第十章
「ねぇ、アイカ」
覚悟を決めて、彼女の名前を呼んだ。今言わなければならないこと、伝えなければならないことが、たくさんあるんだ。
アイカが僕を見る。力のない笑顔を浮かべながら、彼女は返事をした。その瞳には、悲しみと不安が滲んでいる。また泣き出してしまったら、どうしよう。僕の理性は、我慢のし過ぎでかなり参っている状態だ。今涙を見せられたら、おそらくひとたまりもない。
「アイカの結婚する人は、どんな人?」
アイカは、少し驚いたような顔をしたかと思うとすぐに黙り込んだ。彼女が膝の上で、キュッと手の平を握ったのが見えた。また、泣き出してしまうかと思ったが、僕の心配は杞憂に終わった。もう涙は見せない。そう決意したような、強い瞳。眩しい、笑顔。そして彼女は、様々なことを教えてくれた。
結婚するという人は、アキラという名前で、高校のときに一度付き合ったことがあったらしい。しかし二人は大学受験を優先して別れ、それから大学を卒業するまでは一切関わりが無かったという。再会したのは、三年前の同窓会。久しぶりに会ったということもあり、色々な話をするうちに、再び意気投合し、その時に彼の方からもう一度付き合わないかと言われたらしい。それから、今に至ると。
僕はふと思い立って、なるほどねぇと、意味深に呟いてみせた。
「な、何?」
思ったとおり、アイカは僕の含みのある笑顔に突っかかってきた。
「いや、手紙が来なくなったのはそのせいだったのかって思ってさ」
ほんの一瞬、空気が固まった。僕自身、いざ言葉を発した時に初めて、その言葉の重さを知った。
僕とアイカの連絡が一切途絶えてしまったのは、僕が中学三年の冬だった。僕らはずっと、会えないときには文通をして、お互いの様子を知り合っていた。アイカも僕も筆まめな方だったので、手紙の数は何通にも上った。写真などが同封されていることも、よくあった。僕においては、手紙が届いてから三日以内には、必ず返事をポストに投函していたぐらいだ。
僕はアイカと過ごした最後の夏のことが、ずっと忘れられなかった。後悔が止むことを知らずに、僕の胸の中で渦巻いていた。
「私、もうジュンちゃんに手紙とかもあんまり送れないから」
そう言われたときの衝撃が、あまりにも強すぎて。
受験勉強だから仕方ない、というのは十分に分かっていた。けれど、僕の中の余りにも大きい恋心が、そんな理由で納得することは難しかったのだ。アイカがそんなことを言い出すのを、信じたくなかった。
どうしてそんなことを言うのか。僕が何かアイカに嫌なことをしてしまったからだろうか。僕は、何か取り消しようのないミスを犯してしまっていたのか。だとしたら、それは何だろう。僕はいつも、アイカを喜ばせることだけ考えてきたのに。そんな考えばかりが、頭の中に満ちていた。
僕は、アイカと連絡が途絶えてしまうのが、どうしても嫌だったのだ。僕の存在など、簡単にアイカの中から消えてしまうものだと思っていたから。もうジュンちゃんとは一生会わない。決してそう言われたわけではなかったが、アイカに言われた言葉は、僕にとってはそれとほぼ同義だった。だからこそ、そう言われたとき僕は思わずアイカにきつく当たってしまった。
ずっと落ち込んでいたが、謝らないといけないと思った。そうじゃないと、本当にもう二度とアイカに会えない。そう思うと、いてもたってもいられなくて、すぐにアイカに手紙を書いた。
手紙を投函した次の日から、僕はずっとアイカからの返事を待ち続けた。毎日、自宅の郵便受けを確認して、郵便配達のバイクの音が聞こえたら、すぐにポストを確認しに行った。
何ヶ月経っても、返事が来ない。僕はもう、諦めかけていた。そんな冬のある日だった。可愛らしい封筒が僕に届いた。見慣れたアイカの字が書かれている。
手紙が届いて、僕は嬉しくて飛び上がりそうだった。しかしその直後には、全く反対の気持ちが僕を支配していた。
本当にもう会わないって言われたら……。
そう思うと、封を切ろうとする手が震えて、とてもじゃないが開けられない。開けられたとしても、最後まで読みきる自信がない。僕はなかなか決心がつかずに、手紙が届いてから二日後にようやく、手紙を読むことが出来た。昔からずっと優柔不断なところは変わっていない。
封筒と同様で、女の子らしい便箋にたくさんの文字が詰め込まれていた。久しぶりのアイカからの手紙で、何だか恥ずかしくもあった。
もうすぐ試験で、毎日頑張って勉強していること。卒業式も近付いているから、寂しい。そんな当たり障りのない内容の短い手紙だったが、その中で最後の一行だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
「これから先もジュンちゃんに会いたい。私もそう思ってるから」
たったそれだけの言葉でアイカは、僕を全ての苦しみから救ってくれた。大袈裟かもしれないが、当時の僕にはそれぐらいに思えたのだ。
けれどそのあとから、アイカからの手紙はあまり来なくなっていった。アイカは高校に入って、忙しくなったんだろうと思い、さすがに仕方ないだろうと、僕も思うようになっていったのだ。手紙が来ると嬉しくはあったが、それと同時に申し訳なく思ってしまうのだった。
僕が中三になり、アイカは高校二年になる年。僕も高校受験に苦しめられていた。しかし、僕の方はそれでも手紙を送るようにはしていた。以前ほど、まめではなくなったが、それでも必ず返事をしていた。アイカを思ってのことではあるが、それ以上に、僕が返事をしないではいられなかったのだ。我慢できなかった、というのが的確な表現だと思う。
ある時ふと思い出すと、アイカからの返事がないことに気が付いた。それに気付いたのは確か、受験を間近に控えたときだった。毎日アイカのことを思ってはいたが、手紙が来ないことを気にすることは、いつの間にかなくなっていた。
そのまま月日が流れ、僕は大人になっていった。アイカへの叶わぬ思いを胸にしまい込んだままで。
返事が来なくなった理由が、アイカの言葉を聞いてようやく分かった。
「アイカがその彼氏と付き合いだしたのって、高二じゃないの?」
そういうとアイカは、図星だというような表情を浮かべて、悔しそうに唸った。その様子を見て、思わず笑ってしまった。アイカが余りにも可愛らしくて。大人の女性、しかも自分よりも年上の女性に対して可愛らしいと言うのは、少しおかしいだろうか。僕はすねたようにそっぽを向いているアイカに謝った。するとアイカは、何も言わずにゆっくりと立ち上がった。どうしたのかと思うと、こっちを向いて、一歩ずつ、僕に近付いてきた。
まずい。それ以上はまずい。僕の理性の臨界点だ。けれど、拒否も出来ない。彼女の歩みを止められない。冷静なふりをして、ゆっくりと近付いてくるアイカに声をかけてみた。
「どうした?」
アイカは、何も言わずに僕の瞳をじっと見つめた。僕の視線は、その黒い瞳に吸い込まれる。その感覚が心地よすぎて、抜け出せなくなりそうな、そんな恐怖を感じて、思わず後ずさる。アイカは黙って、ベッドに腰かける僕の隣に座った。
「私だって、本当はジュンちゃんと一緒にいたかったんだよ?」
あぁ。そんなことを言わないでほしかった。しかも、こんなところで。こんなに近くで。全身が、一気に熱くなるのを感じた。頭の芯まで、その熱さに委ねてしまいたかった。けれど、アイカのことを思うと、僕にはそんなことは出来なかった。潤んだ瞳で、アイカが僕を見つめる。
「これからもジュンちゃんと一緒にいたいの」
アイカはそう言って、僕の手をそっと握った。柔らかいその手には、熱がこもっている。そして、アイカの思いも。
あの手紙と同じフレーズ。けれどあの時のものとは明らかに重みが違う。この言葉には、アイカの一生がかかっていると考えた方がいいだろう。受け止めるには、かなりの覚悟が必要だ。しかし、そんなことはお構いなしだと言わんばかりに、僕の本能が今にも暴れだそうとしている。そして、アイカが何か言葉を漏らした。しかし、余りにも小さ過ぎて、聞き取ることが出来ず、何と言ったのかを聞き直そうとしたときだった。
「ずっと、好きだったの」
涙を目一杯に溜めながら、アイカは、今度ははっきりとそう言った。余りにも真っ直ぐな言葉が、僕の耳に届いた。身体中が痺れるような感じだ。本当におかしくなってしまう。僕も彼女も、もう何もかもが一杯一杯だ。僕の方は、紙一重で何とか理性を保っている。アイカは、握っていた僕の手をそっと離して、流れるようにその手を上に伸ばして。僕の腕を両手で掴んだ。
もう、限界だ。しかし、言わなくては。アイカを後悔させたくはない。今ここで言わなければ、全てが手遅れになってしまう。そんな気がした。声を絞り出そうとしても、誰かに首を絞められているのかと錯覚するぐらい、喉が締め付けられていて、なかなか声が出せない。息を吸い込み、何とか言葉を出した。
「アイカ」
僕の強い口調に、アイカがまた少し不安そうな表情を浮かべた。しかし、もう言わないといけないんだ。
アイカの手を、ゆっくりと腕から引き離す。その手を、強く握り締めた。
「アイカ。俺は……俺は、アイカとは一緒にいられない」
何とか、そう言うことが出来た。しかし、アイカの目を見ることが出来ない。僕自身も、泣いてしまいそうだったから。僕は、握り締めた手を額に寄せた。祈るようにして、瞳を閉じて言った。
「俺だって、本当は出来ることならずっとアイカと一緒にいたい。だけど、俺にはサヨがいる。サヨのことも、本当に愛してて、彼女は俺にとって必要な存在だって思う。だからこそ、俺は彼女を幸せにしたいんだ」
目を瞑っているので、アイカがどんな表情をしているのかは分からない。アイカの吐息が、かすかに聞こえる。今アイカの表情を見れば、僕は何も言えなくなるに違いない。僕の弱い心が、アイカの悲しみを目の当たりにして、耐えられるはずがないと思う。僕は目を瞑ったまま、続けた。
「アイカには幸せになってもらいたいんだよ。それが俺の一番の願いなんだ。でも、アイカにはアキラさんがいるだろう? 彼に幸せにはなって欲しくないの?」
アイカの反応を見るため、僕は目を開けて彼女を見た。
「そんなことないわ。アキラには……幸せになってほしい」
アイカは悲しげな、それでいて困惑しているような表情で、僕の問いにすぐに答えてみせた。それを聞いて安心した。
「でも、アイカがもし俺といることになったら、アキラさんは幸せになれない。それに、アイカ自身も、アキラさんを裏切った重みを、一生背負って生きないといかなくなる。俺だってそれを望まない。分かってくれるよな?」
アイカが黙って頷いた。
「アイカを本当に幸せに出来るのは、俺じゃないんだよ。アキラさんなんだ。だから俺は……アイカとは一緒にいられない」
しばらくの間、再び沈黙が僕らを包んだ。
「ごめんなさい……」
そう呟いたアイカの目から、涙が零れた。アイカは泣きながら、何度も何度も僕に謝った。謝らないといけないのは、むしろ僕のほうかもしれないのに。自分の保身のために、アイカの望みを叶えることを拒否した。アイカを愛していると言いながらも、僕は彼女を突き放した。矛盾はしているかもしれないが、それが僕なりの愛情だと思い、自分自身を無理やり納得させる。
アイカはずっと、泣き続けている。涙は止まらない。
僕は駄目だ。アイカを傷付けてばかりだ。僕には何も出来ないのか。今僕のすぐ隣で涙を流している彼女に、僕は何をしてあげられるだろうか。
気が付くと、僕はアイカを抱き締めていた。身体が勝手に動いた、そんな風に思う。柔らかくて小さな身体が、僕の腕の中に収まっている。アイカの長い髪から、甘い香りが漂ってくる。悲しくも、至福のときであることは間違いない。背中に、アイカの手が回った。僕は腕に力を込めて、アイカをさらに引き寄せた。アイカも、それに応えるようにして、僕の手に回した手に力を入れた。
「ジュンちゃん……」
アイカが、僕の胸に顔を埋めながら、涙声で呟いた。僕もそれに応える。僕らは、抑えていた気持ちを出し切るかのように、強く抱きしめあった。
「お願い……一度だけでいいの。もう、最初で最後でいいから……」
アイカが、震える声で言った。彼女が何を求めているのかが、即座に分かった。どんなに鈍感な男でも、さすがに分かるはずだ。
僕だってアイカを抱きたい思いは、もちろんある。けれど、アイカが本当に後悔しないかということだけが気がかりだった。
「後悔、しない?」
僕がそう尋ねると、アイカは頷いてみせた。
「後悔なんてしないわ。約束する」
彼女は泣いてはいたが、強さを秘めた声で、そう言った。これでもう、立ち止まる必要はなくなった。後は、ずっと夢見続けていた喜びに、身を委ねるだけだ。目一杯、この喜びを満喫しよう。僕がこれからしようとしていることは、もしかすると間違っているのかもしれない。結局は、誰かを傷付けてしまうことになるのかもしれない。だけど、アイカが望むのなら、僕はそれに従う。アイカが、幸せになるのなら―――