サイバー機動隊
争いの火種を生み出しているのは我々の敵ではない。
それは支配者の新たな領域展開によって引き起こされるのだ。
世界平和という大義名分の元、自らの覇権を守る為に。
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二〇四〇年八月三〇日(木)
高層ビルが立ち並ぶ千代田区の空は、今日も全自動飛行車や自律型固定翼ドローンが行きかう。
完全自動化された日本の交通インフラは現在、Uberが作り出したAIのアルゴリズムに従って、それぞれの目的地へと向かっている。全ての車両が一定の速度で飛行する中、一台の緊急車両がそれらを流星の如く抜き去っていく。
ヘリコプターのような形をしたパトカーだ。
白と黒のボディの上部にお飾りとして乗せられている信号機が赤光を発している。
乗車している彼は警察組織の人間だ。コードネームは――『ローガン』
オールバックにした髪は天然の金色。青い目。白い肌。
どこからどう見てもヨーロッパ人だが、どこの国から来たのかと訊かれれば、彼は流暢な日本語でこう答える。
俺はこう見えても日本人だ、と。
普段は日本の諜報機関の職員として勤務しているが、本当の所属は特殊任務部隊である。彼らは日本の各国家機関に配置されており、そのほとんどがインテリジェンス・コミュニティである。
業務内容は各機関の目的に従った情報収集の他、組織内部の監視、国内外のテロ対策・交渉・制圧、スパイ活動、電子戦・サイバー戦など多岐にわたる。
同部隊の実権は内閣が握っているが、帰属は警視庁にある為、逮捕権の保有及び銃の使用が認められている。
今日、本来休日だったはずのローガンがUberのマッチングシステムに呼び出されたのは、これからその権限を使う可能性があるからだ。彼が選ばれた理由は恐らく、現場から最も近かったから、だと思われる。
現在向かっているは千代田区のショッピングモールだ。
そこではまだ――何も起こっていない。まだ。
車内に展開された、いくつかのバーチャルスクリーンに目を向ければ、監視カメラを通してモール内の様子を閲覧出来る。
手をつないでいる親子。腕を組んで歩く若いカップル。はしゃいでいる小学生。一見すると、平和を絵に描いたような光景である。
しかし、これからここで、九八%の確率で凄惨な事件が起こると予測されている。
情報の提供者は、ローガンの脳内にいる人工知能――〝カエサル〟だ。
二〇一〇年代に、人類はブレイン・コンピュータ・インターフェースの超小型化に成功していた。
当時はまだ研究段階だった為、一般人の装着は認められていなかったが、三〇年代に入って一般公開された。無論、人道的な問題の指摘もあったが、多くの著名人が自身の装着を次々と公表した事で急速に広まった。現在、電脳化の普及率は世界人口の八割を超えている。
電脳化によって身体のあらゆる情報・データの取得が出来るようになった。
その人の心拍数、脈拍、呼吸の深さや長さなどを記録する事で自身の睡眠の質や身体の健康状態、セックスの満足度、現在のメンタルの状態さえも数値化し、データにする事が可能だ。メンタルが悪化した場合には、犯罪に走る確率を自発的に測定し、数値が九〇%を超えた段階で、装着者のカエサルが付近にいる隊員のカエサルに出動を要請すると同時に警視庁へ詳細を通知する。
ローガンは、加害者になる可能性のある男のバーチャル資料に目を通していた。
六五歳。独身。無職。
「またコイツらか」低い声で呟くその声には、落胆が混じっていた。
二〇一九年――〝ヤツら〟による凄惨な事件多発した。
川崎での無差別通り魔事件――アニメスタジオ放火事件――この年から三、四年ごとにヤツらによる凄惨な事件が定期的に起こるようになった。回り始めた悪しきサイクルに従っているかのように。そして、次の周期は恐らく、今日である可能性が高い。
ローガンは監視カメラの映像に目を向けた。
休日を楽しむ人々に交じって、場違いな老人が一人映っていた。
中肉中背。白髪交じりの髪はボサついており、皺だらけのスウェットにサンダルという格好の彼は、腹部のポケットに両手を突っ込んだまま、魂が抜けたように力なく歩いていた。
『到着時間一分を切りました。インテリセプターの使用申請を承認。ロックを解除しました』
カッチ、と音が鳴ったのを耳にしたローガンは、腰にあるガンホルスターから黒光りするそれを取り出した。
例のショッピングモールは目の前だ。
飛行車が着陸態勢に入る。滑るように斜めに降下していく――地面までの距離が三メートルを切ったところで一度、空中で停止してから緩やかに、沈むように地面へ着陸した。
スライド式のドアが開かれると、ローガンの脳内でナビゲーションが起動された。モール内へ向けて緑の道筋が表示される。標的を目的地としたルートである。
車から飛び出し、ローガンは走り出した。
所要時間は一分。ローガンの脚力と民間人などの障害物を考慮してカエサルが導き出した数値である。
人込み中、モール内を駆け抜けていく――この状況では〝一分しかかからない〟という解釈は間違っている。なぜならヤツはいつ犯罪に走ってもおかしくない人間だからだ。
この一分の間に行動を起こすかもしれない。ふと湧きあがった感情によるものなのか、外的要因によるものなのか、どれがトリガーとなるのかは分からない。
今はヤツが何もしていない事をただ願うしかない。その場にいない以上、ローガンに介入の余地はないのだから。
到着時間まで残り一五秒となった頃、赤く発光した人物がローガンの目に映った――ヤツだ――犯罪確率が九〇%を超えて警戒対象となった事で、ヤツのカエサルがこちらへ信号を送っているのだ。
どうやらまだ行動を起こしていないらしい。一瞬安堵を覚えつつも、ローガンはヤツへの接近を続け、インテリセプターのトリガーに指の腹を添えた。
残り一〇秒を切った。距離にして数十メートル。おもむろに、ヤツが自分の腹ポケットからそれを取り出した。握りしめ物が銀色に光った――包丁だ。
「通り魔だ! 逃げろ!!」
ローガンが声を張り上げると、周囲の人々が押し黙った。一瞬にして、この場の空気を驚きと不信感が支配した。
静寂はすぐに破られた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ!」
奇声を上げた老人が、暴れ馬のように飛び掛かった。目の前の親子に向かって。
ローガンは立ち止まると、銃口をヤツへ向けた。発砲。五回の銃声が連続で繰り返された。
老人がガタガタとバランスを崩していく。糸を切られた人形のように、倒れた。うつ伏せ状態となった老人へローガンが駆け寄ると、その手首を掴んで、言った。
「銃刀法違反及び殺人未遂の罪で現行犯逮捕する」背中の上に両手を乗せ、手錠をかけた。
「クッソおおおおおおおおおおおおおおお!! ふざけやがって!!」
ぶざまに罵詈雑言を叫んでいるのを横目に、ローガンはこの老人を拘束する。と言っても、形だけだ。両手で抑え込んでいるように見えて、実は添えているだけだ。
もう既に身動きは取れない。呻き声を上げながら、ただ暴言を吐き続けるのみだ。
『犯人確保を確認。インテリセプターをロックします』ローガンの脳内でカエサルが続けた『警察官及び救急隊に詳細を共有しました。間もなく到着します』
聞き終えてから耳に入ってきたのは、少女の泣き声だった。
ほんの数歩先。年は、まだ小学校低学年といったところだろうか。怯え切った母親が少女を強く抱きしめ、撫でながら「もう大丈夫だよ」「怖かったね」と声をかけている。
ローガンは視線を落としてから、心の中で一言、言った――すまない。
意味をなさない事は分かっている。こんなのはただの自己満足である。
後方から複数人の足音と声が聞こえてきた。こちらに向かってくる。
数人の警察官が老人を取り囲んだ。ローガンの仕事はここまでである。
「犯人を拘束した。詳細はカエサルに確認してくれ」
「感謝する」ローガンの隣についた人物が答えた。知っている顔だ。
松野圭太。刑事だ。年はローガンと同じ四〇半ばだ。かつての軍人時代の仲間であり、これでも付き合いは二〇年以上になる。彼と入れ替わるように、ローガンはこの場から立ち去ろうとした。
「待て、ローガン」
肩を掴まれ、ローガンは立ち止まった。それが松野だという事はすぐに分かった。
「やりすぎだ」松野の声には感情が籠っていた。
「やむを得なかった。あのままでは一般人に被害が出ていた」ローガンは彼に背を向けたまま、どこか投げやりに答えた。
「そうじゃない。五発はやりすぎだと言っているんだ。犯罪者かもしれないが、相手は老人だぞ」
「犯罪者であり悪人だ。悪人に人権はない」
「お前……」
「あんたに何が分かる!?」松野の言葉を、かすれ気味の叫び声が遮った。
ゆっくりと、ローガンはその声の主へ振り返った。肩越しにいる老人は仰向けのまま、涙と憎悪に満ちた顔をローガンに向けていた。
「日本が核を持ったから、あの忌々しい大戦が起きたんだ……! 俺の妻と娘はあの攻撃で亡くなった! 二人は日本に殺されたんだ!!」
老人は奇声に近い声で泣き叫んだ。向き直ってからローガンは、老人に近づいた。力の入ったその足取りは怒気に満ちていた。
片手で老人の胸倉を掴むと、身体を一気に持ち上げ、恐怖に歪んだその顔を引き寄せた。
「いいか!! どんな理由があろうとな、罪のない人間を傷つけていい理由になんねんだよ! このクソ野郎が!!」言い放つと同時に、汚物を投げ捨てるように老人を乱暴に突き放した。
「ひっ」と、情けない声を上げて尻餅をつく老人を、ゴミを見るような目で睨みつけてから、ローガンは背を向け、外へ足を進めた。
老人の扱に、松野は何も言わなかった。呼び止めるわけでもなくただ、「ローガン……」と小さく呟いていた。
もしも現代のテクノロジーがなければ、あの親子の命は奪われていたはずだ。
何も悪い事をしていない。ただ家族との大切な時間を過ごしていただけで理不尽に殺される。そんな事が、あってはならない。
だが、〝あってはならない事〟が起こらないとは限らないのだ。なぜなら歴史は〝あってはならない事〟の繰り返しなのだから。
外は人でごった返していた。
群がる野次馬の中を、ローガンは何事も無かったように通り抜け、待機していた一般の飛行車に乗り込んだ。行先の履歴が記載されたバーチャルスクリーンが現れ、『よく行く場所』の上位にある店名をタップした。貴重な休日だったはずの今日という日を使って、本来行く予定だった場所である。
車体が静かに、緩やかに上昇していく。目的地の方向へ転換し移動を開始する。同じ進路を行く飛行車の群れに合流した。
ローガンは、南西に目を向けた。いや――つい目がいってしまうと言った方が正しいだろうか。何度も乗車をしてきた。数えきれないくらいに。だが、そのたびに毎回、あれを見てしまうのだ。慣れる事はない。今までも、そしてこれから先も、ずっと。
かつて渋谷区があったそこは現在、何もない。隕石でも落ちたのかと思ってしまうくらいの、巨大なクレーターとなっているのだ。
それが本当に隕石だったのであれば、まだマシだったかもしれない。実際にはもっとタチの悪い、おぞましいものだ。
始まりは一八年前――二〇二二年二月二四日。ロシアがウクライナへ全面軍事侵攻を開始した。
二〇一四年のクリミア併合と同様、首都キーウは一週間程度で陥落するだろうという予測に反して、ロシアは電撃戦に失敗。戦争は長期化した。落としどころが見つからないまま、泥沼の状態が五年間も続いた二〇二七年。突如として、『第三次世界大戦』というワードが世界中を駆け巡った。NATO軍がベラルーシへ出動したのだ。
その兆候は二〇二三年六月にあった。ロシアの核ミサイルがベラルーシに――ポーランドの国境付近に配備された。さらには、国境沿いにワグネルの兵士が一〇〇人以上も配置された。ポーランドは国境地帯の警備を強化。人員を増やし、さらには米国と『各共有』を行った。両者の緊張状態は長期化し、人員も日に日に増えていった。
そして、二〇二七年に事件は起こった。睨み合いが続く国境地帯にウクライナのミサイルが墜落し、ワグネルの兵士三人が死亡した。敵の攻撃だと判断したワグネルは反撃に出た。攻撃を受けたポーランド軍も同様の行動を取った事で紛争となり、NATO軍が出動する事態となった。
国際社会がエスカレーション防止に動く中、北朝鮮が今だと言わんばかりに国境三八度線で大規模軍事演習を始めた。
当時、ローガンは日米特殊部隊に所属していた。台湾有事に備えて結成された組織である。このとき、軍の施設にいたローガンはコーヒーを片手に、数人の仲間と共にこの映像を観ていた。そして、確信した。
東アジアで戦争が始まる。
二か月後、北朝鮮軍が韓国に軍事侵攻を開始した。
七〇年越しの朝鮮戦争再開に日本中が驚愕し、人々の話題の多くが戦争となった。全国でトイレットペーパーの買い占めが多発した。
何を今更――彼らを見て、ローガンは呆れかえった。
ロシアという軍事大国が戦争を始めたのだ。その翌年の二〇二三年一〇月七日にはハマスがイスラエルへ軍事侵攻を開始した。当初はガザ戦争と呼ばれていたが、後にイランとイスラエルの全面戦争に発展した事で、第五次中東戦争と呼ばれるようになった。相手の狙い通り、この戦争は長期化した。一〇〇年前からの問題は現在も解決していない。
また、台湾有事の懸念は一〇年代からあった。戦力分散の為に朝鮮半島有事が起こってもおかしくない。と、多くの専門家が示唆していた。
二〇一〇年に日本を追い抜き、飛躍的な経済成長を遂げた中国だが、二〇二〇年に入って不動産バブルが崩壊。若者が大量に失業した事や、地球温暖化によって農村部で干ばつが頻発するなど、様々な要因が重なった事で中国の経済は衰退へ向かっていった。当然、国内では共産党への不満が募っていたはずだ。
歴史は繰り返す――追い詰められた国が取る行動は決まっている。戦争だ。
二〇年代から世界は三度目の大戦へ向かっていたのだ。当時から多くの兆候があった。まるで他人事であるかのように無関心な日本人に、ローガンは苛立ちを覚えた。
それらに目を向けていたのであれば、落胆し恐怖したとしても、驚くという事はない。実際、ガザ戦争が勃発して以降、もう何が起こってもおかしくないのだと、ローガンは悟った。
北朝鮮の軍事侵攻から間もなく、やはりと言うべきか、中国が台湾付近で大規模軍事演習と言う名の戦争準備を始め、海上封鎖に踏み切った。これを警戒して米国は第七艦隊を東シナ海に派遣。日米特殊部隊は偵察の為、台湾付近へ向かった。
日本は米国から海上自衛隊派遣の要請を受けるが、これが『重要影響事態』と判断するべきか、政府内で意見が分かれた。
「戦争準備だ」と非難する米国に中国は「過剰反応だ」と反論。両者の緊張が高まる中、日本国内で反戦運動が起こると同時に、核保有の声が高まった。元々は少数派だったはずが、戦争の危機が迫るにつれて、SNSで核兵器に関するデマ情報が増えていき、日本の核保有賛成派が急増した。日米共に。
数日後、日本首相は反対派の意見を押し切り、核開発を推し進める事を発表。これには米国の意向もあった。米大統領が首相へ遠回しに指示をしていたという説も存在する。
当時、米大統領も日本首相も国内での支持率は低下の一途をたどっており、過去最低を記録していた事がこの決断に大きく関わっていたと思われる。また、中国を交渉のテーブルに着かせる為という意図もあった。
無論、中国、ロシアを中心に日本は国際社会から非難を浴びた。日米は「抑止力の為」と反論。核開発中止を条件に、台湾付近から人民解放軍の全軍撤退を要求――しかし、中国はこれを即断で拒否。この時、中国国家主席は「朝鮮戦争の時とは違う」と米国の要求を突っぱねた。
米国による『核での脅し』は失敗に終わった。核兵器が抑止力でなくなった事が、改めて証明された瞬間だった。
数日後、台日で全国的な停電が発生。交通システムやGPS、金融システムの精度が低下し、インターネットなどの通信も使えなくなった――にも関わらず、なぜかSNSだけは機能していた。
第一段階――中国のハイブリッド戦の開幕である。
根も葉もないデマ情報――フェイクニュースやディスインフォメーションが日本で大量に拡散され、大混乱に陥った。台湾では中国のアカウントを自動的にブロックするツールを政府主導で民間企業が開発し、政府がインストールを促していた事で国民全体にアプリが普及していた。その為大混乱には至らなかった。
また、米軍や自衛隊のシステムにもハッキングの痕跡が発見された。中国のサイバー攻撃と判断した米政府は各国に対応を要請。日本はサイバーセキュリティ・情報管理において西側諸国の中で最も遅れていた為強力に至らず。
戦争は第二段階に入った――中国の大規模ミサイル攻撃である。西側諸国がサイバー攻撃での妨害に急ぎ、中国の分散されたシステムの半分は停止に成功した。逆に言えば、半分は攻撃を許したという事である。
銅の塊が豪雨のように降り注いだ――台湾と沖縄へ――中国版真珠湾攻撃である。
ここで日本はようやく『重要影響事態』と判断。事後承認にするべきかどうか、政府内で意見が分かれた。
中国は台湾空域での制空権獲得の為、戦闘機を展開。残った台湾軍で阻止に動いた。空での激しい戦闘が繰り広げられた。ミサイル攻撃回避行動を取っていた米軍第七艦隊の空母艦載機が参戦。さらに遅れて海上自衛隊が到着し、機雷除去・ミサイル防衛・米艦隊への補給などの支援に回った。
また、日本政府は二万人いる台湾在留邦人の救出についての計画を立てていた。しかし、ここでも議論を加熱させるばかりで計画が進まない。実行にはまだ時間がかかると考えた日本政府は米国に、在留米国人と一緒に約二万人の台湾在留の日本人を救出するよう要請するが、米国も海軍が不足している為拒否される。逆に、米国から邦人の救出と一緒に台湾難民の救出の要請がなされる。
日本政府内で再び議論が過熱する。こうしている間にも台湾では犠牲者が出続けた。日本に批判の声が集まった事で、政府は海自による救出を決断。九州が受け皿となった。
台湾難民が鹿児島に降り立つ姿が報道された。SNSでは台湾難民が日本人に暴言を吐いたりスーパーやコンビニで商品を強奪したりする動画が拡散された。解析したところ、それは精巧に作られたフェイク動画だった。製作したのは、ほぼ間違いなく中国だろう。難民に紛れた中国の工作員が拡散したと思われる。
しかし、日本人は安易にもそれを鵜呑みにし、台湾人を非難。難民受け入れに反対の声を上げた。これにより台湾との関係が悪化した。恐らく中国の狙い通りだっただろう。
しかも、米国本土・オーストラリア軍からの応援はまだ到着しておらず、戦況は中国が優勢だった。空爆がひと段落したところでドローンでの『スウォーム攻撃』が行われ、台湾軍や民間人が殺害された。
そして中国艦艇及び民間の船が陸軍を乗せて台湾に押し寄せてきた。米空軍は爆撃・艦隊のミサイル攻撃で中国軍の阻止に動き、上陸を一部に留めた。
この時、中国側では船の不足や空母の不具合などといったトラブルが頻発していた。
侵攻の時期が早かった事による準備不足が、『海』にあったという事だ。
そこから形勢は西側に傾いた。台湾軍は中国軍に強く抵抗。後に米国本土からの米軍・オーストラリア軍が到着し、応戦した。中国は電撃戦に失敗。戦争は長期化した。
無論、世界経済は大混乱に陥った。
その影響でパキスタンでは食料不足やインフレが加速し、失業率も増加した。さらには政権の汚職が発覚。国民の不満が爆発し、国内で暴動が発生した。
この事態に焦りを感じたパキスタン政府は国民の支持率回復を試みてカシミール地方のインド領に侵攻した。当然、インドも軍隊を派遣。第四次印パ戦争勃発した。
こうして、GDP上位の国の大半が戦争をするという最悪のシナリオが現実となった。
『核兵器禁止条約』があるにも関わらず、大戦中、『核不使用条約』が国連及び参戦国で締結された。内容は「大戦中、両陣営とも核を使わない」というもの。しかし、効力はほぼ皆無に等しい為、各国が核の使用を警戒していた。
世界が泥沼の戦いを繰り広げる中、日本は米国から「航空自衛隊による米軍爆撃機のエスコート」の要請を受けた。
航空自衛隊の『F‐35』ステルス戦闘機が米軍爆撃機のはるか前を飛行し、中国本土の軍事施設を討つという内容だ。つまり、日本の中国本土進攻である。
当然、反対派は出てきた。だが、この時点で日本は西側諸国からの信頼を大きく失墜していた。その為、首相はこの要請に応じた。日本は八〇年という時を経て、正式に武力行使を行う事となった。中国は「侵略戦争だ」と日本を非難した。
開戦既にから三ヵ月が経過していた――軍の撤退はあり得ない――領土は絶対に一ミリも渡さない――太平洋には絶対に進出させない――それぞれの強固な思惑がぶつかり合い、戦いの落としどころが見つからないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。
そんな中、事態を急転させる出来事が起こった。
日本の渋谷区で大量の放射能を発した大爆発が巻き起こった――その出所は南シナ海――かと思われたが、違った。オホーツク海だった。
日本の中国本土進攻の知らせを聞いたプーチンが、北方領土侵攻を恐れて『エスカレーション防止戦略』を実行したのだ。
日本の三度目の被爆を映した映像が、全世界に衝撃を与えた。人々は驚愕し、涙した。
ローガンもその一人だった。このとき彼は日米特殊部隊の任務で中国にいた。その目的は、国家主席の暗殺である。しかし、緊急事態発生の為中止となった。
日本はロシアへ報復に出た。日本海から核ミサイルが発射されたとき、誰もが世界の破滅を覚悟した。発射先は――人のいない森林地帯だった。一発のみが、そこに直撃した。
皮肉な事に、この出来事を機に戦争は終結へと向かっていった。
自国への被害を恐れた米中が講和したのだ。
ウクライナ戦争についても休戦協定が結ばれ、NATO軍もロシア軍もウクライナから撤退した。また、ロシアから日本への報復の報復もなく、争いは不可解なほど緩やかに鎮静化していった。そう、不可解なほどに。
日本の報復攻撃の対象は、モスクワとサンクトペテルブルクのはずだった。一発目はなぜか目的が大きく逸れて森林地帯へ直撃。二発目は、発射されなかった。
後に自衛隊の軍事システムを調べたところ、インドと思われるハッカーからの侵入形跡があった。しかも、その足跡はあからさまで、消そうとすらしなかった事が伺えた。
この数週間前にインドはパキスタンを二週間で制圧。脅威を徹底的に排除した。
当時の首相――ナレンドラ・モディは、後にプーチンと会談を行った。何を話したのかは定かではないが、今回の件に陰の役者として一役買っていた事は間違いないだろう。
しかし、インドを除いて、両陣営共に膨大な損害を出しただけであり、関係は最悪だ。
現在も両者は互いに銃口を向けている状態であり、その引き金はいつ引かれてもおかしくはない。東西再冷戦時代の幕開けである。
戦後、日本経済は破綻寸前にまで追い込まれた。渋谷の壊滅や中国からの経済制裁。インフレが加速し、国内で失業者・貧困層が増加した。さらには東側からサイバー攻撃のいい標的となった。ロシアであろうハッカー集団が複数の日本企業から資産の数パーセントを抜き取ったという疑惑が浮上した。無論、ロシアは一貫して否定。証拠も対処法も見つからないまま、この件をみすみす見逃す事となった。一方で、二千万人の中間層・貧困層から一人五〇〇円が抜き取られていたという調査結果が後に出た。これについても、恐らくロシアの仕業である。また、日本のサイバーセキュリティ研究所の調査によると、戦後の被害件数は不正アクセスを含めて五〇〇〇億を超えていた。
日本の脆弱さは東側から〝サイバー・パラダイス〟と揶揄されたほどだった。
ここでようやく、日本は改革へと踏み切った。
サイバーセキュリティ及びインテリジェンス・コミュニティの強化。人材確保と育成に力を入れ、民間企業にも協力を仰いだ。
経済に関しては、中国・インド・シンガポール・台湾などのアジア諸国を見据えた改革を行った。謎の規制や既得権益を次々と撤廃し、急速にデジタル化を推し進めた。高齢者を優遇するような政策を辞め、若者を支援。出産・子育てにかかる費用や大学までの学費を国が負担する事となった。
また、これから成長が期待されているアフリカ諸国やデンマーク・スウェーデン・ノルウェー・エストニア・イスラエルなどのデジタル先進国の経済発展モデルを分析。
海外で利用されていた日本の技術を逆輸入し、世界に通用するさまざまなサービスやシステムを作り上げ、いつしか『リバース・イノベーション大国』と呼ばれるようになった。
最も画期的だったのが、日本のフルバンキングサービス――『ジャパンフルバンク』である。使われている通貨はデジタル円だ。
ソニーを中心とした大手電子メーカーとフィンテック系スタートアップ企業が提携し、日本のバックアップの末に作られた。レベル7という世界最大のセキュリティを誇り、これまで一度もハッキングをされていない。
現在、辛うじて基軸通貨の地位を維持している米ドルに再び円が対等する時代となった。
二〇年前まではデジタル人民元が基軸通貨に移り変わるのではないかと予測されていたが、プライバシー・利便性・セキュリティの面で、より優れた第三の選択肢が登場した為、選ぶ権利を持っている者としては、デジタル人民元を使う理由はなくなったという事だ。
かつて、日本は『デジタル後進国』と揶揄されていたが、戦後に行われたデジタル化改革――令和維新により、奇跡の経済復興を遂げ、デジタル先進国の仲間入りを果たした。
特にセキュリティ面で世界から一目置かれている。
二〇三〇年代にようやく日本が『ファイブ・アイズ』に加盟。対中インテリジェンス・コミュニティとして、『シックス・アイズ』が誕生した。
当初は加・豪・ニュージーランドに続いてセカンドパーティの枠であったが、日本がメインパーティとして米英と『UKUSAJP協定』を結ぶまでに時間はかからなかった。サイバー空間における日本の鉄壁の防御は米英を凌ぎ、その実力は東側諸国も認めるほどである。そして、最も警戒されているのが日本と言っても過言ではない。
二〇四○年。日本のGDPは中国に続いて四位である。二〇二四年名目GDPで一度はドイツ抜かれたものの、戦後に巻き返して四位に躍り出た。また、日本の軍事費は現在、GDP比の三%であり、広く深い海を持った核保有国である。
即ち、世界が認める軍事大国という事だ。
日本こそが東側諸国への強力な抑止力になっている――と、誰もが思っている。そのように断言する専門家や著名人も少なくない。確かに、今は彼らの言う通りかもしれない。だが、これからもそのようにあり続けるとは限らない。
千代田区の飛行車専用駐車場に着陸したローガンは、徒歩でいつもの店へと足を進めた。そこは繁華街の光が当たらない場所。路地裏の小さなバーである。
色褪せたレンガ仕立ての外観からは怪しさと不気味さを感じさせられるが、常連であるローガンはそこも気に入っていた。
ドアを開けると、近づきがたい店の雰囲気とは裏腹に、若い美青年がカウンター越しにいた。すぐにローガンの存在に気付くと、爽やかな笑顔で彼を出迎えた。
「いらっしゃい。ローガンさん」
「やあ、京也」ローガンはカウンター席に腰かけながら言った「いつものを頼むよ」
「はい、少々お待ちください」
青年はローガンに提供する酒を手際よく用意し始めた。
松野京也。あの松野圭太の息子だ。京也が幼い時から親しくしており、圭太を含めた三人でたまに遊んだりもしていた。この間までローガンの腰あたりまでしかなかったボウズが、もう二十歳の大学生で経済学を学び、こうしてバイトもしている。
早いものだ、としみじみに思いながら、タバコに火をつけるローガンであった。
一〇年代後半になって、日本では喫煙者への風当たりが強くなり、急速に喫煙所が撤去され、喫煙席が廃止となった。
ローガンにとってこの店は紙のタバコが吸える数少ないオアシスなのだ。
「お待たせしました」
コトリ、とローガンの前にロックグラスが置かれた。
「ありがとう」ローガンはウイスキーのロックを舐めるように味わった。
「今日はお仕事お休み?」
「休みだったが、急遽仕事が入ってさっき片づけてきたところだ」
「そっか、ローガンさんほんと多忙だからね。ちゃんと休んでるの?」
「まぁ、それなりにな」
「最後に休んだのいつ?」
「……」
押し黙るローガンに、京也は溜息をついた。
「覚えてないんだ……もうほんと、身体壊さないか心配だよ」彼は顔を背けてから、弱々しい声で呟いた「大変なのはしょうがないけどさ……」
ローガンは自分の仕事を〝警察〟とだけ伝えている。それ以上喋る気はない。
だが、恐らく京也は分かっている。ローガンの仕事が普通ではない事、簡単に辞める事が出来ず代わりがいない事、そもそもローガンに辞める気などない事。
それ故に、彼が仕事について訊いてくる事はほとんどないが、健康問題に関してはやや心配性である。身近な人が壊れていく姿を目にしてしまった者からしてみれば、当然である。
ローガンはただ一言「すまない」と、口にした。
「あっ……そういうつもりじゃなかったんだ。俺の方こそ、ごめん」
京也は困ったように微笑んでから、バーテンダーらしくワイングラスをふき始めた。
しばらくの沈黙が続いてから、ローガンはいつもの質問を彼に投げた。
「学校の方は、どうだ。今日は休みだったのか」
「今は夏休みだよ」
「ああ、それもそうか」
「うん。今年も部活とバイトと勉強でかなり大変だったよ。合宿もあったしね。でもなんだかんだ楽しかったよ」
「そうか」
彼の満足そうに微笑む彼を見て、自然とローガンの表情も和らいでいた。
「どうだ、新しい恋人は出来たか」
「ううん。そういうのは全然」
「気になる人とか、いないのか」
「うん。今のところね」
「そうか」
残念そうに口にしてから、ローガンは再びグラスを舐めた。
そのタイミングで客の来店を知らせるベルの音が聞こえた。京也が即座に「いらっしゃいませ」と反応してから、今度はローガンに声をかけた。
「ローガンさん、何かあったら通訳お願い」
ドアの方へ目をやると、そこには白人の若い娘が立っていた。
歳は二十歳ぐらいだろうか。ポニーテールに結んだブロンドの髪と青い目が印象的な娘だ。
ふと、七歳の少女がローガンの頭を過った。
その子がこちらに気付いて、振り向く。ブロンドのポニーテールを揺らして、ニッコリと微笑んだ。
「あっ、大丈夫です。日本語なら分かりますから」と、白人の彼女が流暢な日本語で言った。
「あぁそうでしたか、すいません。お好きな席へどうぞ」
カウンター席に近づいてきたのでローガンは彼女から視線を外した。今まで見続けていた事に、たった今気がついた。
「こちらメニューです」と京也。
「ありがとうございます」彼女が答えて、少し迷ってから言った「ええと……クラフトビールを一つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
厨房へと歩いていく京也の背中を、ローガンは目で追いかけた。
「日本に住んでいる方ですか?」
声が聞こえた。振り向くと、二つ隣に腰かけている白人の彼女が、こちらを見つめていた。
どうやらローガンに声をかけたらしい。
「ああ、これでも日本人だ」
彼女は興味津々な様子で、へえ、と微笑んだ「ヨーロッパ系日本人! 初めて会いました」
「あんたは違うのか。ずいぶんと日本語が達者なようだが」
「あんたじゃなくて、レイラです。レイラ・ハリス。英国人です。日本には小さい頃に住んでいました」
「おぉ……そうか」
ハキハキと喋る彼女に圧倒されるローガンである。一見そっけないと思われる返答に対しても、彼女は「はい、そうです」と答えながらニッコリと微笑んだ。
逃げるように、ローガンはその顔から目をそらした。やはり、重なる。
「日本のどこが好きですか?」
「……そうだな、飯が美味いところだな」
「分かります! 私、お寿司と蕎麦が大好きなんですよね。今回、回転寿司も行きたかったんですけど、行けなくなっちゃって」
「こんな店に来るぐらいなら、行っておいた方がいんじゃないか」ローガンが言うと、彼女は表情を若干曇らせ、視線を落とした。何かまずい事を言ってしまっただろうか。
「こんな店なんて言わないでよ」
京也である。レイラが注文したクラフトビールを持った彼はローガンの前を横切った。
「それに、いろいろ事情があるんだよ」ビールを彼女の前に置いた「お待たせしました」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を告げる彼女を横目に、ローガンは言った「それもそうだな。すまない」箱から二本目のタバコを取り出し、加えた。
「タバコ、よくないですよ」
火をつける寸前で一度固まった。
「やめる理由はないからな」言いつつも、一度加えたタバコを箱に戻した。
「乾杯」レイラが自分のグラスを差し出してきた。
「あ、ああ。乾杯」
どこか戸惑いながらも、彼女の方へ片手を伸ばし、グラスを合わせた。鐘のような音が小さく鳴った。互いに少量を含む。
苦い顔を見せる辺り、彼女はまだ酒を飲み慣れていないという事が伺える。
「今、いくつだ」とローガン。
初対面の女性にはなかなか失礼な質問だという事は分かっているが、それでいい。
「今年二〇歳になりました。なんでお酒はまだ初心者です。もしかして、未成年に見えましたか?」
「いや、そうじゃない」ローガンは京也へ視線を送った「二十歳なら、同い年だ。なあ、京也」
彼は一度目を見開いてから、答えた「え、ええ。そうですね。俺も二十歳になったばかりで、大学生です。お姉さんも大学生ですか?」
「えっと……そうですね。わたしも、大学生です」
「じゃあ、今は夏休みを使って日本に?」
「あっ、はい。そんなところです……」
ローガンのときとは打って変わって、レイラの京也への対応はぎこちなかった。
喋り方はたどたどしく、相手を見る事が出来ないといった様子で目が泳いでいた。
緊張や恥ずかしさとは違うような気がする。警戒しているのだろうか。
まあ、京也なら大丈夫だろう。ローガンは席から立ちあがった。
「さて、俺はここで失敬する。ごちそうさん」
「え、もう帰るの?」
「ああ、またな」
「あ、うん」
二人から視線を感じたが、ローガンは気づかない振りをした。
自動精算された酒代がバーチャルスクリーンに表示されると同時に、カエサルを通して京也個人宛に一〇〇〇円の送金を行った。この店のクラフトビールと同じ金額である。
『好きに使ってくれ』とメッセージも添えて、ローガンは店を後にした。
二〇四〇年八月三一日(金)
灼熱の炎の中で、七歳の少女が燃えていた。
熱い、熱いよ――理不尽極まりない痛みに泣き叫ぶその子を、母親が強く抱きしめる。何も言わずに。今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見た。二人が助けを求めている。
その小さな手を掴もうと、必死に腕を伸ばす。二人の名前を呼ぶ。叫ぶ。しかし、どれ一つとして届かない。彼女らの表情が絶望へと変わっていく。少女の手から力が抜けていくのが分かった。
黙ったまま、ただこちらを見つめている。
どうして助けてくれなかったの――目が、そう言っているような気がした。
やがて二人が遠のいていく。暗闇に沈んでいく。
ハッと目を覚ましたローガンは、勢いよく身体を起こした。
ベッドの上で激しく肩で息をする。心臓が早鐘を打っている。
呼吸が完全に整うよりも先にベッドから出た。キッチンへと赴き、水をがぶ飲みする。
三杯目を飲み終えた所で一呼吸してから、毎朝の習慣に取り掛かった。
三〇分のトレーニング、瞑想を終え、冷水シャワーを浴びる。
増量期ではない為朝食は取らずに身支度を始める。
「カエサル。今朝の健康状態を教えてくれ」
『少々お待ちください』
回答は三〇秒程で返ってきた。
『本日の健康状態について、あなたは健康的でありながら少し睡眠不足です』
電脳化した事で、病院に行かずに人工知能による医療診断がどこにいても受けられるようになった。そこで異常が見つかった場合――例えば、ウイルスに感染していたとしたら、療養についての案内をされると同時に、薬を処方される。それで対応出来ない重症患者だと判断された時に初めて医師が登場するというわけだ。
無論、たかが少しの睡眠不足で医師を呼ぶわけがない。
『睡眠不足は日中の注意力や集中力の低下、機嫌の悪化、体力の低下などの影響を与える可能性があります。十分な休憩を取る事で……』
「カエサル。分かった。もういい」
玄関を出て、自宅前で待機している自動運転車に乗って職場へと向かった。
国家通信情報局(NCA)
日本の対外情報機関である。
二〇一三年から始まった、第二次安倍政権によるインテリジェンス改革の一環として設立された『国際テロ情報収集ユニット(CTU‐J)』が先駆けとなっている。
当時、警視庁と外務省で同組織の実権争いが行われたが、仲裁に入った内閣が実権を握る事となった。しかし、帰属は外務省である。
同組織は平時から国際テロに関する情報収集を行い、実際に邦人が巻き込まれた場合にテロリストと交渉をする。救出成功の実績を残してはいたが、活動が国際テロに限定されているという事が問題視されていた。
また、サイバー空間での脅威に備えて二〇一五年に設立された組織――『内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)』がインテリジェンス・コミュニティから遠い存在だった事も課題としてあった為、戦後、東側諸国の脅威に備えて二つの組織を統合。人員を大幅に増やし、活動範囲を拡大。こうして、サイバー上での反撃能力を保有した日本の諜報機関――日本版NSAが設立されたのだ。
ローガンが所属する特殊任務部隊の役目はNCAへの協力及び監視である。
後者の目的は、第二のスノーデン事件を防ぐ事にある。西側諸国のインテリジェンス・コミュニティが最も恐れている事と言っても過言ではないだろう。
実際に、内部からのリークは珍しい話ではない。スノーデン以前にも、リスクを背負って自国の悪事を暴露した者もいれば、ギャンブルをする為の金欲しさにワシントンのソ連大使館に駆け込んだ愚か者もいるのだ。
本当に避けるべき最悪のシナリオは、米英の機密文書が日本から流出し、日本の情報機関の職員が東側諸国のメディアに出演し、日米英が共有する秘密を暴露する――という東側諸国の工作である。
東側諸国が日本政府のシステムにハッキングし、機密文書を摂取。内容をソーシャルメディアに投稿する。同時並行で日本の情報機関の職員を拉致し殺害。行方不明に見せかけて遺体を掩蔽しておく。後に、その人物がメディアで秘密情報を暴露している精巧なフェイク動画を拡散――日本と西側諸国との関係に亀裂が入るという事だ。
つまり、最も警戒すべきは内部からのリークよりも、それに見せかけた外部からの工作であるという事だ。職員の拉致は暴力的な手段を使ってくる事が予測される。その為、特殊任務部隊は暴力の保有が認められているのだ。
千代田区の内閣府庁舎から数十メートル離れた場所に位置するNCA本部へ到着したローガンは、サイバーセキュリティ課へと赴いた。
仲間への挨拶も早々に自分のデスクの前に立つと、一人の男が声をかけてきた。
「おはよう、ローガン」
「おはようございます。ボス」
ローガンが〝ボス〟と呼ぶこの男の名は、進藤零士。
年齢はローガンよりも一回り以上年上の五〇代後半だが、その筋骨隆々の肉体からは老いというものを微塵も感じさせない。
彼はNCAサイバーセキュリティ課課長にして、特殊任務部隊NCA支部部長である。
進藤零士という名は、厳密にはコードネームであり、本名は不明。ローガンも知るところではない。
「どうだ、一服行かないか」進藤は喫煙所がある場所を示すように、天井へ向けて指を指した。勤務開始まではまだ時間がある。
「ええ、行きましょう」
二人は屋上へと足を運んだ。灰皿の前に立つと、早速タバコに火をつけた。
「差し入れだ」進藤がローガンに缶コーヒーを差し出した。
「ありがとうございます。いただきます」
「昨日は、大変だったようだな。ただでさえ負担をかけているのに、いつもすまない」
「いえ、お互い様ですよ。謝らないでください」
ローガンの言葉に、進藤は申し訳なさそうに微笑んだ。
昨日の通り魔事件の事は、進藤にも報告が入っている。
その件にしろ、普段の仕事にしろ、ローガンの抱えている負担は彼のせいではない為、謝られる筋合いはない。彼の重圧を考えれば、なおさらだ。
進藤零士という男は、日本と西側諸国を繋ぐ橋の重要な分岐点に立っている。もしもどこかが断たれるような事があれば、日本は隣接する脅威に飲まれるだろう。
そうなる事を防ぐ為、彼は常に全体を見渡し、兆候を見つけ出して対処しなければならない。ローガン達を使って。
もしも部下が失敗した場合の責任は全て、彼にいくのだ。
ボスらしく、もっと偉そうにしていてもいいのではないかとも思うが、進藤はそういう人間ではない。だからこそローガンは長年、彼の背中についてきたのかもしれない。強靭で逞しくも、優しさの溢れるその背中に。
「この空も、なかなか悪いものではないな」東京の青い空を見上げたまま、進藤は言った。「今が有事だとは思えんよ」
「ええ、まったくです」
人々がバーチャルスクリーン横目に日常を過ごしている間にも、常に見えない戦いが繰り広げられている。ローガンも進藤も、NCA職員も、その最前線にいるのだ。
あの惨劇を繰り返さない為に。この青い空に、再びあの忌々しい黒煙が上がるような事が、もう二度とあってはならないのだ。
オフィスに戻ったローガンは早速、情報収集に取り掛かった。
諜報機関の業務はその名の通り、通信傍受や盗聴などのSignal・Intelligence――シギントを中心としたものだと思われており、実際にNSAやGCHQも、それをメインとしている。無論、NCAもシギントでの情報収集を行うが、業務の半分以上がOpen・Sauce・Intelligence――オシント。つまり、合法的に公開されている情報から適切なものを選び、分析を行う事である。この能力こそが、組織の最大の強みであり、西側諸国からも一目置かれているのだ。
日本のオシントがここまで強化された理由は東西冷戦にある。
米英を中心に西側諸国が対ソの諜報活動に熱を燃やしている中、日本は消極的だった。
米英がインテリジェンス・コミュニティに年々予算も人員も増大しているのに対し、日本は減少傾向にあった。吉田政権の時に改革に動いたが、帝国時代への転落を恐れた反対派の与野党から妨害を受け、さらには国民からは反対の声が上がった事で計画は次々と頓挫した。
二〇一三年の第二次安倍政権でようやく秘密保護法が制定された、それからスパイ法が制定されたのは一〇年以上先の二〇二〇年代後半である。
このように、様々な制約があった日本に出来た事は、最も低コストで手に入りやすい情報――ニュース・新聞記事・書籍・スピーチの内容・議事録などから情報を得る事だったのだ。二度のインテリジェンス改革が行われた後も、この傾向は受け継がれている。
「ローガンさん、ちょっといいですか」
隣で仕事をする女性職員がローガンに声をかけた。
「どうした」
「監視カメラのシステムなんですけど、このコード、何かおかしくないですか?」
彼女はモニターの向きを変えて内容を見せてきた。ローガンは身を乗り出して画面を凝視した。一度全体を見渡してから、彼女のデスクにあるキーボードを自分の元へ引き寄せ、慣れた手つきで操作をしてから、最後にエンターキーを押した。カチッ、と打音が力強く鳴り響く。正しく並べられているはずのコードが瞬時に分割され、その間から真っ赤な英数字の記号が出現した。
不正コードである。
「えっ」女性職員が驚いた様子で声を発した。
「マルウェアだ」ローガンは、座高を伸ばして前方奥の課長席にいる人物へ視線を送った「ボス」
自席を立った進藤が、神妙な面持ちでやってきてはデスクの画面を覗き込んだ。
「マルウェアか」
「ええ、擬態です。このコードと手口」
コードを睨みつけたまま思案した様子の進藤は、ローガンの言葉に小刻みに数回頷いてから、答えた。
「ああ、恐らくそうだ」
ロシア――とはあえて互いに口に出さない。
特徴が過去の事例と酷似しているだけであって、確定したわけではない。
決定的な証拠がない以上、断定は非常に危険である。
進藤は時計を一瞥した。既に一九時を回っている。そして、今日は金曜日である。
「大規模サイバー攻撃の線が濃厚か」
「あるいは、ウクライナの時と同様、何かの実験という可能性も」
「ありえるな……」言ってから、進藤はコードとの睨めっこを中断し、職員全員を見渡せるよう向き直った「みんな、聞いてくれ」
トラブル発生を察していたのか、ほぼ全員の視線が進藤に集まっていた。
「街の監視カメラにマルウェアを確認した。他にも仕掛けられている可能性がある。どこの仕業なのか、現時点では断定出来ない。あらゆる可能性を考慮して、ゴミの山まで細かく調べてほしい。どうしても帰らなければいけない事情があれば各班長に報告をしてくれ。この件は一度内調へ報告する為私はしばらく席を外す。何かあればローガンに伝えてくれ」
「はい」と、威勢よく返事をしてから、職員達は緊急事態への対応に取り掛かった。一部の職員が班長に頭を下げていたが、大半は残ってくれるようだ。
その様子を見届けてから、進藤はローガンに声をかけた「しばらくの間、ここを頼む」
「分かりました」
進藤は速足でセキュリティ課を後にした。彼が向かったのは、ここから数十メートル先にある内閣情報調査庁の本部。通称内調である。
一九五二年。当時は『内閣情報調査室』として、吉田茂によって設立され、内閣府庁舎内に存在していた。同組織は人的情報――Human・Intelligence――ヒュミントを担った中央情報組織。つまり、日本版CIAとして設立された。設立当初、その計画は頓挫したものの、安倍晋三による改革を経てようやくまともに機能するようになり、第三次大戦後の再改革により、日本版CIAと言われるほどに飛躍した。
各機関は必ず、内調を通して情報共有を行わなければならない。
内調への共有が行われた後に、緊急閣僚会議が開かれるはずだ。その際に、今すぐ敵を断定し報復を急ぐ愚か者が一定数出てくると予測される。
そいつらと首相を説得するのが、今回の進藤の最大の仕事である。
なぜなら、報復は最も危険な行為であり、いずれ軍事衝突に発展する可能性があるからだ。
報復の連鎖が続けば攻撃もエスカレートしていく。相手国の重要なインフラを破壊し、死者が出る。意図せずとも、二次的な被害でそのような事態になる可能性も大きい。または相手の工作によってそれが実現し、大義名分を得てしまうという事も考えられる。
無論、それは東側諸国に限った話ではない。どんな小国であっても、ハイブリッド戦であれば巧妙な戦略によって、超大国を追い詰める事が出来る。
我々は何か勘違いをしているようだが、米国であろうと、日本であろうと、その他の西側諸国であろうと、追い詰められれば軍事侵攻に踏み切り、超えてはならない一線を越えるという事は十分にあり得る。
核を保有した軍事大国の衝突――それ即ち、第四次大戦を意味する。
何としてでも避けなければならない事ではある。しかし、もしも最高指揮官から報復の命令が下った場合、ローガン達はその権威に従わなければならない。例えそれが世界の破滅に繋がるとしても。
いずれにせよ、今ローガン達に出来るのは相手の攻撃を防ぐ事である。
ローガンは一時間半に渡る調査の結果を進藤に報告する事にした。
カエサル、進藤零士に電話をかけてくれ――自分の脳に語り掛ける。
『承知しました』カエサルが返事をしてから、二度目のコールで進藤が応答した「もしもし」
「お疲れ様です。現時点での調査結果の報告です」
「頼む」
「監視カメラの他に、電力網や交通システムのいたるところからマルウェアが見つかりました。引き続き調査を行いつつ、解析及び除去に動く予定です。侵入形跡を確認したところ、FSBの可能性が高いです。IRAには目立った動きはありませんでした」
「やはりロシアの線が濃厚か……」少し間を開けてから、進藤は続けた「一応訊くが、ロシアだとして、狙いはなんだと思う」
「分かりません」
国内の混乱――政権の信頼失墜――ただの嫌がらせ――考えれば切りがない。
「それもそうか、とりあえずは了解した。報告感謝する。引き続き業務に取り掛かってくれ。私はこれから会議だ。終わり次第、結果を報告する」
「ええ、頼みますよ、ボス」
「ああ、任せてくれ」
二人は通話を終了し、それぞれの仕事に取り掛かった。
調査中、ローガンはこれまでのロシアの動きについて考えていた。
二〇一四年クリミア併合――二〇一六年米大統領選介入――二〇二二年ウクライナ侵攻――そして、二〇年代後半の英国総選挙介入である。これは、疲弊した国であっても他国に大打撃を与える事が出来るという事が証明された事例だ。
その戦略は米大統領選介入の時とは大きく異なっていた。
なぜか英国各地で黒人やイスラム教徒などのマイノリティが投票出来ないといった事態が発生した。SNSでは『保守党が投票操作をしている』『保守党は差別的』などの批判や陰謀論が大量に出回った。IRAのトロール部隊によるものだと思われる。
Internet・Research・Agency――通称IRA――ロシアのプロパガンダ企業である。またの名をグラヴセットと言う。同企業の創設、運営にはあのエフゲニー・プリゴジンが関わっていた。
二〇一六年の米大統領選では、当時で言うTwitterを利用して、ヒラリーを批判しトランプを称賛するツイートを大量に投稿。これが選挙結果にどこまで影響したのかは現在も定かではないが、米国に混乱を招き、大統領に不信感を持たせたのは事実である。
英国選挙介入では、何かしらの手段を使って投票を操作したと思われる。しかし、当時の英政府のほとんどがロシアの工作に気付く事はなかった。GCHQの一部の職員は疑いを持ちつつも、口にはしなかった。
確信を持てなかったからだ。実際、選挙システムは複雑であり、操作などほぼ不可能だった。ではどのような方法を使ったのか。残念ながら現在も分かっていない。だからこそ、ロシアだと断定は出来ない。無論ロシアは否定している。
選挙は労働党優勢で進んでいき、BBCなどのメディアも労働党の勝利はほぼ確実と報道した。
しかし、結果は保守党の勝利だった。何でも、集計に誤りがあったとの事だった。
マイノリティ投票不可の件もあり、国民は不正選挙だと英政府に訴え、それが暴動にまで発展。逮捕者は二五〇〇人を超えた。
実際に保守党は不正などしていなかった。だが、政権は国民の信頼を失墜する事となった。恐らく、ロシアの目的は達成されたのだろうと思われる。
この件以降、民主主義国は選挙の度に独裁国家の介入を恐れ、警戒するようになった。
昔の話。情報はメディアによって独占されていた。それがインターネットの普及により、誰もが多くの情報を手に入れられるようになり、自らの声を政権に届けられるようになった。アラブの春が起こった事もあり、テクノロジーは民主主義の味方だと思われていた。
だがそうではなかった。そのテクノロジーによって、選挙こそが民主主義の最大の枷となっているのだ。なんとも皮肉な話である。
進藤が再び姿を現したのは二時間後だった。
「遅くなってすまない」入ってくるなり、彼の元に職員たちが集まった。
「今回の件だが、一旦マルウェアの駆除に専念してほしい。NSS(国家安全保障会議)の方針としては、現時点では報復は考えていない。だが、自国に何かしらの被害が出てしまえば話は別だ。日本だけの問題でない以上、報復を検討せざるを得ない」射貫くような進藤の眼光が細められた。低く力強い声で彼は続けた。「何としても防がなければならない。報復するまでもないという事を見せつける必要がある。その為にみんなの協力が必要だ。今夜は徹夜を覚悟してほしい。本当にすまない」
「もうそのつもりですよ。見てくださいよ、このレッドブルとモンスター」若手の職員が愉快な口調で、エナジードリンクの山に指を指した。
「おいおい……」進藤の顔が、僅かに綻んだ。
「経費でいけますよね?」
「それぐらいなら私のポケットマネーから出そう」
若手を中心に、職員が互いに顔を見合わせながら歓喜の声を上げた。
「進藤さんにはこれどうぞ。私たちの奢りです」若い女性職員が進藤に缶コーヒーを差し出した。
「助かるよ。まさか五〇後半の年配にエナジードリンクを飲ませようと企んでいるではないかとビクビクしていたところだったんだ」
笑いが巻き起こった。
最後は一人が発した掛け声に全員が強く賛同してから、彼らは重大ミッションに取り掛かった。その様子を、ローガンは遠目から見ていた。
画面を見る職員の目に鋭さが増している。進藤が来る前よりも勢いづいている事が伺えた。彼の人望があってものだろう。自分では到底真似出来ない事だ。改めて尊敬の念を抱くローガンだった。
「ローガンさんはどれにしますか?」
さきほどの若い女性職員が声をかけてきた。その手には三種類のドリンクが握られていた。
「ありがとう。ブラックをもらうよ」
「はい」笑顔でローガンに渡してから、彼女も自分のデスクへと戻った。
早速缶を開ける。この時間帯のコーヒーは睡眠の質を下げる。徹夜での戦いはとっくに覚悟しているが、そんな考えがつい頭をよぎる。ローガンは全てを流し込むようにコーヒーを一気飲みしてから、再び業務へ取り掛かった。
数時間後には全てのマルウェアの除去に成功していた。これから問題が起こらないか――東側諸国が怪しい動きをしていないか――二四時間体制で監視を行い、何も起こらないまま月曜日を迎えた。緊急時の交代制で日勤に割り振られた職員が出勤し、現在、時刻は昼に近づいていた。
「みんな、今回も本当によく頑張ってくれた。とりあえず山は越えたと言ってもいいだろう。だが、相手の狙いが分からない以上、まだまだ油断は出来ない。また何かあれば夜勤組もすぐに呼び出す事になるかもしれないが、今はゆっくり休んでくれ。本当に申し訳ない」
進藤の言葉を最後に夜勤組は解散し、帰宅する事となった。
やれる事はやった。後は、これから何も起こらない事を祈るばかりだ。
自宅へ向かう前に、ローガンはNCA本部の近くにあるカフェに足を運んだ。
まっすぐ帰ればいいものを、喫煙所があるという希少性に魅力を感じてしまったようだ。睡眠不足による判断能力低下が、このような行動を招いたのだとローガンは自覚していた。
ブレンドコーヒーを注文してから、喫煙所にて一人、コーヒーと共に勝利の一服を味わう。
ガラス越しに店内の様子を眺めていると、見覚えのある人物が入店してきた。
松野だ。彼もローガンの存在に気付いたらしく、互いに掌を向け、遠目に無言の挨拶を交わした。このカフェでの彼との遭遇は珍しくはない。
注文を終えたのだろう。コーヒーカップを持った松野がこちらへ歩いてきては、喫煙所のトビラを横にスライドした。ちなみに、彼は非喫煙者である。
「よう」
「おう」ローガンが答えると、松野が横についた。
「だいぶお疲れのようだな。徹夜だったのか」
「ああ、まぁな」
「何かあったか」
「ああ、だが、一応何とかなった。まだ油断は出来ないがな。そっちはどうだ」
「それなりに苦戦しているよ。もう頭がパンパンだ」
「そうか」
互いの業務の都合上、何一つ具体的な事は口にしない。
それぞれが別の道に進むようになってから、このような抽象的な会話での近況報告が恒例となっていた。
「京也とは、どうだ。うまくやってるのか」
「それなりにコミュニケーションは取れていると思う。けど、最近は会う頻度がかなり減ったよ。あいつも何かと忙しいようだ。まぁ、もう二〇歳だからな」
「早いものだな」
「ああ、本当に」
天井へ向けてもくもくと立ち込める煙を見ながら、ローガンは時の流れの速さをしみじみと感じるのだった。
「昨日、世界銀行のデータが更新されてたんだ。またコンゴの乳幼児死亡率が下がっていたよ」
「そうか」
「ときどき、あの子の事を思い出すんだ。今も生きていれば、二十歳ぐらいだろうな。子供もいるかもしれない。生きて、幸せにしていればいいんだがな」
どこか遠くを見るように、松野は語っていた。
「どうだろうな」
無責任にきっとそうだ、とは口には出来ない。
その子はもうとっくに死んでいるかもしれない。仮に生きていたとして、罪のない人間を殺し、女性に性暴力を加えているかもしれない。もしくは、被害者として――その家族として、苦しみの喘いでいるかもしれないのだ。
コンゴ国――一〇年前の国名はコンゴ民主共和国だ。
その名の通り、ロクな国ではなかった。平和以外なんでもある国――女性にとって世界最悪の場所――まだそのように言われていた頃である。PKO軍の平和維持活動に二〇名の自衛隊特殊作戦群が参加する事となった。その一人が松野だった。
任務中、反政府組織がクーデターを起こした事で第三次コンゴ紛争が勃発。
武装勢力がPKO軍を襲撃し、自衛隊も数人が亡くなった。
松野は、帰ってきた。しかし、彼は隊を退職した。医師から心的外傷後ストレス障害――PTSDと診断が下った。松野の妻――松野恵美から連絡を受けたローガンは、彼の自宅へと訪れた。
インターホンを押してしばらくすると、扉が開いた。いつもは勢いよく開くはずが、今日は静かに開いた。出迎えたのは、京也だった。このときはまだ小学生だった。
「こんにちは、ローガンさん」
「やあ、京也」ローガンは京也の頭に掌を乗せた。いつもは元気にはしゃぐのだが、今日は違う。沈んだような口調と声から、子供なりに状況を理解しているのだという事が伺えた。
ローガンは京也の数歩後ろで立っている母親の存在に気付いた。松野の妻である。
無理やり作ったような笑顔で、彼女は第一声を放った。
「こんにちは。あの人は奥の部屋にいます」
ローガンは頷いてから、彼の書斎へ一人で足を運んだ。木製のドアの前に立つと、二回ほどノックをした。「俺だ」
「入ってくれ」ドアの向こうから許可が下りた事を確認したローガンは、一度息を深く吐いてから、ドアノブを引いた。
本棚が並ぶ小さな部屋で、私服姿の松野がデスクチェアに腰かけていた。ぐったりと疲れ切った様子で、ローガンに微笑みかけていた。
「よう」
「おう」松野が言った「そこにかけてくれ」
ローガンは彼が指示した椅子に腰かけた。
「来てくれてありがとな。悪いな、心配かけて」
「いや、いいさ。調子の方は、どうなんだ」
「ああ、お蔭様で、悪くはないよ」
「そうか」
どのような言葉をかければいいものか、ローガンは思案した。
言葉の候補が思いつくたびに、無神経ではないか、失礼ではないか、といった声が脳内のどこからか聞こえてくる。思いついては消してを何度も繰り返し、何も口に出来ないまま、ただ時が過ぎていった。
「話は聞いたよ。大変だったな」
慎重に言葉を選んだつもりだったが、口に出してから、やはりまずかったのではないかと後悔と不安の念に駆られた。
「ああ、まぁな」松野は俯きながら静かに答えた。太陽の光が差し込む窓の外に目をやると、続きを語り出した。
「その日は、仲間とアフリカの現状について語り合っていたんだ。コンゴの武装勢力。スーダン紛争。絶対的貧困……俺達に何が出来るのか、話し合っていた」
ところが、と口に出したとき、彼は表情を歪ませた。あからさまに不快感を露わにしていた。
「その夜、武装勢力の襲撃に遭った。梅澤に藤堂……目の前で仲間が死んだ。俺も、何人も殺したよ……必死だった。一人になって、常に敵が近くにいるような気がしてならなかった」松野の声は震えていた。話が進むにつれて、声がかすれていく。
暗闇の中の殺し合いだ――孤独で、さぞ辛かったろうに。心細かったろうに。
ローガンは、彼の話をただ黙って聞いていた。
「その時だったよ。少年兵に会ったんだ。カラシニコフを持った、小学生ぐらいの子に」
ローガンの頭に、三人の少年少女が連続して現れた。
一人は黒人の少年兵だ。先進国から流れてきたのであろう子供用の半袖半ズボンを身に着け、AK‐47を抱えるように構えている。その銃で自らの帰る場所を破壊する事を強要され、武装勢力の一員としてそこにいる。撃たなければ、やられる――そんな恐怖が表情から滲み出ている。
次に、京也の顔が思い浮かんだ。以前、サッカーをしている時に見せていた笑顔だ。あの時の彼は心から楽しみ、笑っていた。それが今はどうだ。どんよりと沈み切っている。
そして最後に、あの子が出てきた。十歳になったあの子が、ブロンドのポニーテールを揺らして、ローガンに微笑みかける姿が容易に想像出来た。
松野は、充血した目を隣の部屋に向けていた。彼がいるであろう場所に。
「あの子と同じぐらいの子に銃を向けなければいけないという事が、たまらなく辛かった」
彼の目から、大粒の涙が溢れ出た。
プロの軍人としてのジレンマに押しつぶされ、弱り切った父親の姿が、そこにあった。
子供といえども、相手はAK‐47で武装した兵士なのだ。
それは大人が発砲しようと、子供が発砲しようと威力は変わらない。
彼らは立派な脅威であり、適切な対処をしなければ、被害は拡大するのだ。
しかし、目の前で涙している男は、軍人である前に父親なのだ。
「なあ」と、声をかけられた。彼のその目は虚ろだった。「考えられるか? もしもアリスちゃんが……」言葉の途中で、彼はハッと目を見開いた。後悔しているのだろうか。まるで取り返しのつかない事をしてしまったような、そんな顔をしていた。
「いや……すまない……最低だ……! 本当に最低だ……!」
彼は膝に拳を叩きつけた。自分を諫めるように。何度も。力が込められたその二の腕に、ローガンは手を置いた。
「やめろ。気にしないでくれ」
彼は、その腕を力なく膝に落とした。再び、すまない、と謝罪の言葉を述べてから、静かに泣いていた。
数か月の通院を経て、彼の病状は快方に向かっていった。回復後、防衛省の伝手で刑事講習の推薦をもらい、試験に合格。現在はベテランの刑事として尽力している。
また、コンゴ民主共和国については、反政府組織のリーダーが政権を掌握した。新たな独裁政権が始まるかと思いきや、新大統領及び内閣は国内の改革に動いた。汚職を行った議員を次々と逮捕し、軍隊を使って武装勢力の排除に動いたのだ。
それは、第二のパトリス・ルムンバの登場を意味していた。
この十年で武装勢力の九割が壊滅。先進国と比べてまだまだ治安は悪く、絶対的貧困の割合も高い。状況は悪い。しかし、確実に良くなっている事は事実なのだ。
「なあ、聞いてるか? ――」
本名を呼ばれ、ローガンは我に返った。
「おい、その名前は口に出さないでくれ」
「ああ、悪い。ついな。というか、俺の話聞いてたか?」
「……いや、考え事をしていた。すまない。何の話だ」
「京也の事だよ」
「京也?」
「ああ、最近やたらと機嫌がいいんだ。好きな人が出来たんじゃないかって、恵美は言ってるよ」
「そうか」
ローガンには心当たりがあった。それらしき出来事に立ち会っていたのだから当然だ。
女の勘というやつだろうか。恐らく恵美の推測は間違っていない。
「彼女紹介してきたらどうするとか、嬉しそうに言うんだよ。まだそうと決まったわけじゃないし、気が早いんだよな」
とは言うものの、松野もまんざらではない様子だ。
「京也なら、いい子を連れてくるだろうな」
「そうだな」彼は楽しそうに微笑んだ。
松野と別れて飛行車の到着を待っている間、ローガンは先ほどまでの会話を思い返していた。
京也はあの娘――レイラとどうなったのだろうか。松野の話を聞く限り、上手くやっているように思えるが、具体的な事は分かりかねる。機嫌がいいと口にしていたが、それが彼女に関わる事だとは限らない。
普段はこのような話に微塵も興味を持たないのだが、幼少の頃から成長を見守ってきた京也となれば話は別である。しかも、相手まで分かっている。
メッセージでも送ってみようかと考えていた時、飛行車が到着した。
わざわざ文章を考えて返信を待つよりも、昼から酒を飲みたいという口実で直接店に出向いた方が早そうだ。
急遽予定変更である。ローガンは行先をあのバーに指定した。
ものの数分で到着。近くの駐車場に着地させてから、店までは歩いて向かう。
そういえば、今日は彼の出勤日なのか把握していない。仕方がない。不在であれば諦めて帰るとしよう。
ぼんやりとそんな事を考えていた道中、誰かがぶつかってきて、後方に退いた。
「あっ、ごめんなさい……」
ローガンも謝ろうとして、相手を見た。そして絶句し、固まった。
目の前にいたのは、ブロンドの髪の娘――レイラ・ハリスだったのだ。
偶然鉢合わせただけであればそこまで驚く事はなかっただろう。
だが、今回の彼女は前回とは打って変わって様子が大きく異なっていた。
目と鼻を赤くし、頬に涙が伝っていた。今も嗚咽を漏らしている。
互いの視線が絡み合うと、彼女は瞼を閉じ、声を出して泣き出した。
「お、おい……」
彼女へ、差し出すように手を伸ばしてみたものの、一体自分に何が出来るというのだ。
事情を聞くわけにはいかない。話せる状態ではないだろうし、話したがらないかもしれない。しかし、一つだけ分かっている事がある。目の前で泣いているのだ。放って立ち去るという選択肢はない。
とは言ったものの、ローガンの心の声は、どうしたらいいんだと嘆いていた。
周りを見渡す。案の定、通りすがる人々の視線がローガンの心に痛く突き刺さった。
だがその時、『スシロー』と書いてある看板が目に留まった。彼女と食べ物の話をした記憶が蘇る。
「な、なあ」
声をかけると、彼女はローガンを見た。瞬きを繰り返しながら、むせび泣いている。
こんな事で彼女の心が晴れるとは思わないが、誘いに乗ればいくらか楽にはなるだろう。
ローガンは例の看板に指を指して、言った。
「うまいもんでも、食うか」
「でも……」レイラは涙声で答えた。
どうやら躊躇っているようだ。よく考えてみれば、出会って間もない男。増してや自分の父親ぐらいの人間と二人で食事に行くというのは、若い子からしてみれば嫌悪でしかない。そのような当たり前の事を今になって気づいた。しかも善意でやっていたのだから我ながらたちが悪い。ローガンは愚かな自分を呪いながら、何と無しに後頭部をかいた。
「いや、悪いな。気が進まないならいいんだ。忘れてくれ」
「ううん! 違うの」レイラは首を左右に強く振った「行きたい!」
ローガンの目を真っ直ぐに見つめる彼女は、慌てて誤解を解こうとしているように見えた。
「お、おお……そうか。じゃあ、行くか」
レイラは深く頷いた。
入店して間もなく、ローガンは呆気に取られた。
これで何皿目だろうか。目の前にいる娘は次から次へと寿司を平らげていく。
鼻をすすりながら、ただもくもくと食べる。目もとはまだ赤い。
その姿は失恋後のやけ食いのようにも見える。
どうやらサーモンが好みのようだ。
「食うか」
丁度、彼女の好物が流れてきたので確認を取ると、案の定頷いた。
置いてやると、「ありがとう」とレイラは礼を述べた。
それを一貫口に運ぶ。もぐもぐと口を動かして味わっている。
「うまいか」ローガンの言葉に、レイラは頷いた。口角がわずかに上がっていた。
「そうか」答えながら、ローガンも頷いた。
彼女はさらに食べ続ける。表情が晴れていく。時々目が合う。そのたびに頬を膨らませたまま笑いかけてきた。
ローガンはというと、既に食事を終わらせていた。もう寿司への興味関心はない。とっくに満たされていた。腹も、心も。
あの日以来、十年以上も空いたままだった心の穴が狭まったような気がした。
「ご馳走様でした」
積みあがった皿の塔を前に、レイラは両手を合わせた。食べ終わったようだ。
ローガンは、手元のバーチャルスクリーンにある『お会計』を押した。計四五皿と表示された。その内、ローガンが口にしたのは一〇皿である。
「あっ、私払うよ。付き合わせちゃったし、たくさん食べたし」
「いや、気にするな」
「ううん、そういうわけにはいかない」
レイラも手元の操作をし始めたが、既に支払いは完了していた。
「さて、行くか」ローガンは立ち上がった。
「……ありがとう」
申し訳なさそうに言ってから、レイラも席を立った。ローガンの隣に並ぶ。
「ローガンさん」
呼ばれて、振り向いた。
「ごめんね、付き合わせて」
「いや、いいさ。オヤジにはこれぐらいしか出来ないからな。時間が許す限りはいくらでも付き合うさ」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」
「じゃあ、行きたいところがあるって言ったら、連れてってくれる?」
「国内ならな。どこに行きたい」
「葛西臨海公園」
「車を手配しよう」
旧式の車では千代田区から葛西臨海公園まで三〇分はかかっていたはずだが、全自動の飛行車を使えば数分で到着する。
二人は緑の広がる園内を歩いていた。立ち並ぶ木々を見ながら広場を散歩し、長い橋を渡り、浜辺を歩きながら海を見た。青く、どこまでも広がっている。吹き抜ける潮風を身体前進で感じた。
ローガンは軍人時代に南シナ海に来た事を思い出した。
あの時と同じだ。何度見ても圧倒されるものがある。巨大な力を感じる。全てを吸い込んでしまいそうなほどの、大きな力を。
「ローガンさん!」レイラが園内に佇む観覧車に指を指していた「乗りたい!」
「ああ、行くか」
「やった!」
再び足を進めた。はしゃぎながら彼女が前を行く。軽快な足取りで。
こちらへ振り返ってから、ローガンへ呼びかけた。「速く!」
「ああ」と、ローガンは頷いた。
観覧車に到着した頃には日が沈み始めていた。夕日で照らされたゴンドラの中を二人向かい合って腰かけた。
乗るのは何年ぶりだろうか。まさかその日がまた来るとは夢にも思っていなかった。
緩やかな速度で上昇していく。橙色に染まった東京と千葉の景色が広がっていく。
「あ、ディズニーだ」
「そうだな」
「ねえ見て、富士山見えるよ」
「ああ、本当だな」
彼女が見ているものへ目を向ける。無邪気で楽しそうな声を聞くたびに、ローガンは胸の高鳴りを感じた。
しばらくの間、二人は富士山を見ていた。
「私が小さい頃にね」窓の外に目を向けたまま、レイラが静かな声で言った「お父さんとお母さんと三人で観覧車に乗ったの。とても幸せだった。日本にいたときの、三人の最後の思い出」
彼女は、微笑んではいた。しかし、ローガンはその笑みに違和感を覚えた。
「なにか、あったのか」
「お父さんが亡くなったの」
「そうだったのか」
胸の奥でバランスを保とうとしている何かが、一度だけぐらりと揺れ動いたのを感じた。
同時に、やはりと腑に落ちている自分がいた。
「強盗に殺されたの。その人はとてもお金に困っていて、すごく追い詰められていたみたい。涙を流して、後悔してた。何度も謝罪をしてきた。手紙もたくさん送ってきた。多分、殺すつもりはなかったんだと思う。許す事なんか出来なかったけど、責める事も出来なかった」
三度目の大戦で世界経済は大混乱に陥った。多くの人間が貧困層に転落し、犯罪率は急激に増加した。彼女は無論、加害者であるそいつも、戦争の被害者なのだ。
戦争が人間を犯罪へと走らせる――これは紛れもない事実である。それをデータが証明している。しかし、人を殺していい理由にはならない。許せないのも当然だ。
彼女は立派だ。もしも自分が彼女の立場だったら――そいつを責めないという事が出来るだろうか? 恐らく、答えは否だ。
「全てが変わっちゃった。おうちでソファーに座っている時も、ご飯を食べている時も、日本に旅行に来た時も、今までとはまるで違う。別世界に来ちゃったみたい」
そう、全てに意味がなくなったような、何もかもが虚しい世界に訪れてしまったような、そんな感覚だ。
「ときどき思うんだ」彼女は再び、窓へと顔を向けた「もしもあのまま日本にいたら、お父さん殺されずに生きてたんだろうな、って」
そうかもしれない。ローガンも時々そのように考える事がある。あの時、あの場所を選んでいたら――と反芻する。そんな事をしたところで戻ってこないと分かっていても、だ。
「私、日本が好き」レイラが言った「食べ物はおいしいし、安全だし、アニメはおもしろいし。でも……」最後は弱々しく呟いた「でも、お母さんも大好き」
悲し気に、レイラは窓の外にある景色を見つめていた。
最後の言葉は一体何を意味しているのだろうか。
仕方なしに天秤にかけたような言い方だった。
「今日ね、私、京也君に酷い事しちゃった」
「何があったんだ」
今日の出来事という事は、彼女の涙と関わっているのだろうか。
酷い事をしたと言っていたが、レイラも深く傷ついてるように見えた。
ローガンと遭遇する寸前まであのバーにいて、そこで彼と何かがあったはずだ。
「この前、ローガンさんが帰ったあの後、仲良くなったの。最初は、かっこいい人だなとは思ったけど、仲良くしたいとかそういうのはなかった。でも話してみたら好きなアニメとか一緒で、話していてとても楽しかった。それに彼、気遣いが出来て紳士的だった。一緒にいて安心できた」
「そうだな」
まさに京也の事だと思いながら、ローガンは頷いた。
今のところ互いに好意的である。どのようにすればこの関係が悪化するのだろうか。
「もう、あのお店に行くつもりはなかったんだけど……どうしても彼に会いたくて、今日、行ったの。また話をして……それで、紙に書かれた連絡先を渡されたの。嬉しかった。嬉しかったけど、どうしたらいいか分からなくて、逃げちゃったの……ほんと最低」
なぜ――と思った。つい口に出そうになったが、寸前で抑え込んだ。
彼女の目が、赤くなっていく。涙を溜めている。こぼれないよう瞬きを繰り返している。
後悔し、自分を責めているように見える。
「なぜ、逃げてしまったんだ」ゆっくりとした口調でローガンは問いかけた。
しばらくの沈黙の後に、彼女は答えた。
「もう、会えないから」
「日本に来られなくなるのか?」
「うん……そう、そうだね。もう来られないね」
まるで思い出したような口ぶりである。他にも理由があるのではないだろうか。
訊いてみようと口を開きかけたが、やめた。あまり深くは言及するべきではない。
とは言え、このまま終わらせてほしくはない。きっと彼女も、後悔するはずだ。
「なあ」恐る恐るローガンは口を開いた「せめて、京也と連絡だけでも取ってやってくれないか」それから、彼女へ頭を下げた「頼む」
「私も京也君に会いたい。会って、謝りたい。また話をしたい」
「なら……」
「でも」と、レイラは首を横に振った「出来ないの。どうしても」
俯きながら彼女は、ごめんなさい、と涙声で言った。
一生かけても越えられない高い壁を前に絶望しているようだった。
自分ではどうにも出来ない事情があるのだろうか。ローガンには分からない。
踏み込むべきだろうか――いや――何を勘違いしている。自分はこの子の父親ではない。つい最近出会ったばかりの赤の他人なのだ。彼女は自分の助けを求めていない。事情を知ったとしても、恐らく、ローガンが解決出来る問題ではないのだろう。
「……そうか」
これ以上は、何も言えなかった。
観覧車を降りた二人は、ほとんど会話のないまま園内を歩いていた。
公園を出ると、ロータリーでは既に飛行車が待機していた。
ローガンがレイラに手配した車である。二人が近づくと、ドアがスライドした。
「帰りはコイツを使ってくれ。料金は心配するな」
「そんな、よかったのに」
眉尻を下げたレイラが、心苦しそうに言った。
「なに、オヤジの余計なお節介だ」
「……ありがとう」遠慮気味に、レイラが微笑んだ「今日、とっても楽しかった。最後にいい思い出が作れてよかった。本当に、ありがとね。ローガンさん」
「いや、礼には及ばない」
「ううん。そんな事ない。すごく感謝してる」
ローガンは彼女から視線を外し、何と無しに後頭部をかいた。
「そ、そうか……」
「うん。それとね、出来ればタバコやめてもらえると嬉しいな。私の前だと吸わないけど、でも、長生きしてほしいから」
「……善処しよう」
「もう」眉を八の字にしつつも、口角は上がっていた。困った人だとでも言いたげだった。
それから、彼女はローガンに向けて手を振った。
「バイバイ」
「ああ、じゃあな」
レイラを乗せた飛行車が走り去っていくのを見届けたローガンは、胸ポケットから、セブンスターを取り出した。一本を口に加え、火をつけた。
のしかかるように、煙が肺の中へ入り込む。毎回足りないものが満たされるような感覚を覚える。吸って味わい、吐き出す。たった三、四分程度の楽しみは、あっと言う間に過ぎていった。
残りの寿命が僅かとなったそれを地面に押し付け、近くにあるゴミ箱に投げ捨てた。十本以上残っている箱と共に。
二〇四〇年九月五日(水)
レイラと過ごした翌々日。一日の休みを挟んでローガンはいつも通り出勤し、仕事に着手していた。ひと段落したタイミングで、昨夜の事を思い出していた。
京也から連絡があった。やはりと言うべきか、内容は例の彼女の事だった。
レイラは二度、店に訪れた。彼女と何を話したのか、その内容をローガンに聞かせてから、彼は言った。
『それで、紙に書いて連絡先を渡したんだ。そしたら、悲しそうな顔になっていって、受け取らずに帰っちゃったんだ。俺、どうしてなのか全然分からなくて……何か、気に障るような事を言ったのかな。もしそうだったら気づかないとか、最低だよね』
彼も、自分を責めているようだった。いつもはハキハキと喋る彼だが、この日はずいぶんと声が落ち込んでいた。
ローガンは自分の思った事を、一部伏せて伝える事にした。
『あくまでも俺から見た感覚だがな、京也の接し方に問題があったようには見えなかった。多分、あの子の方で事情があったんじゃないか』
『そうなのかな』
『多分な』
それから沈黙が続いた。どうやら考え込んでいるようだ。
『もしもそうだったら、このまま終わりなんて嫌だよ。やっぱり、もう一度会って話がしたい。もしも傷つけるような事を言ったなら教えてほしいし、謝りたい』
『どうするんだ。場所は分かるのか』
『分からないよ。でも明日、探すだけ探してみる。ストーカーみたいで自分でも気持ち悪いって思うけど……行動しないで諦めたら、きっと後悔すると思うんだ。それで見つからなかったり嫌がられたりしたら、その時は今度こそ諦めるよ』
気だるげだった声に、わずかに活気が宿っていた。
昨日のレイラを思い出す――『出来ないの。どうしても』
彼女は、自分の力ではどうにもならない現実を、全てを受け入れているように見えた。これ以上、踏み込む事は出来ない。踏み込むべきではないとローガンは悟った。もしも、京也が行動を起こそうとしたら、それこそ、彼も彼女も心に傷を負う事になるのではないだろうか。
では、勇気を振り絞り、これから動き出そうとしている若者をローガンは止めるべきなのだろうか。決まっている。そんなのはクソくらえだ。
『そうだな。若いうちなら大抵の事は許される。やるだけやってみろ』
『うん、ありがとう。おっとっ……』
ドン、と音が聞こえた。バランスを崩したのだろうか。何かにぶつかったようだ。
『おい、大丈夫か』
『……うん、大丈夫。ちょっとめまいがしただけ。なんだか身体がダルくて。今朝は調子よかったんだけど』
はは、と彼は力なく笑った。気だるげな声の原因はレイラの件だけではないようだ。
『そうか。今日はゆっくり休んでくれ。十分な睡眠を取って、万全な状態で挑むんだ。いいな』
『はい、そうします。言っとくけど、ローガンさんもだよ?』
『善処しよう』
『必ずだよ。おやすみ』
『ああ、おやすみ』
日付が分かる前に、通話を終了した。
そして今日、現在の時刻は一二時。今頃、京也は彼女を探しているのだろうか。
コーヒーでも飲もうと立ち上がった時だった。
「ローガン」進藤である。
「ボス」
「一服行こう」彼は誘い文句と共に、天井へ向けて指を立てるという、いつものポーズを取ってみせた。
「すいません。やめておきます。コーヒーなら喜んで」
「まさか、禁煙か」進藤が目を見開いた。
「ええ、まあ。まだ三日目ですが」
「何か、あったのか」
「ええ、まあ。また今度、話しますよ」
そうか、と微笑してから、彼はローガンの肩を叩いた。
「おっと、すまない。電話だ」
彼はローガンから向きを変えると、「はい、進藤です」と電話に出た。
僅かな受け答えの間に、進藤の顔がみるみる険しくなっていく。
「はい、すぐに出ます。失礼します」進藤はその鋭い目をローガンに向けた「緊急閣僚会議だ。しばらくの間、ここを頼む」
「分かりました」
進藤は急ぎ足でセキュリティ課を後にした。
一体何が起きたのだろうか。
先週のマルウェア――大規模サイバー攻撃に関わる事だろうか。
または、別の組織が怪しい動きを見せたという事もあり得る。
いずれにせよ、現状では進藤からの報告を待つのみである。
それから一時間が経過した。
「ねえ、みんなこれ見て」一人の女性職員が周囲へ呼びかけた。自分のモニターに目を向けるよう促している。ローガンは真っ先に近寄っては、彼女の隣で画面に目を通した。
SNSのタイムラインである。
『日本で新たな感染症が確認された』
『英国の生物兵器だ!』
『白人だけ感染しないようになっている』
『米国も開発に関わっている』
投稿内容や急速な頻度、見覚えのあるアカウント――これはIRAのトロール部隊である。
しかし、発信頻度もアカウントも、これまでと比べて各段に多い。
恐らく、二〇年前のコロナウイルスと同程度である。
多少の混乱を招く事は出来たとしても、実際にパンデミックが起こっていない以上、世間を騒がすまでには至らないだろう。また、鎮静化も早い。
仮に、何かしらの感染症が流行していたとしても、『生物兵器』といった類の陰謀論については、例のコロナウイルスによってとっくに免疫がついている。
故に、ここまでの規模でプロパガンダ合戦を行う事にメリットがない。
我々の理解が及んでいないところで既に何かが動き出しているのだろうか。
まさか――と、最悪のシナリオが、ローガンの頭をよぎった。
いや、さすがにそれは相手側にとってもリスクが大きすぎる。自身への被害は免れないのは無論の事、国際社会から多大なる非難を浴びる。隠し通す事はほぼ不可能だろう。
しかし、人間が――国の指導者が常に合理的な決断をするとは限らない。愚かな決断を下すのは珍しい事ではない。事例は腐るほどある。
とは言え、調べてみない事には分かりかねる。
「ボスは現在会議中だ。ここは一旦、情報収集に取り掛かる。一斑は投稿内容の分析。二班は専門家へ問い合わせを。三班はデータの収集。五班は局内の侵入形跡を調べ上げると同時に、FSBの動向を探ってくれ。また、何か異変が見つかったら必ず報告してくれ」
はい、と返事をしてから各職員は各席へと散っていった。
ローガンも自身の業務に取り掛かろうとした時、脳内で着信音が鳴った。進藤からである。
「はい、ローガンです」
「ローガン、すぐ第二会議室へ来てくれ。緊急事態だ」
「はい」と、一言返事をして通話を終了した。指定された場所へ足を進める。
妙な胸騒ぎがする。ひどく不吉な予感だ。
ローガンの足は、鼓動と共に自然と早まっていった。
正体不明の何かが動き出している。完成させてはならないパズルのピースが今、揃おうとしているような気がした。
いずれにせよ、良い知らせではない事は確かだ。
やはり、さきほどのIRAと思われる投稿が関わっているのだろうか。
何も知らされていない現段階は断定出来ないが、恐らくその可能性は高い。
ローガンは第二会議室の扉を開いた。
「失礼します」
「来たか」
室内には進藤の他、四人の男女――特殊任務部隊の面々がいた。
異例のNCA支部メンバーの緊急招集。事態の深刻さが伺える。
「全員揃ったところで早速本題に入る」進藤がいつにも増して重々しい口調で面々に告げた「さきほど閣僚会議で内調から報告があった。日本で感染症が流行し始めている」
聞き覚えのある単語が進藤の口から発せられ、ローガンは眉をひそめた。ひとつのピースがハマったような気がした。
「感染者のカエサルがウイルスを感知し、ユーザ及び医療機関に通知がなされた。カエサルのデータによると、現在の感染者は約一〇〇人。これからも増える見込みだ」
「あの。質問いいですか」メンバーの一人――眼鏡の若い男が挙手をした。
「なんだ」
「その、感染症と言うのは……?」
眼鏡が恐る恐る尋ねると、進藤は視線をより鋭くしてから、いきり立つものを抑えるように答えた。
「天然痘だ」
たったその一言で、場が凍り付いた。
「なんだと……!?」
言葉に怒りをにじませ、ローガンは拳を固くした。
いくつか想定したものの内、最も当たってほしくない予測が当たってしまった。最悪のシナリオが今、実現しようとしている。
「敵の意図を推測するに、恐らく西側諸国と日本の関係に亀裂を入れる事が目的だと思われる」
そう告げる進藤に、ローガンは「ボス」と切り出した。
「なんだ」
「IRAのトロール部隊かと思われるアカウントから感染症に関する大量の投稿を確認しました。既に、宣伝戦・情報戦が展開されています」
「やはりそうか」力強く答えてから、進藤は告げた「実は、妙な事が起こってな。ロンドンでも何人か感染者が出たんだが、それは全員、アジア系やアフリカ系、アラブ系だった」
この場にいる全員が、目を見開いた。それは確かに、妙な結果である。
「何人もの白人に濃厚接触者判定が出ているが、誰一人として感染していなかった。遺伝学者の調査によると、ウイルスに編集の形跡があったそうだ。現在解析中だが、恐らく、白人には感染しないようゲノムを編集したのだろうというのが研究者たちの現段階の見解だ」
「そんな事が出来るのですか」ローガンが訊くと、進藤が頷いた。
「私も詳しい事は分からんが、現在の技術であれば理論上は可能だそうだ」
「デザイナーウイルスってやつか」一人が言った。
「ねぇボス」メンバーの一人――ウサギを連想させる帽子を被った小柄な女が、発言した。
「あたし化学とか遺伝学とかよくわからないんだけどさ、英国も天然痘保有国でしょ? そこから漏れた可能性はないの? 同盟国とは言えさ、アイツら何やってるか分からないじゃん。スノーデンが言ってた件もそうだし」
「ああ、言葉を選ばなければ、確かにその通りだ」進藤が頷いた「しかし、このデザイナーウイルスを作成したのは英国ではないと私は見ている」
「どうして?」ウサギ頭が首をかしげた。
「第一に、あまりにも露骨すぎる。二十年前の英国総選挙の不正疑惑で保守党は未だに批判を浴び続けている。それほどの事件だったからな。第二に、メリットがない。当然、研究への予算は限られている。国際社会や国民から避難を浴びるリスクのあるものを、わざわざ作る余裕などない」
「あぁなるほどね。ありがとう、ボス」
「とはいえ、だいたいの予測はついているものの、犯人がまだ明確化したわけではない。しかしそれも時間の問題だろう。現在、内閣は同盟国と東側への対応を検討中だ。保健省はWHOと連携し感染症の調査を行っている。防衛省はカエサルに従って感染者と思われる人間の特定及び隔離に動いている。NCAについては、東側の動向――特にFSBを警戒しつつ、引き続きIRAの投稿内容の分析・削除依頼に動いてもらう。そして我々の仕事は感染源の特定だ。一刻を争う」
彼に頷いてから、特殊任務部隊の面々は会議室を後にした。
そう、事態は一刻を争うのだ。今回の事件は軍事衝突を招きかねない。
下手をすれば、灼熱の悪魔が飛び交う最悪の四五分が始まる。
しかし、そうはさせまい。もうスパイ天国だのデジタル後進国だのと揶揄されていた弱腰の日本ではないのだ。思い知るがいい、日本の技術を――力を。
日本の精鋭部隊が訪れたのは、NCA特別調査室である。
カエサルが算出したデータを元に、監視カメラ、衛星画像、レーダーなどあらゆる手段を使って捜査が行われた。
特定は、早かった。
流石精鋭部隊と言うべきか、尋常でない早さで捜査は完了した。
全自動飛行車にて、ローガンは感染源を確保すべく、現場へと向かっていた。
その目は、虚ろである。魂が抜けたように、強い脱力感が彼を襲っていた。
昨日の昼に出発したロンドン行きの便が、ヤツの名で予約されていた。
しかし、監視カメラを確認したところ、なぜかヤツは空港に現れなかった。まだ日本にいる。
ヤツが映った別の映像を前に、進藤が言った。
「行けるか、ローガン」
「はい」真顔で答えた。尊敬する上司に対し、ここまで覇気のない返事をした事がこれまでにあっただろうか。
アカウントを特定し、人工衛星とヤツのブレイン・インターフェースを接続する事で現在地を測定した。GPSが示していたのは――葛西臨海公園だった。
「京也……」
何の罪もない青年を思い出し、ローガンはその名を呟いた。彼の両親であり、己にとっての友人二人の顔も頭に浮かび上がってきた。
「松野……恵美……」
『間もなく到着します。インテリセプターの使用申請を承認。ロックを解除しました』
解除の音が、ローガンの耳を叩いた。
手にかけようとしたが、後でいいと思った。相手は必ずしも凶器を持っているとは限らない。
ドアがスライドし、風と共に巨大な鉄の車輪が、目に飛び込んできた。
ここに、いるのだ。もう二度と会う事はないだろうと思われた、あの子が――いや、違う。ヤツがいるのだ。もう後に戻る事は出来ない――
「進め。アルゴリズムが示す方へ。賽は投げられた」
芝生を一歩一歩踏みしめ、近づいていく。
あのゴンドラのどれか一つの中にいるのかと思いきや、それはゲート前にいた。
ブロンドの長い髪の娘が、ベンチに腰かけていた。誰かを待っているようにも見える。
近づいてくる男の存在に気付くと、彼女は驚いた様子で口を開けた。
「ローガンさん?」
一度立ち止まってからローガンは、目の前にいるレイラと名乗っていた女をまっすぐに見つめながら、告げた。
「警察だ」バーチャル警察手帳を相手へ提示し、続けた「レイラ・ハリス――いや、アーリャ・ヴォルコフ。天然痘の健康保菌者だな。重傷害罪・公文書偽造罪・不法入国の容疑で逮捕する」
不意を突かれたように、彼女は表情を強張らせた。その顔には僅かに恐怖が交っていた。怯えているようにも見える。それでも、ローガンは畳みかける。
「レイラ・ハリスという名の英国人女性のパスポートを偽造し不法入国したようだが、実際はモスクワ大学に通うロシア人だな。母親がFSBの職員だという事も調べがついている」
レイラ改め、アーリャは力なく視線を落とした。肩が脱力していくのが分かる。
何もかも諦め、疲れ切った様子で微笑んだ。
「そっか、そうだったんだ」顔を上げ、再びローガンを見た「うん、全部当たり。ここにいたら、いつか警察が来るんじゃないかと思ってた。でもそれがローガンさんだとは思わなかった」
「なぜ、昨日のロンドン行きの便に乗らなかった。それに乗っていれば、恐らく逃げ切れただろう」
「うん、多分ね」アーリャは頷いた。「でも私、もうたくさん人を傷つけたから。これからもそう。亡くなる人も出てくる。私は、人殺し。もしかしたら、京也君の事も……そんなの、耐えられない」
何をしている。
彼女は、隣に置いたミニバッグに手を入れた。二〇代の女性が好みそうな、レーザーのバッグだ。そこから取り出したのは、銃だった。
彼女はそれを自らのこめかみに当てた。
「やめろ!!」
思わず、ローガンは走り出そうとした。あの銃を取り上げる――ただその考えだけが先行していた。
「来ないで!」気の張った声と共に銃口を向けられ、ローガンは立ち止まった。
凶器が彼女の頭から離れた事に安堵を覚えたが、それは一瞬にして消え去った。
今は自分が死の淵に立たされている。困った事に、彼女の手によって、その立場が逆転する事も十分にあり得る。
「銃を下ろしてくれ」
彼女は首を横に振った。
どうする。
過去に何度も修羅場を潜り抜けてきた。プロの軍人やテロリストと対峙した事さえある。しかし、今の状況はそれとは違う。
『敵意を確認しました。インテリセプターを構え、戦闘態勢に入ってください』
警告音と共に、カエサルからの指示がローガンの脳内で鳴り響いた。
しかし、彼がホルスターに手を伸ばす事はない。手が動かないのだ。まるで誰かに抑え込まれ、止められているかのように。それは誰か。ローガン自身である。
『繰り返します。インテリセプターを構え、戦闘態勢に入ってください』
警告音が鳴り続ける。
『繰り返します。インテリセプターを構え、戦闘態勢に入ってください』
圧力をかけるように、音量を数段上げて三度目の指示がなされた。
ローガンは拷問を耐える思いで歯を食いしばると、ホルスターのインテリセプター強くに握りしめた。最大限の力を込めて持ち上げ、その銃口を彼女へ突きつけた。
「頼む。撃たせないでくれ」
今まで幾度となく行ってきた動作である。
しかし、今のローガンにとって、それは何よりも重かった。
呼吸は荒く、鼓動が早くなっていく。
手が震える。標的へ照準を合わせようとするも、定まらない。
あの子が出てくるのだ。なぜかだかアーリャの顔と重なる。七歳のあの子が、満面の笑みを振りまいて、嬉しそうに言うのだ。
『パパ!』
アーリャを見るたびに、たびたび思う事がある。
もしもあの子が、まだこの世に存在し続けていたのならば、きっと――
そのとき、ローガンはハッと我に返った。
余計な事を考えるな。
いいか! 目の前にいるアイツはあの子じゃない。ロシアの生物兵器なんだぞ!
「ごめんね、困らせてばっかで」
目を赤くし、絞り出したような涙声でアーリャが言った。
「ああ、本当にそうだ。お前には困らされてばかりだ」
「うん。ほんと、ローガンさんは優しいよね」
こちらに銃を向けた彼女も、震えていた。声もその手も。
乱れた呼吸は、嗚咽へと変わっていった。頬に大粒の涙が伝った。
「俺は、優しくなんかない」
強大な力を持った存在から駒として利用され、なすすべもなく泣いている少女に、自分は銃を向けているのだ。優しいはずがない。ただの無力な男だ。
「ううん、優しいよ。まだ知り合ってすぐだったのに、何時間も付き合ってくれた。近づき過ぎないで、傍にいてくれた。京也君の事も、とても気にかけているのが分かった。大切にしていた。でも、それを私が壊した。彼を傷つけるって分かってたのに、近づいた。彼の事が好きだったから。ごめんね、ごめんね……」
涙を流したまま、彼女は瞑目した。
「それは本人に言うべきじゃないのか」
レイラは首を横に振った。「言えないよ。私にそんな資格はない」ローガンに向けていた銃を、引き寄せた「もう決めたの。終わらせるって。それがせめてもの償い」
言い終えた彼女は、微笑んでいた。無理して作ったような、悲しみに歪んだ笑い方だった。
そうはさせない。勝手には終わらせはしない。
もう一度、京也に会ってもらう――生きて罪を償わせる。
引き金を引こうとするタイミングが勝負だ。動きが止まるその一瞬に発砲し、相手の銃を破壊する。凶器へ照準を合わせようとしたとき、彼女の手からそれが離れた。
落下していく銃には目もくれず、ローガンの元へ駆け寄ると、彼の固く厚い胸へ飛び込んだ。
「おい……」
レイラの腕が、腹部に強く食い込んだ。ローガンは彼女を引き寄せるでも拒絶するでもなく、武器を持ったまま、ただ両手を浮かせていた。
ローガンの胸に顔をうずめたまま、アーリャが言った。
「お願い。少しの間だけでいいの。すぐ終わるから」
離れるよう促そうとしたが、やめた。彼女が望むのであれば受け入れよう。
いたいけな娘を演じて自分を罠へ誘い込もうとしている可能性は否定出来ない。本当にそうだとすれば、とんだ間抜けである。何が特殊部隊だと嘲笑される事になるだろう。
だが、それでもいい。
ローガンの頭に、アーリャの笑った顔が思い浮かんだ。一緒に食事をしたとき――観覧車に乗ったとき――少なくとも、あの時の彼女は心から微笑んでいたはずだ。
彼女の背に、そっと手を添えた。自分へ引き寄せるように。
「ローガンさん」アーリャが顔を上げた。互いの視線が絡み合う。
「なんだ」
「会えてよかった。本当に感謝してる。ありがとう」
眠ったように、彼女は目を閉じた。頭部からジュッ、と肉が焼かれたような、生々しい音が聞こえた。
「おい……! どうした……!?」
彼女の身体から力が抜けていく。倒れる寸前でローガンが支えた。嫌な予感がした。
「おい!! 起きろ!! アーリャ!! 起きろ!!」
そのまましゃがみ込んだ。強く揺さぶる。呼びかける。が、反応はない。嘘だ。気絶しているだけだ。
顔から血の気が引いていく。首元に手をやる。脈がない。指先に感覚を集中する。やはり脈がない。体温が抜けていくのを感じる。それは、生命活動の停止を意味していた。
「くっそ!!」
やり場のない怒りと共に拳を地面に叩きつけた。
アーリャ・ヴォルコフは、ローガンの胸の中で安らかに眠っていた。
後に、病院にてアーリャ・ヴォルコフの死亡が確認された。
彼女の遺体は検視・鑑識が行われた後、死後処理についての話し合いが日本とロシアで行われる事だろう。彼女がロシア人だという証拠は山のようにある。言い逃れは出来まい。
ロシアに移送し、家族の元で埋葬されるべきである。
アーリャ・ヴォルコフという名のロシアの娘は、誰よりも日本を愛していた。
何度も日本に訪れていた。日本の食事を好いていた。祖国でも日本の娯楽を楽しんでいた。日本語で会話をし、日本人の青年に恋をした。
そんな彼女は、日本で生物兵器テロを起こした。ロシアのテロリストとして――日本に災いをもたらした悪魔のような女として、歴史に名を遺す事だろう。
被害者である京也は現在、隔離施設で療養中である。松野も、妻の恵美も、同様である。三人とも意識はないそうだ。回復する事を願うしかない。
今回の事件について、早速安全保障理事会が開かれる事となった。無論、開催は国連常任理事国ではあるのだが、その中心にいるのがインドである。実質、第六の常任理事国と言っても過言ではない。
ロシアへの制裁及び対応について話し合いがなされるのだろうが、これまでのように経済制裁という常套手段では済まないだろう。とは言え、追い詰め過ぎれば最悪のシナリオを招く事となる。それは歴史が幾度となく証明してきた。
やはり重要となるのが落とし所である。
恐らく、米国では適切な措置は不可能だろうが、インドであれば、まだマシな方向へと導く事が出来るかもしれない。
さきほど進藤から、どうやらインド首相が総理に会いたがっており、緊急バーチャル首脳会談が行われるらしい、という情報を得た。
既に考えがあるのだろうか。それが平和的な解決策であればいいが。
大規模な殺し合いだけはもううんざりだ。
NCAの屋上で、ただ一人、ローガンは夜空を見上げていた。星一つない、都会の黒々とした空であるが、これも悪くはない。
胸ポケットから新品のセブンスターを取り出した。
もう、辞める理由はない。
ローガンは二日ぶりにタバコを吸い始めた。
二〇四〇年九月五日のこの日は戦勝記念日である。
日露のハイブリッド戦において、日本がロシアに初めて勝利した日である。
・参考文献
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来
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2030年:すべてが「加速」する世界に備えよ
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ウクライナ戦争は世界をどう変えたか 「独裁者の論理」と試される「日本の論理」
https://amzn.asia/d/7PuHyq5
台湾有事のシナリオ:日本の安全保障を検証する
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日本インテリジェンス史-旧日本軍から公安、内調、NSCまで
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