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指環  作者: 絵室 ユウキ
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第一章

 ベランダは、中に入りきらないものなどで、ひどく汚れていた。ふと夜空から視線を落として見ると、それはもう目を背けたくなるほどの有り様だった。ここに住むようになってから、ベランダの掃除は一度もしていない。そろそろ掃除をしないと、虫でも湧いて、近所から苦情が来ることもありうるだろう。

 ベランダの隅には、枯れてしまった観葉植物の鉢植えが置きっぱなしになっている。長いこと付き合っている(確かもう5年目になる)彼女が、僕の部屋に彩りが足りないとか何とか言って、僕に無理やり買わせたものだ。名前も知らないこの植物と、僕は半年も共に過ごさなかった。

 僕の植物の世話は随分なってないようで、そいつはいつしか成長を止めた。僕は大して気にしていなかったが、彼女はそうではなかった。部屋に来る度に、膝を抱えてしゃがみこんで、観葉植物の哀れな様子を憂いていた。それはもう泣きそうな顔をして。僕はそんな彼女を見ると、何故かひどく胸がざわついた。膝を抱えて、小さい者を憂う、その姿。胸を焦がすとでも言うのだろうか。とにかく、いてもたってもいられなくなるのだ。僕はよく、小さくなった彼女の背中をきつく抱き締めて、そのままベッドに連れていった。そのあとは決まって、僕が荒々しく彼女を扱ってしまうものだから、彼女は更に泣きそうになるのだった。

 そんな経緯で、こいつはこんな薄汚れたところに放置されてしまうようになったのだ。

 いつもここで煙草を吸うので、灰皿はもちろん置いてある。しかし灰はいつも灰皿に落とすわけではないので、灰皿の周りは白く霞んだようになっていた。吸い殻も山盛り。

 これもさすがにそろそろ捨てないとな…

 僕は小さく舌打ちをして、部屋に入っていった。

 

 部屋の方は、男の一人暮らしの割には綺麗にしていると思う。嫌な姑のように口喧しい彼女のおかげなのだが。

 何気なく携帯を手に取ってみると、『不在着信 一件』の文字が待受画面に出ていた。サヨ。彼女だ。

 時間は十時二七分。ちょうど僕が柄にもなく夜空を見上げて呆けていた頃にかかってきていたらしい。かけ直そうとしていると、メールが届いた。もちろんサヨからだ。

『仕事お疲れ様。聞いて欲しいことがあるの! 小学校時代にジュンと友達だったって人に会ったんだ☆ アイカっていう人なんだけど、知ってる?』

 僕と友達だった? アイカ?

 思い当たるのは一人しかいない。夏が似合う、彼女だ。心臓がキュッと締まるのを感じた。それに合わせて、息をするのが苦しくなる。

 軽い目眩に似たものを感じ、僕はベッドに腰掛けた。ベッドが僕の重みを受けて軋む。サヨに返事をすることさえ忘れ、僕は思考の中へ吸い込まれていった。


 アイカは、僕が初めて恋をした女の子だった。毎年お盆になると、彼女に会えた。よくは知らなかったが、近所に住んでいた老夫婦の孫のようだった。僕と彼女、お互いの両親が知り合いだったので、小さいときから一緒に遊んでいた。本当に物心がつく前から毎年訪ねてきていたので、存在を意識するようになったのがいつなのかは、はっきりしない。

 小学校時代の僕にとって、アイカはとても刺激的な存在だった。特に思春期の僕には。アイカは僕より二つ年上だったので、僕が思春期に差し掛かる頃には、十分過ぎる程に女性としての魅力が芽吹き始めていた。毎年会う毎にアイカは大人になっていった。一年に一度、その成長を目の当たりにするその度に僕の心は高揚した。

 お盆の間は、普段一緒に遊ぶ友達はみんな墓参りだので忙しいので、遊ぶ相手はアイカしかいなかった。尤も、アイカがいる間は、彼女以外と遊ぶ気にはならなかったからかも知れない。

 夏休みの一週間だけ会える、可愛い女の子。僕だけが知っている、彼女のこと。その前提のようなものが、彼女の魅力を更に引き立て、僕の恋心をも駆り立てた。誰かに自慢したい気持ちと、アイカを僕だけの存在に留めておきたい気持ちとが、交錯した。

 僕は、極力アイカを他の友達には知られないようにして過ごした。普段遊ぶ場所には行かず、人の来ない秘密の場所にアイカを連れて行った。アイカが喜ぶような綺麗な場所を探すこと。それが僕だけの夏休みの宿題でもあった。

 僕はアイカのことが本当に大好きだった。小学校から中学校まで、僕の思春期はアイカで埋め尽くされていた。ずっと、他に好きな子などいなかった。出来なかった。

 中学校にもなると、男子生徒の間では野暮な質問が飛び交う。

『誰か好きな人はいないのか』

 恐らく女子生徒の間でも同じだったのだろうが、僕は知らない。アイカ以外の女の子には、これっぽっちも興味が湧かなかったから。同じ質問が幾度も繰り返されたが、僕はいつも同じ答えを返した。

『いないよ』

と、ただ一言。それ以上は、絶対に何も言わずに。僕は終始、奥手な少年を演じた。心の奥の、燃えるような恋心を頑なに隠しながら。これは決して楽なものではなかったが、僕はそれをやり通した。

 僕とアイカの二人だけの夏休みの一週間は、いつの時だって眩しい程に輝いていた。

 自転車に乗って見に行った、夕焼けに照らされた街並み。二人だけでした花火。山の中にある沢でびしょ濡れになるまで遊んだこと。山のてっぺん近くにある広場で寝転んだときに見た星空。屋根の上にこっそり登って星を見たこともあったか。二人で集めたラムネのビー玉を瓶に詰めたこと。それから。

 それから……


 僕の思考は、携帯のバイブで一気に現実に引き戻された。あまりにもぼーっとしていたものだから、飛び上がる程驚いてしまった。そんな自分が滑稽で、少し笑ってしまった。そうやって一人で笑っている自分がまた滑稽だった。

「もしもし」

 そう言って電話に出ると、凡そ期待した通りの声で、凡そ期待した通りのことを言われた。

『もしもし? もう、何で返事くれなかったの?』

 こんな調子だ。サヨはなかなか興奮が覚めないようで、大層はしゃぎながら話をした。

『ジュンは、アイカさんのこと覚えてた?』

 何一つ気にすることなく、サヨは無邪気に僕に尋ねる。いつもは、このサヨの無邪気さが好きで癒されるものだが、今日ばかりは少し違った。

 僕の心に、十年近くもの間忘れられることなく存在し続けたアイカ。彼女の存在は、今でも決して薄れてはいなかったのだと、僕はサヨの声を聞いて思い知らされた。その衝撃の押さえ方が分からず、僕はついサヨに強く当たってしまった。

「覚えてるよ。それが何だよ?」

 刺々しい語尾。自分で分かっていた。サヨが少なからず傷付くことも。でも、どうしようもない衝動に駆られていた。

 サヨは、僕の反応に戸惑った。長い付き合いだが、僕が怒ったりすることは滅多になかった。

 怒ることは苦手だった。体力を使うし、自分を抑えられなくなってしまう。それが、自分にとっても、他人にとっても良いことではなく、悪い方にしか転じないことを十分に分かっていたから。

『……ジュン、どうしたの? ごめん、疲れてる?』

 サヨはひどく怯えているようだった。その声を聞いて、少し自分を取り戻した。

「ごめん、ちょっと疲れてるのかも」

 更に冷静さを取り戻すために、僕はサヨに謝った。僕が愛する、サヨに。

『そっか……大丈夫?』

「平気だよ。ごめん」

 そして、いつも通りの他愛のない話をした。サヨは、僕の僕らしからぬ反応を見て、アイカの話題は避けるべきだと悟ったようだった。しかし僕には分かっていた。アイカのことを僕に話したい気持ちが、喉元でくすぶっていることが。でもサヨはそれを言い出すことが出来ないのだ。だから、僕から敢えてアイカの話題を切り出してみた。それはまるで淡い恋心を誰かに告白するかのようで、ひどく緊張した。僕は喉につまった大きな塊を吐き出すかのように、声を絞り出した。

「それで、どうしてアイカのことを?」

 サヨがはっと息を飲む音が、電話越しに確かに聞こえた。サヨは本当に嘘がつけない人だと思う。それが彼女の魅力であり、例外なく僕も、彼女のそんなところが好きだった。

 そして、彼女が僕の問いに対して感じている戸惑いを、僕は手に取るようにはっきりと認識していた。本当に分かりやすい人だ。長い時間一緒にいるから分かるようになったのか、元々分かるようなものだったのかは、もはや今となっては分からないが。

「大丈夫だって。気にしてない。言ってくれよ」

 いつまで経ってもサヨが言い出さないので、僕はそう言って彼女の喉元にある言葉を引き出そうとした。そして、サヨはようやく話し始めた。

 サヨとアイカの出会いは、本当に偶然のようだ。サヨは元来かなりの読書家で、月に五、六冊のペースで本を読む。文学、SF、恋愛、サスペンス――彼女が読むジャンルは多岐にわたり、本というものは何でも好きだと言わんばかりのものだった。そんなにも本を読むのだから、もちろん図書館には足しげく通っていた。週に一度は必ず時間を見つけては、まだ読んでいない本との出会いを求めに行っていた。僕も何度か付き合わされたことがある。サヨの家から車で十分程。市街地の外れの方に図書館はあった。サヨとアイカの出会いは、その図書館でのことだったのだ。

 アイカは、その図書館で司書として働いていたらしい。それを聞いて、僕は驚いた。僕も行ったことはあるのに、全く気付かなかった。まぁ本を借りることはなかったし、司書の人にお世話になることもないのだから気付かなかったのも頷けるはずだ。

 サヨが本を借りようとカウンターに行ったときだった。対応をしたのは、アイカ。サヨが余りにも常連だから、もう顔見知りだっただろう。アイカがその時に限って、サヨに話しかけてきたらしい。

 用件は、写真を預かっているとのことだった。恥ずかしいことにサヨは、僕と何気なく撮ったツーショット写真を栞にしていたんだという。それが本に挟まれたまま返却されており、顔見知りのアイカが預かったという経緯らしい。

 本来ならそれだけだった。けれど、それだけではない。アイカはサヨの隣にいる僕に気付いたのだ。僕の姿を写真に見たアイカは、その隣に映っている、目の前のサヨに話しかけずにはいられなかったらしい。

 

 僕がアイカに最後に会ったのは、中学一年の夏だった。アイカは中学三年で、受験を控えていた時だ。それ以降は会っていない。細々と文通をして、写真を送りあったりはしたが、そのやり取りも僕が中学を卒業する頃には、いつの間にかなくなってしまっていた。

 もう十年近く前から、二人の成長はお互いの中で止まったままなのだ。大人になったアイカなんて、想像出来ない。僕の中のアイカは、ずっと大人と子供の間をさ迷ったままなのに。

 やたらと鼓動が速くなって、苦しかった。

 アイカが僕を覚えていた。それだけで僕は幸せに思えた。ずっと抑えていた恋心が、僕のなかで動き始めた瞬間だった。

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