第九章
僕らは会計を済ませて、店を出た。お金はもちろん、全て僕が支払った。二人とも割りと飲んでいたが、様々なことを考慮すると、何だか安いように思えた。
店を出た時に時計を見ると、時刻は十一時を優に過ぎていた。あれだけ話し込んでいたのだから、当然だろう。しかし、もっと時間が経っていてもおかしくない気がした。そのくらい、僕らは濃密な時間を過ごしていた。
僕らは、とりあえず駅まで歩いていった。どちらからというわけでもなく、手を繋ぎながら。駅前は終電間際ということもあり、慌ただしかった。こんな時間までここにいるのは久しぶりだ。
さて、問題はこれからだ。当然と言うべきか、まだまだ話し足りない。何よりも、彼女のいる空気をもっともっと味わいたい。どうするべきか、その答えに対するヒントを得るために、隣にいるアイカを見た。アイカは視線を少し落として、何処かもの悲しい表情を浮かべていた。彼女は何を思っているのだろう。出来るなら、アイカが言葉に出せない期待を、自力で導き出したい。アイカの本当の思いを、僕が叶えてあげたい。
良かったら、俺の家に来る?
そんな問いが頭に浮かんでは消えた。家の掃除、ちゃんとしてたっけ。何か見られたらまずいものを放り出してなかったっけ。そんな下らない、幼い考えが、僕の言葉を遮っていた。情けない。
腹をくくろう。覚悟はいいか、俺。深呼吸をして、心を落ち着かせよう。
「ジュンちゃんの家って、この近くなの?」
アイカが言った。心を落ち着かせようと必死だった時に言われたものだから、驚いたのは言うまでもない。
「近く……ではあるかな。ここから四駅先だよ」
動揺を隠しながら、僕は答えた。するとアイカは、ゆっくりと僕の方を見た。僕の目の奥にある心を見透かしてしまうのではないかと思うほどしっかりと、僕の目を見つめながら言った。
「私、ジュンちゃんの家に行きたい」
耳を疑ってしまいそうな言葉だった。アイカから言ってくるなんて。というか、それは僕が言いたかった。先を越されたような気がして、少し悔しかった。
アイカが僕の家に。本当にそうなると思っていなかったものだから、いざアイカ自身の口から言われると、そんな夢のようなことが急に現実味を帯びて、恥ずかしくなってしまった。情けない。
本当に初恋が戻ってきたんだ。僕の心は、少年のように高鳴った。僕は少年時代にこんなことを経験していなかったので、心だけがタイムスリップしたように感じた。むしろ、本当に何もかもタイムスリップしてしまえば、僕はどんなに幸せに思うことだろう。
けれど、やはり僕はもう大人だ。真っ直ぐ突き進む若さはない。冷静な考えもしっかり備わっている。少し残念なようにも思うが。少し間を置いてから、僕はアイカを諭すように言った。
「俺は別にいいけど……本当にいいの? 二人きりになったら、俺……」
そこまで言って、僕は続きを言うのを躊躇った。二人きりになったら、きっと僕はアイカを抱いてしまう。そんな野蛮な現実を、アイカに突き付けていいのか、迷った。
「構わないわ」
アイカが強く言った。凛としていて、僕なんかよりよっぽど覚悟を固めているように見える。彼女は強い女性に成長したんだ。僕も覚悟を決めなければ。
「分かった。じゃあ行こう」
僕は、アイカの手を牽いて駅に向かった。
駅で切符を買う前に、もう一度アイカの意思を確認した。後悔はして欲しくない。アイカには何がなんでも、幸せになって欲しい。彼女を幸せにするのが、僕じゃない、他の誰かであっても。
「本当にいいの? ここで切符を買えば、もう引き返せない、そう思って欲しい。気の迷いで僕と過ごしたことで、アイカが一生後悔することになるのは嫌だ。アイカが間違った選択をして、幸せになれないようなことになるのも嫌だ。分かってくれるよね?」
僕の言葉を聞いたアイカの瞳が、ほんの一瞬だけ曇ったのを、僕は見逃さなかった。全く迷いがない、ということは当然ながらないようだ。
そうだ。迷ってくれ。そしてここで引き返してくれ。そうすれば、僕らは幼なじみとして、一生良い友人でいられるはずなんだから。
アイカの瞳に、再び強さが宿った。
「いいの。私、今ここで帰ったらきっと、もっと後悔することになると思う。ジュンちゃんに…私の思いをもっと知っておいてもらうには、まだまだ足りないもの。それに……」
アイカが不意に黙ってしまった。思わず、少し俯いた彼女の顔を覗き込んだ。僕の気配に気付いてか、アイカは再び口を開いた。
「もう、こうして会うことは出来なくなるもの。だから……」
また、アイカの目に涙が溜まる。アイカは泣き上戸のようだ。
僕は彼女をあやすように、軽く頭を撫でてみせた。
「分かった。じゃあ、俺の家でゆっくりしよう。それから、またたくさん話そう」
僕がそう言うと、アイカは溢れそうな涙を拭いながら、さっきと同じように黙って頷いた。この仕草がたまらない。
アイカの分の切符を買って、僕らは地下鉄に乗った。電車に乗っている間、僕らは無言だった。ただ、繋いだ手を通して互いの存在を、互いの想いを確かめ合っていた。
最寄り駅に着き、家に向かう途中にあるコンビニに寄った。そこでようやく、相棒のセブンスターに再会した。こいつがいてくれれば、僕はもっと冷静でいられたかもしれない。そんなことを考えた。
夜の静かな道を歩いて、アパートの前に辿り着いた。
「ここ? 新しくて綺麗なアパートね」
アイカがアパートの前で少し立ち止まって言った。そう言えば、ここに住むようになってから、サヨ以外の女性を部屋に入れるのは初めてのことだ。サヨを初めて家に連れてきたときよりも緊張したのは、言うまでもない。
ドアを開けると、いつも通りの部屋の暗闇が僕を迎えた。いつもと違うのは、僕の心と、連れている女性。部屋に口があったら、「誰だよ、そいつ」とか、そんなことを口走るに違いない。
「お邪魔します」
アイカが、僕の部屋に挨拶する。口なんてないのだから、心配することはないが、何となくほっとした。これで僕の部屋がご機嫌を直してくれますように。
玄関から部屋に繋がるドアを開けたとき、僕は落胆した。思わず頭を抱えて、深いため息を吐いた。
「ごめん」
謝らずにはいられない。女性を、しかもずっと恋していた相手であるアイカを迎え入れるには、ふさわしくないものだ。
朝脱いだ服はそのままだし、職場の書類はあちこちに散らかったまま、パソコンデスクの横には、昨日の夜食べたカップ麺の器が置いてある。一言で言うと、汚い。今日に限って。
ずっと何処か不安そうにしていたアイカが、僕の背後でふっと笑った。
「いいわよ。男の人だったら、むしろ綺麗な方なんじゃない?」
有難いお言葉だ。いつもの綺麗な僕の部屋の状態を、アイカは知ってくれているのだろうか。こんな状態になっているのは、本当に稀なことなのだ。いつもは綺麗だ。誰が何と言おうと、僕はそう言い張るつもりだ。
僕は、とりあえず部屋に散らかった諸々のものをさっと片付けた。僕の身のこなしは、ここ一週間で最も素早かったと言っても過言ではない。アイカは手伝うと言ったが、座っておくように僕が言うと、大人しく床に敷いたクッションの上に、ちょこんと座っていた。
一通り片付けを済ませると、冷蔵庫にあった麦茶をグラスに注いで、アイカに差し出した。
「粗茶ですが」
真面目な顔をしながらそんなことを言って、少しふざけてみた。アイカがまだ少し緊張していたようだったので、それを解そうと思ったのだ。申し訳程度しかない僕のユーモアセンスでも、アイカは笑ってくれた。こんなことで、果たして彼女の緊張は解れるのだろうか。
「ごめん、ちょっと」
僕は、煙草を吸うジェスチャーをしながらアイカに了承を求めた。お茶を口にしていたアイカは、ゴクリと喉を鳴らして、慌ててそれを飲み干した。
「ん、全然いいわよ」
煙草を持ってベランダに向かう僕の背中を、アイカが呼び止めた。
「別に気を遣ってくれなくて大丈夫よ。慣れてるし」
「部屋がヤニっぽくなるとうるさく言われるから」
少し振り返りながらそう言って、僕は窓を開けてベランダに出た。ここも、いつも通りの光景。そのはずなのに、今日はやけに汚れたベランダが気になる。
ニコチン切れが限界に近い。早く落ち着きたい。頭ではなく、体がそう叫んでいる。喫煙者の悲しい性とでも言おうか。
何時間も煙草を我慢したあとの一服は格別だ。フラストレーションが一気に解放され、身体中の力がふっと抜けていくような感覚に陥る。アルコールが入っているので、その感覚も一層強いようだ。
煙を吐き出しながら、いつものように空を仰いだ。昨夜のような美しい満月は、今日は見えない。厚い雲の中に身を潜めているようだ。
そう言えば今日は、空を見る余裕なんてなかったなと、今日という一日を振り返って思った。空は、見る人の心によって様々に変わるのだと、何処かで聞いた気がする。だとすれば、僕の心もどんよりと曇っているのだろうか。
気持ちが落ち着いてきたためか、一つ大事なことを思い出した。
サヨに連絡を入れていない。いつもはお互いに仕事が終われば、特に用事がなくても、とりあえず何かしらの連絡を入れるようにしている。それが僕らの間の暗黙の了解であり、ルールでもあった。サヨと過ごした五年間で、自然と作られたものだ。アイカのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
もちろんのこと、僕は悩んだ。今、サヨに連絡をするべきか。サヨの声を聞けば、きっと一瞬で現実に引き戻されて、僕は冷静になるだろう。しかし、この夢のような状況を終わらせたくないと、残酷なまでに純粋で素直な僕の本能が叫ぶ。冷静になってしまえば、サヨの声を聞けば最後。おそらく僕は、これから過ごすアイカとの時間に溺れることは、きっと出来ない。それが正しいのだろうけれど、どうしてもその事実を拒絶したかった。冷静な理性までもが。
僕の全身全霊が、アイカを求めていた。当然だ。ずっと夢見てきて、夢で終わるものだと思ってきたことが、今実現しようとしているのだから。僕はどうしようもないくらいに、アイカを愛しているのだ。そう、サヨよりも。
サヨとアイカを比べることなんて、出来ない。僕の中では、二人は全く違う次元にいるのだ。というのも、アイカが余りにも高次元にいるためだ。今までアイカは、僕の手など絶対に届かない場所にいたのだ。けれど、今は。
頭が破裂しそうだった。アイカの存在が突然近付いた昨日から、今。その時間の中で、いや、今まで生きてきた中で、こんなに迷ったことなどなかった。
どうしたらいいか分からない。ドラマや映画の中で今の僕のように、二人の異性の間で思い悩む主人公たちが、どれ程描かれてきたことだろうか。そして、悩みに悩んだ彼らがほとんどと言っていいほど、この台詞を呟いた。僕は今、彼らと何ら変わらない。本当に何が正しいのか分からない。自分では、常に冷静沈着な方だと思ってきた僕の頭も、こんなに混乱するものなのかと、少し驚嘆した。
とりあえず、2本目の煙草を取り出そうとしたとき、窓がノックされた。もちろん、窓の向こうにはアイカの姿があった。ノックの音を聞いた瞬間、頭の中には、少し寂しそうな顔をして窓の向こうに立つサヨがいた。とても現実と思えないこんな状況にいると、最早何が現実で、何が夢なのかが分からない。僕は少しだけ窓を開けて、アイカに答えた。
「どうしたの? ごめん、もう一本吸ったら入るから」
「私も風に当たりたいわ。一緒にいていい?」
思わず了承しかけて、思い止まった。帰ってきたときの部屋以上に散らかっていて、薄汚れたベランダが視界にあったからだ。
「いや、ここ汚いからやめておいた方がいいよ」
少し苦笑しながら、僕は言った。
「いいわよ、別に。私、ジュンちゃん思ってる程、綺麗で繊細な女じゃないんだから」
少しすねたような口調で、アイカは微笑みながら答えた。そう言われてしまうと、こっちもアイカの申し出を受け入れるしかない。僕は、自分が履いていたスリッパ(これも少し汚いが、履いていないよりは何倍もましなはずだ)を、アイカに差し出した。彼女は、ベランダの汚さを見てか、遠慮することなく、スリッパに足を入れた。
「ごめんね、煙たいと思うけど」
僕がそう言うと、彼女は呆れたように少し笑った。
「だから全然いいって言ったでしょう?」
なるべく彼女に煙が当たらないように気を付けないと。そう思いながら、煙草に火を点ける。その様子をじっと見つめる、アイカの視線を感じた。
「何の煙草吸ってるの?」
僕は、手に持っていた煙草の箱をアイカに見せながら、その銘柄を言った。するとアイカは、元から興味なんてなかったかのように、ふーんと言ってから少し黙った。
「一本もらっていい?」
何だって? 驚いてそう言おうとしたが、ちょうど気道に入れようとしていた煙のせいで、派手に咳き込んだ。そんな僕の不様な姿を見て、隣にいるアイカは、けらけらと声をあげて無邪気に笑った。
「だから言ったじゃない。私はジュンちゃんが思ってる程綺麗な女じゃないって」
アイカはそう明るく言ったが、その言葉に潜んだ憂いを、僕は感じずにはいられなかった。ようやく落ち着いてきた僕を横目に、彼女は更に続けた。
「私にしてみれば、ジュンちゃんが煙草を吸うってことも信じられないのよ?」
彼女は哀愁を帯びた顔で言った。
「今朝、公園のベンチでだらしなく座りながら一服してるジュンちゃんを見て、思ったもの。あぁ、私たち本当に大人になっちゃったんだなぁって」
アイカが僕の顔を覗き込んだ。目が合うと、条件反射のように僕の心臓が一拍だけ、大きな音を立てた。一本ちょうだい、とアイカがもう一度僕に告げた。またも、彼女に従うしかない。やはり、アイカは年上の女性だ。どうしても、彼女には勝てないらしい。
僕が差し出した煙草をありがとうと言って受け取ると、アイカは煙草をくわえた。本当に信じられない光景だ。僕は、アイカがくわえた煙草の先にライターの火を点した。煙草の火種が、赤く光る。彼女は吐息と共に、煙を静かに吐き出した。その一連の仕草に、僕は見とれてしまっていた。無心で、彼女の横顔を見つめていた。
「なぁに?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、視線に気付いた彼女が尋ねた。視線に気付かれたことが、何故か妙に恥ずかしくて、赤面してしまいそうだった。慌てて弁解した。
「いや、別に」
弁解になってない。自分の情けなさには、ほとほと呆れたものだ。
「自分で吸うなら、慣れてるとかじゃないだろ」
さっきのアイカの言葉をふと思い出して、あえて嫌味っぽく僕は言った。するとアイカは、案の定悔しそうな表情を浮かべた。してやったり。
「普段から吸うわけじゃないのよ。本当にたまにしか吸わないもの」
言い訳がましく、彼女は言った。はいはい、と軽くあしらうと、アイカはむきになって怒った。本当に可愛いらしいものだ。この一時に、僕は確かな幸せを感じた。
いつから吸うようになったのかを尋ねると、学生時代の悪友のせいだと彼女は答えた。ありがちなものだ。同じ質問を返されたので、俺もそんなものだと答えた。またアイカがすねる。
「ジュンちゃん」
しばらくの沈黙のあと、アイカが不意に僕を呼んだ。煙草の火を足元にある灰皿で消すために、少ししゃがみこみながら、僕は返事をした。
「私が結婚したら、嫌?」
さっきまでは泣いてばかりで、核心になかなか触れなかったくせに、急に大胆になったなと思ってしまった。表情は見えなかったが、声色は確かに真剣だった。さすがにもう茶化すことは出来なそうだ。僕はすぐには答えずに、とりあえず部屋に入ることを提案した。アイカの煙草も、もうフィルター近くまで灰になっていたから。窓を開けて、押し込むようにしてアイカを部屋の中に入れた。さて何と言おうかと、考えながら。
部屋に入ると、アイカはさっき座っていたクッションの上に戻った。彼女が座るのを見届けてから、ベッドに脱ぎ捨てたままにしていたジャケットを、ハンガーにかけようとした時。ジャケットのポケットの中に、携帯に入れたままにしていたことを思い出した。同時に、サヨのことが脳裏に浮かぶ。
もう日付が変わろうとしている。サヨから連絡が来ていてもおかしくはない。むしろ、来ていないことの方が可能性としては低いだろう。あえて携帯を確認せずにいようか。しかしさすがに、そうするのは僕の良心が痛む。アイカとこんな時間に部屋で2人きりであるこの状況が、後ろめたく感じる。今一緒にいるのがアイカではなくても、サヨ以外の女性と2人きりになるのは、後ろめたい。
もしサヨからの連絡があれば、返信しよう。いつも通りにしていれば、何の問題もないはずなのだから。ハンガーにかかったジャケットのポケットに、ゆっくりと手を入れ、携帯を取り出した。恐る恐る、携帯の画面を確認する。別に、恐れる必要などないはずなのだけれど。
携帯の電子的な光の中。待ち受け画面にあるはずの、『不在着信 一件』の文字はなかった。幸い、というべきなのだろうか。こんなことがあるものかと、少し驚いたのと同時に、安心せずにはいられなかった。
安心したからか、思わずため息が出た。アイカを不安にさせてしまうだろうと思い、なるべく我慢していたのに、今度ばかりは出てしまった。しまった。
反射的にそう思い、アイカの方を見た。僕のため息は、アイカの耳にも届いてしまったのだろう。アイカの顔には、不安の色が見える。申し訳ないことをしてしまった。
きっと、気付いているに違いない。僕が、サヨからの連絡を確認したことを。アイカは僕とサヨの関係を知っているのだから。それだけでなく、自分がここにいるべきではないということを、改めて感じてしまったんだ。
「大丈夫なの?」
アイカが、不安そうに尋ねた。何に対して大丈夫かと聞いているのかは分からないが、とりあえず、僕に安心させてほしくてそう尋ねたのではないかと思う。アイカも、サヨのことが気になっているに違いない。二人の話を聞いただけではあるが、彼女たちはもう十分に関わりを持っていると言える。友人と呼ぶまでには至らないとしても、僕という共通点の下で、彼女らは特別な関係を保っているのだ。面識があるためになおさら、アイカも不安に感じるのだろう。
少しでもアイカが不安から解放されればいいと思って、僕はアイカに笑いかけた。大丈夫、と囁きながら。
僕は、いつものようにベッドに腰かけた。アイカとの距離は、一メートルくらいだ。これ以上近付くのは危ない気がして、少し離れて座ることにした。
アイカはまだ少し不安そうだった。覚悟を決めて今まで押し込めていた不安が、津波のように一気に押し寄せてきてしまったのだろう。僕が携帯の確認をアイカの目の前でしなければ、彼女はきっとこんなにも不安にならなくて済んだのに。ほんの数分前でいいから、時間を巻き戻してほしい。後悔しても仕方ないのだが、そう思う。
気まずい沈黙が、部屋中に満ちている。僕は、アイカがさっき言った言葉を、頭の中で何度も繰り返していた。
「私が結婚したら、嫌?」
彼女は僕にそう言ったのだ。そして今、アイカはきっと、この問いに対する僕の答えを望んでいる。ただ、何と言えばいいのかが分からない。嫌かと言われれば、嫌に決まっている。けれどそんなことよりも、アイカが幸せに暮らしてくれることが、僕の一番の望みなのだ。もちろん出来る限り、アイカの望みを叶えてはあげたい。けれど―――