人間嫌悪、アパシー、疲労
ここしばらく私の心を満たしているのはただひたすらアパシーと疲労である。
事の発端を敢えて見出すとすればそれは友との対立だろうか、私はここで人間の言わば動物的な浅ましさを目撃してしまった。呑み屋の座敷でもないので事を仔細に陳述することはしないが、つまりは他人の精神を轢殺してまで自らの希望を押し通したいという心理に触れてしまったわけだ。
私は何もここで正義とか悪とか、そういう高尚なことを話題にしたいのではない。話題にしたいのはその動物性なのだ。
人間の行動における理性は欲求をその源泉としている。仮に人間が欲求を欠けばそもそも物語は始まらないであろうし、欲求を実現するために理性という腕を働かせ得るのは至極当然な話であるから、そのこと自体は問題ではない。問題なのは腕の使い方だ。ある欲求に駆られそれを実現しようとするとき、大抵人は何らかの障害に直面する。それを乗り越えようとする場面はまさしく理性の仕事場なのであるが、その理性の仕事があまりにもお粗末であれば結果的にその人は欲求を押し通しただけの動物に等しいと言っても差し支えなく、私はそんな一連の行動とその人を大変残念な目で見ることになるのだ。敢えて型にはめていうならば「失望」であろうか。
ここで確実にしておきたいのは、私が他人の知性の低さを見下す知性至上主義者ではないということだ。理性の働き具合、というよりその細かさたる知性は、人によって当然差がある。このことは確固たる事実であるが、それに対するわたしの解釈は、一長一短なのではないかいうことに尽きる。というのは、知性が高い人は身体的精神的な負担をそうでない人以上に強いられるという話を耳にしたことがあるからだ。知性が低い人は何かを成し遂げるときに困難を伴い易いかもしれないが、その分健康である。一方知性が高い人は何かを成し遂げる比較的高い可能性、ポテンシャルを持っているかもしれないが、同時に不健康という負担を背負っている。この問題についてはより詳細な検討が可能なのかもしれないが、少なくとも今の私の立場は先述の通りであって、ある人の好悪に知性の高さが直接的にかかわることはない。
しかし、こと欲求の実現が他人の生活の侵害に関わるようであれば話は別である。ある欲求を実現しようとしてそこに他人の生活という障害があったときに、「この程度理性による仕事を施せば足りる」という際の「この程度」が大変お粗末なものであれば、私は不愉快を感じる。本人にとってはその一連の思考によってなんら障害なく欲求を実現できている、と引っかかりなく納得しているのであろうが、私にとってはその思考がもはや人間の皮を被った異なる生命体のものように感じられ、心情としてはすこぶる気色が悪い。
もちろん世間には過失という概念があるから、そこに弁解の余地を与えないのは横暴である。だから私はその人に悪意がないであろうときその結果防止措置の欠陥を指摘してみせるのだが、そこで他人の生活の侵害を許容している、あるいはもはや気にも留めていないことが判明すれば、その人がもはや同じ人間なのかを疑ってしまう、つまり人間性を疑うことになる。
私は他人との友好的付き合いにおいて重要な役割を演じているのはその人の人間的な興味深さであると考えている。この人は何をするのが好きなのか、世間のどんなことに関心を抱いていて、この痛苦に満ちた世界をどういう哲学で生きているのだろうか、とか。だからその人の人間性に疑いが生じれば、そんな興味も全て色あせてしまう…。
先述したいさかいで私はこれまで付き合ってきた多くの友に対する興味をほぼ完全に失ってしまった。この世界において人間関係というのは大きなウェートを占めているから、私は世界に対する興味の相当な部分を失ったことになる。そこで私は夜の街をさまよったり、他の集団の中で新たな人間関係を築こうとしたり、ネットにおいて他人との交流を深めようとしたり…とにかく短期間のうちに浮浪者のごとくいろいろなコミュニティと交わろうとしたわけであるが、はっきり言って今から新たに自己紹介から始め人間関係をジェンガのごとく築きあげることは私のバイタリティーを著しく消費するように思われた。そこで私はこの世界に対するすさまじいアパシーに陥った。
この重たいアパシーを引きずりながら私はこれから先何十年も生き続けなければならないのか、それにしては過去にも、当然今にも糧が無さすぎる、しかし私には強すぎる正義感と似合わない自己犠牲精神や良心を本質とした使命のようなもの(ことわっておきたいが暴力革命のような危険なものでなく職業に関する個人的な使命だ)がある…。
心労が私をこの狭い部屋に縛り付ける。