第十一章
暗闇の中。視覚の遮られた空間の中、身体中で、全ての器官でアイカを感じ取る。アイカの吐息が聞こえる。アイカのぬくもりを感じる。アイカの柔らかい香りがする。
どれだけ望んでも、届かないものだと思っていた。ずっと、頭の中でしか、彼女に触れることは許されなかった。アイカに触れられたら、どんなに幸せだろうか。ずっと、そんな風に思い続けていた。
今、アイカが僕の腕の中にいる。僕は、アイカを抱いている。アイカも、僕と同じように、僕の一挙一動を全身で感じ取っている。それが、こんなにも嬉しいことなのか。
喜びが溢れ出そうとするのを抑えられない。
アイカが僕の名前を呼ぶ。背中に爪が食い込みそうなほど、アイカが力を込める。鈍い痛みを感じるが、そんなことはもはや気にならない。その痛みさえも、愛しく思えた。
全身に電流が走るような感覚。何もかもが溢れ出すような。
身体中の力が抜ける。アイカを抱き締めて、甘い余韻に浸る。アイカの荒い呼吸が徐々に落ち着いていく。息をする度に上下する背中に、手の平をあてる。はぁ、と、アイカが深くため息をついた。腕の中に納まっているアイカを見る。
「ありがとう、ジュンちゃん。今すごく……幸せ」
「うん、俺の方こそありがとう。俺も……幸せだよ」
そう言って、強くアイカを抱き締めた。アイカのぬくもりが与えてくれる安らぎを、全身で素直に受け止める。
本当に、離れたくない。離したくない。出来ることなら、本当に自分のものにしてしまいたいと思った。そうすることが出来ないのが悔しくて、思わず下唇を噛んだ。少しでもこの時間が長く続くように祈った。少しでも長く、アイカとの幸せな時間を味わっていたい。
一気に眠気が襲ってきたが、眠ることさえもったいないように思えた。そう言えば、昨日眠れなかったのを今更思い出した。
幸せを噛み締めるために、何度もアイカを強く抱き締めた。しつこいくらいに何度も抱き締めたが、アイカはそれに応え続けてくれた。なんて幸せなんだろうか。
「俺、アイカに会えて良かった」
アイカを抱きしめながら、そう呟いた。
ずっと、アイカのことを考えて生きてきた。初めて好きになった女の子。夏の似合う、可愛い僕だけの女の子。僕は彼女に夢中になって、彼女の行動や言葉に、何度も一喜一憂した。本当に、アイカのことしか考えてなかった、馬鹿な少年だったと、自分で思い返してみて思う。
でも、彼女のおかげで、僕はたくさんの喜びを味わうことが出来た。アイカとの日々は、本当に、何者にも変えられない、かけがえのないものだ。
そして、今。今までのアイカへの思いが、全て報われたように思う。この一時を味わうことが出来て、本当に良かった。一度きりでも、僕は本当に幸せに思える。
突然、アイカが何か思い出したかのように、短く声をあげた。急に大きな声を出したものだから、さすがに少し驚いて、一体どうしたのかを尋ねた。
「ジュンちゃんに見せたいものがあるの」
そう言うと彼女は、ベッドから起き出し、服を着始めた。急にアイカが離れたものだから、ぬくもりがなくなったことを寂しく思った。
それにしても、見せたいものとは? 一体何なのか、見当もつかない。
アイカは自分の鞄の中から、小さな缶を取り出した。
「見せたいものってそれ?」
「違うわ。この中よ」
アイカは僕に缶を手渡し、それを開けるように促した。僕に手渡された缶は、直径が3センチくらいの、赤い缶だった。少し古いように見える。この中に、一体何が入っているのだろうか。僕は、力を入れて、缶を開けた。
中に入っていたのは、小さな指輪だった。けれど、そんな立派な指輪ではなく、子供用のおもちゃのようなちっぽけな指輪だった。けれど、何となく何処かで見たような覚えがあった。
「その指輪、覚えてない? それ、ジュンちゃんが私にくれたのよ」
「え?」
そう言われて、思い出した。この指輪は、僕が小さい頃にアイカにあげたものだ。まだ、アイカへの気持ちが恋と気付かないくらいに小さかった頃だったはずだ。さすがに記憶が曖昧だ。
「あぁ、何となく見覚えがあるのはだからか」
「ジュンちゃんはさすがに覚えてないかもね。まだ確か小学校2年生とかだったもの。私は覚えてるわよ」
アイカはベッドに座って、その指輪にまつわる話を教えてくれた。
2人で夏祭りに出かけた時だった。縁日の景品として、僕がその指輪を手に入れたのだ。それをアイカに手渡して、僕はこう言ったのだという。
「アイカ、これあげるよ。けっこんゆびわだから、大切にしてね。失くしたらだめだからね」
その話を聞いて、僕は思わず赤面した。小さい時の話ではあるが、自分がそんなことを言ったのかと思うと、恥ずかしくて仕方ない。
「な、何でそんなこと覚えてるんだよ」
照れ隠しに思わずそう言った。
「だって、すごく嬉しかったんだもの」
柔らかな笑顔を浮かべ、アイカは懐かしそうに指輪を見ていた。
「本当の結婚指輪は、もらえなかったけどね」
そう言ってアイカは僕の方を見て、微笑んだ。何だか申し訳ない気分になる。
「私、いつもこの指輪を見てジュンちゃんのこと思い出してたのよ。ずっと、ジュンちゃんに会いたくて……」
アイカはまた少し俯いてしまった。
「でも、また会えて良かったわ。サヨさんに偶然会えたのが、奇跡としか思えないもの。本当に、サヨさんには、何て言えばいいのか……感謝してもしきれないわ」
本当にその通りだ。サヨとアイカが偶然出会うことが無ければ、当然、僕とアイカも出会わないままだった。けれど、サヨは僕とアイカは友人関係であると思い込んでいるのだ。それなのに、今こんな状況であることを考えると、胸が痛んで仕方ない。
「本当にありがとう、ジュンちゃん。私、ちゃんとアキラと幸せになるから……ジュンちゃんも、サヨさんと絶対幸せになってね」
アイカは精一杯の微笑みで、そう言った。その言葉が、やけに胸に響いた。目の前にいるアイカの姿が、徐々に滲んでいく。
「ジュンちゃん……」
アイカが、悲しそうな瞳で僕を見つめていた。僕の頬に、何かが伝っていくのを感じた。知らず知らずのうちに、僕は泣いていたのだ。泣いていることに自分自身で気付いた途端、涙が止まらなくなってしまった。
子供に戻ってしまったかのように、泣いている僕を、アイカは優しく抱きしめてくれた。そのぬくもりが余りにも優しすぎて、涙が更に溢れ出してくる。ついには、声まで上げて泣いた。アイカに抱かれながら。アイカも、静かに涙を流しているようだった。
僕はアイカにしがみつきながら、子供のように泣き続けた。子供をあやす母親のようなアイカの優しさに身を委ねて。
「アイカ、愛してるよ」
僕は泣きながら、精一杯の思いを込めてそう言った。
「私も、ジュンちゃんのこと愛してるわ。本当に大好きよ」
アイカを抱きしめる。腕の中に閉じ込めて、この一時だけでも自分のものにしてしまうために。
気が付くと、外が明るくなっていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
腕の中で、アイカが眠っている。本当に抱きしめたままで眠ってしまったようだ。アイカの安らかな寝顔を見ているだけで、とても満たされた気持ちになる。
しかし、もう朝になってしまった。もうすぐ、アイカと別れなければならない。そう思うと切なくて、思わずアイカを抱きしめた。アイカが僕の腕の中で、もぞもぞと動いた。どうやら起こしてしまったようだ。アイカが眠そうな声を出す。
「ん……あれ、朝……?」
彼女も僕と同じように、自分が眠ってしまっていたことに気付かなかったようだ。
「うん、朝だよ。おはよう」
優しくそうアイカに告げた。アイカも、僕に応えて僕の腕の中でおはよう、と言った。何だか温かくて、幸せな気分になる。
ベッドから起き上がって、2人分のコーヒーを入れる。アイカは、まだベッドの上でうずくまっているようだ。
ベッドの脇にあるテーブルの上に、マグカップを置くとコーヒーの香ばしい香りに誘われたかのように、アイカが布団の中から顔を出した。
「いい香り」
「コーヒー淹れたよ。ブラックでもいい?」
「ええ、ありがとう」
そう言うと、アイカはようやくベッドから出てきた。白いブラウスの裾から、太股が露になっている。なんて扇情的なんだろう。余りにも美しいためか、僕の本能もそこまで反応することはない。
コーヒーを飲むアイカの横顔を眺めながら、僕は言った。
「朝ごはん、どうする? 俺の家、今ろくなものがないんだけど……」
「じゃあ、何処かに食べに行くのもいいんじゃない? 喫茶店とかでモーニングにしましょう。私は、その足で家に帰ることにするわ」
家に帰るというアイカの言葉を聞いて、本当にもう別れが近付いていることを実感する。せっかく再会を果たしたのに、もう会えなくなってしまうのかと思うと、切なくなってしまう。胸が苦しくなる。
「分かった。俺の行きつけのいい感じの喫茶店が近くにあるんだよ。そこでいいかな」
アイカは微笑みながら頷いてくれた。
コーヒーを飲み終えると、のんびりと家を出る支度をした。順番にシャワーを浴びて、髪を乾かして、服を着替えて、ベランダで煙草を一本吸って。それからようやく、2人で家を出た。
喫茶店までの道を、手を繋ぎながら歩いた。まるで、高校生や大学生のカップルのように。少し気恥ずかしい感じがあったが、もうすぐ別れなければならない僕らは、少しでも長く触れ合っていることを、お互いに望んでいた。繋いだ手で、僕らは何もかも伝え合えるような気がした。
朝の空気が心地いい。何故か、何かから解き放たれたような、爽やかな気持ちに包まれていた。アイカが離れてしまうのは確かに悲しいが、それ以上に、何かから救われたような喜びでいっぱいだった。
喫茶店に着き、それぞれが注文を済ませたところで、僕は煙草を取り出した。
「よくここに来るの?」
煙草をふかしながらボーっとしていた僕に、アイカが尋ねた。
「そうだな。週に1、2回は必ず来てるかな。この柔らかい雰囲気が好きなんだよな。思わず眠くなりそうな」
僕は本当にこの喫茶店の常連だ。マスターとも、顔見知りになり、お客が少ない時には話をしたりするほど、仲良くなった。温かい木目の家具で統一され、観葉植物の緑が目と心を癒してくれる。コーヒーの香りと、ほのかな木の匂い。おそらく、田舎育ちの僕にとって、木の匂いというのは故郷の匂いなんだろう。だから、こんなにも落ち着くのだろう。そんなことを考えながら、更に頭を空にしていく。ここに来ると、何もかも忘れてしまう。心地よすぎて、色々と考えることさえも億劫になるのだ。
その時、アイカが小さく笑った。何事かと、僕はアイカを見る。
「ジュンちゃん、ここがよっぽど好きなのね。本当にリラックスしちゃって」
しまった。今は頭を空にしている場合ではなかった。アイカに、今の呆けた様子を全て見られていたのかと思うと、今更ながら恥ずかしくなった。
マスターが、コーヒーを運んできてくれた。僕が微笑みかけると、マスターは僕にようやく気付いたようだった。
「あぁ、来てたのか。気付かなかったよ」
愛想のいい笑顔を見せ、僕らの元から離れていった。そのすぐ後に、頼んだ料理もテーブルにやってきた。ホットサンドが二つ。おいしそうないい匂いが、僕らを包んだ。
「さぁ、いただこう」
僕の声を合図に、僕らはホットサンドにかぶりついた。
僕はホットサンドを食べる、アイカの愛らしい様子に見入っていた。もうすぐ、彼女の姿を見れなくなるのか。
二日前、恋人のサヨの口から、アイカのことを聞かされたときには、本当に信じられなかった。アイカが僕のことを覚えてることも、もしかしたらないんじゃないかと思っていたから。アイカが、僕のことを覚えてくれているということだけで、僕は本当に嬉しかった。
そして、今から約二四時間前に、僕らは十年の時を超えて再会した。大人になった彼女の姿を見て、僕は馬鹿みたいに感動してしまった。余りにも美しく輝いていたものだから。
彼女のことばかりを考えて一日を過ごし、夜を迎え、大人になった僕らは、お酒を飲みながら思い出を語り合った。今までずっと長い間、記憶の中に閉じ込めていた思い出。アイカと僕だけの共通点を、再確認した。アイカが僕との思い出を覚えてくれていることが、いちいち嬉しかった。
そして、僕らは本当の気持ちをようやく伝え合った。十年以上、隠してきた気持ちが、お互いにようやく通じ合った。これは夢なんじゃないかと、何度も思った。本当に嬉しくて、信じられなかった。
けれど、僕らの再会は遅すぎた。互いに、一生を共に歩もうと決めた人がいたのだ。愛する人のため、僕らは、一緒にいることを諦めた。その痛みは、計り知れないものだった。長い間抑えつけて、隠してきた気持ちを、僕らはさらけ出しあった。大人になったからこそ出来る方法で。愛しているの気持ちを、目一杯伝えるために、僕らは何度も抱き合った。
そして朝を迎え、愛する彼女は、もうすぐ僕の目の前から立ち去ろうとしている。
あっという間に、お皿の上に置かれていたホットサンドはなくなった。マスターに、コーヒーのおかわりを頼む。
アイカが、僕のことを見つめている。
「何? 何か付いてる?」
「ううん、そんなのじゃないわ」
そう言ってから、彼女はまた少し黙り込んだ。きっと、僕と同じだ。もうすぐ来る別れの前に、今目の前にいる人の姿を、しっかりと目に焼き付けておこう。そう思っているのだろう。
「また、会えるかしら?」
「さあね……どうだろう」
また、会えるのだろうか。確かに会いたいが、きっと、お互いの姿を見るたびに苦しくなるに違いない。それを考えると、会うのは良くないんじゃないかとも思う。
「でも、きっと何か縁があって、俺たちが本当に離れられない存在なら、会わないようにしていても、何処かで会っちゃうように出来てるんじゃない?」
いわゆる、運命というやつだ。運命なんて言葉は、とても恥ずかしくて口には出せない。
いたずらで、残酷で、そして時々、奇跡を起こす、運命。僕らはいつも、運命に振舞わされていたように思う。運命というのが本当にあって、生まれた時にすでに決まっているものならば、僕らがこれからどうなるのかも、とっくの前に決まっているのだろう。今更あがいたところで、どうしようもない気がする。僕らのこれからの運命が、幸福で満ち溢れたものであればいいと、僕は静かに祈った。
「そうね。ジュンちゃんが私の運命の人だったら、また会える。そういうことよね?」
「いい年して恥ずかしいこと言わない」
僕らは、声を出して笑う。しかし、笑っていても、何をしていても、今の僕らの背後には悲しみが潜んでいるように見えた。別れが、辛い。
コーヒーを飲み干して、僕らは喫茶店をあとにした。爽やかな朝は、一体何処に行ってしまったんだろうか。今は、空気が重くて仕方ない。僕の目からいつ涙が零れたとしても、おかしくはない。そう思った。
一歩進む毎に、駅に近付いていく。アイカとの別れが、近付く。
何か話さないと。そう思っても、楽しく話す気になどなれなかった。そんなこと、出来るはずもない。沈黙のまま、僕らは駅前に辿り着いた。駅が見えた瞬間、本当の別れが見えたような気がして、急に悲しくなった。胸が苦しくて、息が出来ない。涙が出そうになる。足が重くて、なかなか前に進めない。
もう、離れないといけない。僕の愛するアイカは、僕以外の人のところで幸せになるんだ。僕がいちゃ、いけないんだ。頭では分かっていても、やはり感情はついてこようとさえしない。どうにもならないことは分かっているのに。
改札の前、券売機で切符を買ったところで、僕の感情の波は限界に達した。涙が、溢れてしまった。休日の朝で、人通りが少なくてよかった。大の大人が、こんなところで泣くなんて、みっともないにも程がある。
アイカの温かい手の平が、涙で濡れた僕の頬に触れた。その瞬間、アイカを力一杯抱きしめた。あぁ、みっともない。でも、今はなりふりなど構ってはいられない。僕は、アイカを抱きしめながら、彼女のことを何度もくり返し呼んだ。今、僕がアイカを抱きしめてるということを、確かめたくて。
「ジュンちゃん、泣かないで。大丈夫だから。きっと、また何処かで会えるわよ、私たち」
アイカが、震えた声で言った。それでも、僕の涙は止まるどころか、ますます溢れ出してきていた。
「ねえ、ジュンちゃん。私、絶対に幸せになるから。誰よりも幸せになってみせるわ。ジュンちゃんのおかげで、私はきっと幸せになれる」
アイカのおかげで、何とか気持ちが落ち着いてきた。アイカを、腕の中から離す。
「ありがとう。……俺も幸せになるよ。絶対サヨのこと、幸せにする」
「うん。本当にありがとう」
アイカの瞳からも、涙が溢れた。その姿が目に飛び込んできた瞬間、僕はアイカを抱き寄せて、キスをした。本当に、これが最後のキスだ。
「愛してる」
アイカが僕に抱かれながら、小さく呟いた。アイカの全てを全身に刻み込む。目を瞑って、この全てを一生忘れないように、自分自身に祈った。
「俺も、愛してるよ」
アイカが改札を抜けて、ホームに消えていった。まるでドラマのように、僕はその姿が見えなくなるまで、その背中を見送った。おそらく、僕が死ぬまでこのシーンは忘れられないだろう。僕は、ゆっくりと歩き出した。