第二章
アイカの話が終わると、サヨは早々と電話を切った。疲れてると言った僕を気遣ったのだろう。サヨの細やかな優しさが胸にチクリと針を刺すようだった。
サヨの声が聞こえなくなって、僕の思考を遮るものはなくなった。心がざわざわして、落ち着かない。その中心にいるのは、アイカ。僕の中の全てが、渦の中心にいるアイカに向かって吸い込まれていく。激流のような、激しい勢いで。どんどん加速していくそのスピードを、止めることが出来ない。アイカが長い時を超えて、再び僕の中心となろうとしている。
僕の中に今も残っていて、少しも消えようとしない、幼いアイカ。今は大人になった彼女。その彼女の中にも、僕が残っていた。彼女の中の僕もまた、幼い頃のままだったのだろう。
まだ、何も知らなかった僕。アイカのことばかりだった僕。痩せ細った、枝みたいに頼りない身体をした僕。自転車で走り回ることが楽しみだった僕。勉強が出来なくて、夏休みの宿題を教えてもらっていた僕。
アイカの中の僕は、どんなだったろうか。そして、今はどうなんだろうか。
僕は、気持ちを落ち着かせるためにもう一度ベランダに出た。左手にライターと相棒のセブンスターを持って。
煙草に火を点け、目一杯吸い込み、ゆっくりと吐き出す。吐き出した煙は、秋の夜風に吹かれて闇の中に潜り込んでいった。目でいくら追ってみても、その行方は見えない。吐き出した直後は、まるで道が見えきっているかのように真っ直ぐ伸びるのに、少し離れると、道はすぐ消えてしまうようだ。
安らぎを手に入れた僕は、静かに目を閉じた。
大人になったアイカは、どんな姿をしているんだろう。僕の興味は、ほとんどがそこに集約されていた。
僕の中に残るアイカは、すごく美人だった。大きいけれど、控えめさを持つ、上品な目。卵形の柔らかい陶器のようになめらかな輪郭。少し薄めの唇。その隙間から覗く、行儀よくきちんと並んだ歯。いたずらっぽい八重歯が彼女の魅力を引き立てた。色素の薄い、少し癖のある細い髪の毛。小学校の頃は短かったが、卒業してからは長く伸ばしていた。元からある癖が長い髪をしなやかにうねらせていた。風になびいて、とても僕をドキドキさせたのを、しっかりと覚えている。そして、少しずつ膨らみを帯びていった身体。中学校を最後に見なくなったその身体は、今やすっかり大人の女性になっているはずだ。
アイカが笑っている。それを考えるだけで、こんなにも心が締め付けられるのか。
彼女の身体は、頭の中で成長していった。一番古い記憶の彼女が、早送りのようにどんどんと成長していく。そして、中学生のアイカは、僕の記憶の限界を超えて、想像の中で更に成長した。
不純なことを思い浮かべてしまう。アイカを想う余りに、欲望が暴れだす。
不意に、我に帰った。心臓がこれでもかというくらいに自己主張をし、自分自身でその音を聞き取れる程だった。火を点けた煙草は、一口しか吸っておらず、半分ほどがすでに灰になっていた。長い灰が、煙草の先にしがみついている。僕は、呆れてため息をついた。何を興奮しているんだと、自嘲する。もう僕は大人になったんだ。中学生や高校生じゃない。恋などに支配されてしまう年ではないんだ。もう、アイカに縛られることもない。そうだ、今の僕にはサヨがいる。もう少し収入が安定すれば、サヨと結婚するのだから。アイカのことは、考えちゃいけない。考えちゃいけない。考えちゃいけないんだ。