この公園に寄るってことも」
アイカが懐かしそうに僕を見ながら言った。相変わらず上品な大きな瞳は、僕に何か伝えようとしているようにも見える。
僕は咄嗟に、右手に持った煙草のことを思い出した。そして、慌てて煙草の火種を靴の裏で揉み消した。僕の中の虚栄心がそうさせたのだ。その様子をみたアイカが、小さく笑った。
「別に消さなくてもいいのに。煙草、吸うんだね。ちょっと意外。大人になったんだね」
アイカは微笑みながらそう言った。アイカの長い髪が揺れる。昔から色素の薄い髪だったが、染めているのだろう。ピンクがかった茶色い髪になっていた。
初めて見る大人のアイカは自分が考えていた以上の魅力で溢れていた。白いブラウスに細身のジーンズ。活発で爽やかな印象の中に、しっかりと女性らしさが潜んでいる。ブラウス越しに見えるシルエット。ブラウスに隠されたものを想像しては、自分の中に溢れ出してくるものを抑えつけた。それはもう、必死に。
余りに突然の再会で混乱し、なかなか言葉が出て来ない。何を言うべきか、何なら聞いてもいいのか、全くと言っていいほど分からない。何より、聞きたいことと言いたいことがありすぎたのだ。いい年になって、人並みに女性の扱いも今まで学んできたはずなのに。僕の女性に対する耐性だけは、十年前の果てしなく初な状態に遡っていた。僕とアイカの距離が、十年前に遡ることは決してないのに。相反する二つの状態。どうにもならない歯痒さが、身体中を駆け巡った。
沈黙になるのは避けたかった。咄嗟に浮かんだことを聞いてみる。
「この近くに住んでるの?」
思い付く質問の中で最も無難な質問を選択したつもりだった。しかし、その質問を発した直後から、不安が心の中に激しい渦を作った。もう一人の自分が、しつこいくらい僕に問いかけてくる。
本当にそんな質問をして良かったのか? 返事によっては、一気に核心に触れてしまうこともありえるぞ。そしたら、お前はどうするんだ?
気が付くと、手のひらには汗が滲んでいた。僕はその汗を隠すように、強く拳を握った。
「近くって言うほどでもないけど……電車で二十分ぐらいかな?」
アイカがまた少し近付いてきて、隣に座ってもいいかと尋ねてきた。僕は頷くのに精一杯で、他には何も言えなかった。僕の心臓は、終始暴れっぱなしで制御不能といった感じだ。まだ頭も真っ白。早く落ち着いてほしい。それなのに、アイカは隣に座るという。このままでは、もうどうにかなってしまうのではないかと思った。
「どうして……」
そう言ったものの、またももう一人の僕の仕業で、続きを言うことは出来なかった。何を聞こうとしたのかも、忘れてしまいそうだった。どうして突然僕に会いに来たんだ?そういった内容の質問をしようとしたはずだったのに。しかし、皆まで言わずとも、アイカは質問の内容を汲み取ってくれたようだ。小さく笑ってから、アイカは答えてくれた。
「どうして会いに来たのかって? ごめんね、突然……」
そう言ってから、アイカは黙り込んだ。隣に座っているアイカの様子を伺ってみる。アイカは少し俯き加減で、少し離れた地面を見つめていた。その目には後悔のような、迷いのようなものの影が潜んでいた。十年の距離はまだあったが、確信はあった。隣の女性の考えていることが、わずかながら僕には分かった。僕はずっとずっと、彼女のことを考えながら生きてきたのだ。彼女のことしか考えられなかった僕だから、分かる。彼女が放つ違和感を言葉にするのは難しいが、僕の第六感のようなものは、彼女にのみ特化しているのだから。
彼女は、相当の決心の下に、僕に会いに来たのだ。何か、大切な、重要なことを僕に伝えるために。それが何なのかまでは分からないが、それだけでも分かれば十分だろう。本当にそうであって、彼女が今そのことを告げようかと迷っているのなら、僕が彼女に言ってあげられることはある。声色を目一杯優しい風に調節して、僕は言った。
「俺は今から仕事だから、申し訳ないんだけどあんまり時間はないんだ。もっとゆっくり話したい。今日は仕事とか、予定はない?」
僕はアイカの横顔を、出来るだけ真っ直ぐに見つめながら言った。彼女は本当に美しい女性に成長した。
僕の言葉を聞いて、アイカははっとしたように僕の方を見た。必然的に、目が合った。その瞬間、二人の視線がバチっという音と閃光を伴って結び付いた。当然、実際に音や光を発したわけではないが、僕は感じた。僕の言葉を聞いて、彼女の目に潜んでいた迷いが、薄れた。良かった。本当に。
「えっと……今日は、仕事はお休みなの。予定も特にないわ」
「だったら、俺の仕事が終わるまで待っててくれないか? 仕事が終わったらすぐに連絡するから。それからゆっくり話そう」
アイカは嬉しそうな笑顔を見せてくれた。そう、僕が好きなのはこの笑顔だ。この笑顔がずっと僕の中にあって、僕を縛り付けていたんだ。
それから、僕らは連絡先を交換した。十年前には携帯なんてなかったので、何故かとても新鮮に思えた。僕らが連絡取り合っていたのは、電話か手紙ぐらいのものだったから。こんな小さな道具で、こんなにも簡単に連絡が取れるようにしてくれた、現代文明に大いに感謝した。
僕らはまた夜に会う約束を交わして、そのまま公園で別れた。アイカはもう少し公園で過ごすと言って、職場に向かう僕を見送ってくれた。