確認
●
二人がやってきた高級住宅街は、自然豊かで、そこにある家は一つ一つが大きく敷地面積も広大であるという地域だ。また、近くに大きな公園もある。早朝は人気が少ない場所であるが、自然が豊かで景観が良いので朝のジョギングや散歩をしている人間が少しはいる。そんな場所をアストロとハロウは散歩のふりをして歩いていた。
「くーん。くーん」
ハロウが完璧な犬の演技を披露しながら歩く。
「…………」
「はっはっはっはっはっは」
「……おいで」
「わん」
アストロは人気がないことを確認すると、ハロウを呼び、道にしゃがみ込む。そして万が一、通行人がやって来てもいいように、ハロウの頬っぺたや首をむにむにしながら小声で話しだす。
「なにしてるんですか? 全然、駄目犬感出てないじゃないですか?」
「く~ん?」
ハロウはむにむにマッサージされて嬉しいので笑顔で首をかしげる。
「どうして私の後ろをいい子してついてくるんですか? それでは躾ができてる犬でしょう? 駄目犬はもっと自分の本能のままにあちこち行くものです」
「そうなの? でもこれには浅い理由があるんだ」
「深い理由はないんですね」
「深い理由は話しても納得しにくいでしょう? でも浅い理由なら納得しやすいよ?」
「……で、その理由はなんですか?」
「考えてみてくれればわかると思うんだけど、俺って今、全裸なんだよね。そしてこのままアストロの先を歩いてしまうと、全裸の四つん這いで好きな人の前を歩くことになるわけよ」
「……確かに。それで喜んでいたら、変態性が研ぎ澄まされますね。そういう理由でしたら仕方ありませんね。……計画を変更しましょう。私も呪素の近くに長くいたくないので、目的地の近くで粘らないようにしましょう」
「わかった。せっかくのむにむには惜しいけど、散歩再開しようか」
「してほしいなら、またしてあげますから」
「わかった!」
ハロウはキリッとした顔で答える。
「……よしよし。行きますよ」
アストロはハロウを一撫でして散歩を再開する。ハロウも今までどおりアストロの後ろについて行く。
「わふ~ん。わふ~ん。……くんくん。くぅ~!」
「なんか私の匂い嗅いで喜んでませんか!?」
「くぅん!?」
ハロウは柴犬の姿で首をかしげる。
「かわいくしても誤魔化せませんよ。今回は許しますけど、セクハラと感じれば訴えますよ?」
「ふっ。全裸で捕まったことある俺は、裁判など怖れない!」
都会にきて初日に、全裸で牢に入ったハロウは、社会的信用の観点から攻めても無駄だ。
「私からの好感度下がりますよ?」
「なん……だと……?」
「そこで驚けるのに驚きます」
「じゃあ許可をください! フリーくんかくんかの許可を!」
「まさか許可を求められるとは。……あと要求が大きいですね」
「べつにわざわざ近づいて嗅ごうとしているわけじゃないんだ。常識の範囲内でくんかくんかしたいだけなんだ!」
アストロを説得するため、ハロウが情熱をこめて話す。
「う~ん」
アストロは唸る。その様子から絶対駄目ではなさそうだ、と感じたハロウは説明を加える。
「考えてほしい。俺がアストロの匂いをくんかくんかしないと仮定する。するとどうなると思う?」
「普通になる?」
「違うよ! アストロの匂いはただ空気に混ぜって消えていくんだ。なんともったいないことか! でも俺が吸い込めば俺が幸せになる。どちらが良いかは考えるまでもないよね?」
片やハロウが幸せになり、片や誰も幸せにならない。
「私のメリットがないのですが?」
「俺が幸せになった分だけ尽くそう。それに俺が吸い込めば、とあるデメリットを消せるよ?」
「なんですか?」
「アストロの匂いを放っておけば、通りすがりのくんかーに匂いを吸引されるかもしれない! それは許せないことだよ!?」
「くんかーとはくんかくんかしている人ということでしょうか?」
アストロにとっては、くんかーは効きなれない言葉なのだろう。
「そうそう。俺がくんかくんかしなくとも、他の誰かがくんかくんかしてしまうかも知れない。それは消臭しながら歩くとかしないかぎり防げないよ?」
「……君がくんかくんかしなくとも、誰かがするかも知れないというですか?」
「そうそう。だから俺が吸ったほうがいいのでは!?」
「いや、そもそもそんな人物めったといないのでは?」
「いてもいなくても、俺が吸った方がメリットになると思うな! てか撫でられてるときの方が、歩いてるときよりも、くんかくんかできるからね?」
「そう言われればそうですね。う~む。撫ではしたいので……仕方ありません。許可しましょう」
アストロは少し考えてから許可を出す。
「っしゃあああああ! さて、俺がアストロ公認くんかーになったことだし、気合い入れて偵察しますか」
「元気に散歩を再開していますが、公認くんかーという単語に非常に不安を覚えますね」
「わっふわっふ」
ハロウはご機嫌にうきうきしながら歩く。
「……まあ、あまり思い切り、におわないように」
「わっふ」
アストロとハロウは目的の住宅の前に到着する。
「いよいよですよ。どうですか? 中にありそうですか?」
「くんくん」
アストロに尋ねられてハロウは本気で呪具を探す。においを視覚的に捉えるように意識すると、辺りに黒いもやが漂っているのが理解できる。
――これが呪素ってやつだな。嫌な感じがする。
「……わっふわっふ」
ハロウはアストロの足を手でたたく。事前に決めていた呪素を発見した合図だ。
ハロウはさらに呪素を探るため目的の住宅の前まで行く。
「「…………」」
ハロウは住宅の前を通り過ぎながら確認すると、住宅の一部に強い呪素が集まっているのが見えた。そのまま二人は予定通り住宅を通り過ぎる。しばらく歩いて人気のないところでアストロが話し始める。
「どうやら呪具はありそうですね」
「確かに臭いはしたけど、今あそこに呪具があるかは確信はないな。臭いが強く残ってるだけかも知れないし」
「……君はどう思いますか?」
「確信はないといったけど、あると思うな。しかも結構な確率で」
「なぜそう思ったんですか?」
「まず、臭いの濃さから言って、あの家に呪具があったことは確定。そして問題は今もあの家にあるかなんだけど、あると思う。その理由は呪具があの家から持ち出されたとすると臭いが外に続いているはずなんだ。だけど呪素の臭いは外には続いていない。まあ、まだざっと見ただけなんで、あの家の周りを確認する必要はあるけどね」
どこか別の出入り口が存在して、そちらから秘密裏に移したのかも知れない。
「成程。……確認ですが、呪素は封印というか閉じ込めることができるのはいいですよね?」
呪素が多いと死人が呪人になっていまうので、国が呪素の量をコントロールしているとハロウは聞いていた。
「聞いてる。だけど封印できるなら家から溢れ出てるのがおかしいよね?」
「封印していましたが、呪素が溢れてきたので、呪具の移動ができる者を呼んでどこかに移した可能性は……外に呪素が続いていないのでありませんね」
「うん。俺に感知できないくらい封印できるなら、そのまま家においておけばいいから。それよりまず、確か呪素を消す聖水とかは金があれば簡単に買えるんだから、家にこんなに呪素が溢れてるのが不思議だ。呪素は多くあると体調に異変が起こるんだよね?」
「……はい。だんだんと悪夢を見たりなどしますね。もっと酷くなると、起きているのに幻覚など見たり、強い吐き気を感じたりします。最終的には体が言うことを聞かなくなります」
「呪素をこんなに溢れさすのって、呪素のこと知ってたらありえなくない?」
「……こんなにってところが微妙なんですよね。私みたいな精霊系統の種族は呪素の影響を受けやすいので、普通の人が影響受けるくらいの呪素は近づきたくないほどなので」
「……呪素があるのは敏感に感じられるけど、濃さはよくわかんないってこと?」
「はい、そうです」
アストロにとって一般人だと気分が悪くなる程度の呪素でも、立っていられないほどになる。なので少しの呪素でも危険なので、大量の呪素と超大量の呪素の違いはわからない。どっちも致命的だからだ。
「甕男のときも一瞬で苦しんでたから当然か。……それでどうする? てかそもそも普通に家に行って調べさせてくれって言うのは駄目なの?」
「気取られたくないって話しましたよね?」
「そうだけどさ、俺がいる状況で気取られても問題なくない? 人の出入りがあればわかるから持ち逃げされようがないと思うよ?」
ハロウの提案にアストロは考えだす。
「……まず、家を訪ねて、騎士の身分を見せて家の中に危険なものがあると説明する。家主が入れてくれれば問題なしですね。家主が入れてくれなければ、やましいことがあると見ていい。問題は見せてくれなかったときのことですが」
「そのときは近くで見張ればいいんじゃない? 騎士が嗅ぎまわってるって知ったらアクション起こすんじゃないの?」
「それで呪具をどこかへ移そうと思っても、君ならにおいを追えるので逃げられることはなさそうですね」
「そうそう。……てか呪素が多量にあることは間違いなんだし、問題が起こる危険があるとか言って無理やり押し通るのは駄目なの? それでも問題になるの? あの家の呪素を聖水で消せば、もし呪具がなかった場合でもお咎めなしにならないの?」
「それは……決まり的には可能ですが、面倒にはなりそうです」
「なんで?」
「呪素というのは誰でも微量ながら発しているものなんです。私のような精霊系統の種族も例外ではありません。普通の人よりは発しませんが。そして呪素というのは強い感情を覚えれば覚えるほど発生します。リネンから精霊系統は感情的だと聞いたことがあると思いますが、これが原因ですね。呪素の影響を受けやすいので。ここまではいいですか?」
「ばっちし」
「では、今の話を聞いてどういう場所に呪素がたまりやすいと思いますか?」
「……人がいっぱい集まって感情的になる場所。……そうか!!」
ハロウの脳に稲妻のごとく閃くものがあった。
「思い至ったようですね」
「闘技場か!!」
「思い至ってなかったようですね」
「あれ? 違った? 結構自信あったんだけど」
「闘技場もそうかも知れませんけど、もっと合法で日常的なとこです」
「……わかった! カジノ!」
この国ではカジノは合法だ。
「確かに合法ですけど、日常感が足りませんね。……私が言ってほしかった例ではありませんが、それでもいいです」
「なにがよかったの?」
「大企業ですね。人がいますし、恨みなどたくさんあるので」
「ほうほう。……で、大企業が呪素が溜まりやすいってことは理解したけど、それがどうしたの?」
「大企業もそうですが、要するに権力者の近くほど呪素は発生しやすくなります。なので呪素が溜まっているからと言って突入できるようになれば、権力者にとって面白くないことになります。自分達がいつ突入されるか、わかりませんからね」
「成程。……でも呪素って一般的な知識じゃないんでしょう? 貴族とかなら知ってるみたいだけど、普通の大企業が知ってるの?」
「大企業の幹部全員が知っているわけではありません。場合によってはほとんど知らない可能性もあります。しかし、大企業になるには貴族などの権力者との付き合いが必要不可欠です。なので幹部にほぼ必ず貴族がいるものなんです」
「その呪素を知ってる貴族が企業に働きかけるから、企業からも妨害が入るのか」
「はい」
「成程。呪素が多く見受けられたから突入すると面倒なことになるのはわかった。じゃあ、正面から入れてもらえるか聞きにいく? それとも俺だけで行こうか?」
「なぜ君だけ? ……野良犬のふりして侵入するということですか?」
「いやいや。アストロがさっき家の近くを通っただけで凄く嫌そうだったからさ。俺だけで行ったほうがいいんじゃないかと」
ハロウは伊達にくんかくんかしているわけではない。呪素の近くに行ったアストロの不愉快な思いをしっかりと感じ取っていた。
「確かに呪素は気持ち悪いですが、それでは無責任ではありませんか」
「どこが?」
「自分が始めたことを他人任せにして放り投げるのはどうかと思います」
長い間、職務を一人で行ってきたので、アストロは部下を使うのが下手だ。できる限り自分でしようとしてしまう。
「でも自分の体調が悪いときに無理しないことも自己管理という責任のうちだと思うよ?」
「その自己管理は体調の管理をすることでは?」
「そりゃ、遊びまわったりして風邪ひいたとか言うんならそうだけどさ。アストロの場合はアレルギーに近いじゃん。体質的なものなんだから」
「……そうですが、正面から行くのなら騎士としての身分を提示しますから、聖水を纏っても問題ありません。なのでこれより体調が悪化することはありませんから大丈夫です」
「……嘘は言ってないみたいだね。でもわざわざ今すぐ行くことないよね? 一回家に帰ってから来よう」
「……できることを放置するのは気持ち悪いのですが」
「できることを放置するより、する必要があることを放置するほうが問題でしょう?」
「? なにをする必要が?」
「体調を万全にすることだよ」
「問題ないと思いますが?」
「駄目だ。仕方ない状況ならともかく体調を万全にできるならするべきだ」
今までになく真剣な表情でハロウが言う。強い魔獣が跋扈する森で狩りをしてきたハロウにとって、不調で戦いに赴くのは許容できなかった。
「……わかりました。家で休むことにします。装備もハロウに持ってきてもらっている予備のものしかありませんしね。あと考えてみれば今早朝でしたね」
アストロは折れて家に帰ることを了承する。
「そうしよ!」
ハロウはいつもの暢気で間抜けな表情に戻る。
「では帰りましょうか。……ハウス」
「わん」
二人は準備を整えるため、いったん帰ることにした。
○
――心配されたんですよね?
家に帰る途中、横に並んで歩く柴犬形態のハロウを見ながら、アストロは思う。
ハロウは少し心配げにちらちらとアストロの方を見ながら歩いている。犬の場合、少し顔を動かしただけでマズルも動いてしまうので、よくわかる。
――そう言えば、心配などされたのは久しぶりですね。
久しぶりの心配されるという事態に、アストロは気恥ずかしさを覚える。
アストロは水魔という強い種族なので、昔からあまり心配されなかった。家族は昔は心配してくれていたが、大人になってからはあまり心配されなかった。原因はアストロがしっかりしていたことと、兄が酷い状況になったことだ。
――兄の件でハロウにも大変な思いをさせてしまっていますかね?
短命種とは付き合うことはしない。そうアストロが決意したのは兄が原因だ。
アストロの兄は短命種である人と結ばれた。もちろん寿命の違うことはお互いわかっていた。そのまま寿命の違いで死別すれば、アストロの兄も心に大きな傷は負わなかったであろう。
しかしそうはならなかった。兄嫁は兄を裏切った。結婚当時はよかったかも知れないが、次第に自分のみ老いていくことが嫌になったのか、浮気をしたのだ。その結果、もめて、出ていくことになった。そこから兄は落ち込み引きこもってしまった。
その事件は、兄と兄嫁の当初の仲睦まじい様子を見ていたアストロに衝撃を与えた。そのせいで短命種とは付き合わないと決心したのだ。
――でもハロウがあの女のように裏切るのでしょうか?
今までのハロウを見ていて、とても老いのせいで自分を裏切るような男であるとは、アストロには思えなかった。
――やはり踏ん切りがつきませんね。
アストロとしてはハロウのことは嫌いではない。犬の様になれるのは大変に高評価だ。性格も大きな問題は感じない。においフェチなところが若干の引っ掛かりになるが、冷静に考えれば、においを嗅がれたとて害はない。
しかし付き合いたいと思うほどではない。
――もう少し待ってもらいましょう。
兄の例があるので、アストロはもっとハロウを見極めることにした。