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金持ちのピクニックを舐めていた。
メアリーには今、そんな感想しか出てこなかった。
「メアリー様、スコーンにつけるジャムはラズベリーとママレード、クロテッドクリームの三種類がございますので」
「は、はい」
「紅茶の種類はいかがいたしますか? 本日は香り高いセルヴァンの紅茶、ストレートがお勧めのダージリン、さもなくばシルベッサを使ったフルーツティーもございます」
「えーと、セルヴァンで……」
「かしこまりました。ミルクはお使いになりますか?」
「い、いいいえ、要らないです」
澄んだ水質で水底までがよく見える湖の一角、木陰にて召使いに給仕をされているメアリーは非常に居心地の悪い気持ちを味わっていた。
そもそも、来る前から嫌な予感はしていたのだ。約束通りに迎えにきたアシュレイであったが、いつもと違って馬車は三台、そしてドヤドヤと馬車から降りてきたのはアシュレイではなく召使いの女性たちだった。
「さあさあ、アシュレイ様がお待ちです。早くお支度を済ませなければ」
「お部屋はどちらで?」
「二階だよ」
「ちょ!?」
「さあさあメアリー様、お早く!」
またもやメアリーの意見はガン無視されたまま、雪崩を打って階段へと押しやられ自室へと連れ込まれた。
そこからは怒涛の展開である。
「あらまあメアリー様ったら随分と細くていらっしゃるのね。ドレスの腰回りが余ってしまうわ。仕方がないからリボンで締め上げましょう」
「お肌のお手入れはきちんとなさっていて? お色味が白いから派手なメイクより優しげに仕上げましょう」
「ヘアスタイルはいかがしましょうか。本日はお外でのデートなので、アップの方がよろしいわね」
メアリーの自室は今やちょっとした貴族の令嬢の化粧室のようになっていた。三人の召使いによって運び込まれた姿見に化粧品、ドレス、靴、宝飾品の数々。
有無を言わさず着ていた服をひん剥かれてドレスを着せられ、なけなしの化粧を落とされて化粧水を塗りこまれ、二つにくくった髪は解かれ香油を練りこまれている。
三人の連携は見事であった。無駄のない動き、迷いのない動作。
(ピクニックって言ったじゃないのよ! どうしてこんな準備が必要なのよ!)
とはとてもではないが言い出せず、何が何だかわからないメアリーはもう抵抗することを諦めておとなしく準備が終わるのを待つことにした。
「よし、これで準備はバッチリですわ!」
「なかなかいい出来映えになりましたわよ」
「最後にご自分でも確認なさってください」
自分では小指の一本も動かしていないうちに、支度が完成してしまった。
なすがままのメアリーは姿見の前に立って自分の姿を確認する。
そこに映っていたのは、襟元のレースが繊細な淡いうぐいす色のすっきりとした形のドレスを身につけ、亜麻色の髪を複雑な形に編み込み、顔立ちに合った上品な化粧を施したメアリーだった。
素晴らしい手際によって召使い三人はメアリーのことを「下町のパン屋の娘」から「外出する貴族令嬢」へと見事に変えた。
「あの、これって……」
「素敵でしょう?」
勢い込んでそう尋ねる召使いに、メアリーは思わず首を縦に振っていた。
「さあ、では!」
「馬車に!」
「お乗りください!」
「あわわっ」
秒速で片付けた召使い三人に今度は階段を降りるよう促され、さあさあさあと押されながら店からつんのめるように飛び出した。
ドレスの裾を踏まないようにつまみ上げながら歩いていると、
「ああ、これは素敵な変身だ」
優雅に手を伸ばしたアシュレイ・ベルナール伯爵にエスコートされ馬車へと引き上げられる。異常に豪華な馬車は車内も無駄に凝っていて、向かい合って座ってもまだ余裕があった。
「いつもの姿も可愛いけれど、これはこれでとても似合っている」
「ありがとうございます……っていうかピクニックとお伺いしていたんですけど、この服装は一体何でしょうか」
「うん? メアリー嬢のドレス姿を僕が見たかっただけだよ、気にしないでくれ」
「お代は必ず払います」
「僕が受け取ると思うかい?」
馬車の窓に肘をつき、足を組んだアシュレイは実に優美な笑顔を浮かべながら問いかけてくる。答えは当然、否だろう。
「女性に支払わせたと合っては僕の名折れだ。くだらない男のプライドだと思って素直に受け取ってくれないか。もちろんそのドレスはプレゼントするよ」
代わりに、と言ってアシュレイは長い指をすっとメアリーに伸ばしてその顎を捉えた。
「……これからも毎朝クロワッサンとコーヒーを用意してくれないかな」
はい、と言おうとして気がついた。
「それってもしかしてプロポーズですか」
「ん? ああ、そうとも受け取れるな。どうだろう」
「……プロポーズならお断りですけど、店に来てくださるのなら百年毎日でもご馳走いたします!」
「ははは、メアリー嬢は手強いな」
こうしてガタゴトと揺れる馬車に身を任せながらピクニックと称して連れてこられたこの場所で、今度は完璧にセッティングされたテーブルを挟んでアシュレイと向かい合っていた。
(落ち着かない……!)
メアリーの知っているピクニックといえば、バスケットに食事を詰めて持っていき、シートを広げて草原で食べる類のものだ。
それでも幼い頃、両親とともに行ったピクニックでは今ではとても口にできないような豪華な料理の数々がバスケットに入っていたし、とても美味しく楽しかった記憶が残っている。
しかし今ここで行われているのはそんなものではない。
繊細な意匠が施された丸テーブルと椅子、そしてセッティングされているのは三段重ねのアフタヌーンティー。見た目にも美しいケーキ、控えめでいて断面までも綺麗に見えるよう計算され尽くしたサンドイッチ、どういうわけかまだ湯気がたっているスコーンに焼き菓子。
そして冒頭の紅茶に至るまで全てが抜かりない。
ここは老舗のカフェですか? と問いかけたくなるようなラインナップだ。
紅茶を注ぎ終えた召使いは一礼をすると木陰へと下がり姿を消した。
使用人の振る舞いまでもが完璧だ。
見えはしないがきっと護衛も多数配置されているのだろう。
「さあどうぞ、召し上がってくれ」
「はい」
促されるままに紅茶を一口。ふくよかな香りが鼻腔を抜け、それだけで緊張していた気持ちが少しほぐれた。
続いてサンドイッチから。
きゅうりとハムのサンドイッチは塩気が僅かに効いていて、とても食べやすい。
「お味はいかがかな」
「とても美味しいです」
「そう」
にこりと笑うアシュレイは非常に様になっていた。
「メアリー嬢は食べる所作が美しいね、ご両親の教えだろうか」
「え? ああ、そうだと思います。ココットさんにもよく言われるんですよ」
スコーンを割ってクロテッドクリームを塗り、口に運ぶ。
ほろり、と口の中で崩れるスコーンの実。
生地自体ほのかな甘みがあるがそこに寄り添うようなクロテッドクリームのもったりとした甘みがやってくる。
噛みしめるほどに味が広がり、口の中が幸せだった。
一口食べただけで店で売っているスコーンより遥かに上質な生地でできていることがわかる。
貴族は百パーセント小麦の生地に上質な白砂糖をふんだんに使ったお菓子を食べるが、下町ではそうもいかない。
パンはライ麦を混ぜ合わせた生地で作られているし、砂糖は粗製糖だ。
これは下町の味ではなく、昔、父と母とよく食べた懐かしい味わいだった。
「メアリー嬢は、キャンベル領に帰りたいと思ったことはないのかい」
唐突にそんなことを聞かれメアリーは食べているスコーンを喉に詰まらせそうになった。慌てて紅茶で流し込み、呼吸を整える。
「えーと」
「キャンベル領の正統な後継者は君だよ。今ここにいる君の姿は仮の姿で、本来ならば領主として采配を振らなけれならないんだ」
そう言われると、自分がまるで責任から逃れて遊んでいるかのように聞こえて胸が痛くなる。
「叔父夫婦が、立派にやっているかと思います……私の存在は、不要です」
「君の叔父夫婦について少し調べたんだけどね。随分ひどい領地経営をしているみたいだった。領民には法外な重税をふっかけ、中央府には税の申告をごまかし、差額を全て自分の懐へと納める。君のお父上が志していたクリーンな領地経営の面影はどこにもない。富は一点に集中し、上が腐敗して民が疲弊する。典型的な駄目貴族だね」
「そんな!」
考えまいとしていたことをアシュレイに事実として突きつけられメアリーはうろたえた。
「そんなこと言われても、どうせ私一人が領地に帰ったところで追い出されるのが関の山だわ。殺されるかもしれない」
「そうだね、君一人ならそうだろう」
アシュレイの口ぶりには同情の色が見て取れた。水面に反射した秋の陽光がその金髪を輝かせ、彼がやたらに見せびらかす金貨の色を思い起こさせる。もう今後、メアリーは金貨を見るたびにアシュレイを思い出さずにはいられないだろう。
「でも、僕が味方をすると言ったら?」
「……え?」
「僕が君の味方をするよ。叔父夫婦の悪事を全て暴き、君が本当にいるべき居場所を取り戻そう」
「どうしてそこまで私に良くしてくれるんですか」
アシュレイの真意が全く見出せないメアリーは身を引いた。
「言っただろう。僕は君を心の底から愛していると」
アシュレイはテーブルに置いていたメアリーの手にそっと自身の手のひらを重ねる。
「君が本当は悩んでいるのだとしたら……助けになりたい。あとは君がどうしたいかだ」
どうしたいか。
そんな聞き方はずるいと思う。
どうしたいかなんて、とっくのとうに決まっていた。
胸の奥底にしまいこんで蓋をしていた気持ちがほんの少し溢れ出し、この金持ちで非常に強引な伯爵様の前で本音がついつい零れる。
「……帰りたい、です」
涙が一筋、頬を伝った。
それは長年誰にも言えずにくすぶっていた本当の気持ちだ。
ココットさんは優しい。下町に住む人たちもいい人ばかりだ。
しかしそれはそれとして、両親と幸せに暮らしていた故郷に帰りたいという気持ちが消えるわけもなかった。
両手で顔を覆い、泣き顔を見られないようにしながらメアリーは言う。
「帰りたい……!」
「……そうか、わかった」
アシュレイはメアリーの頭を優しく撫でると、慈しむような声音で言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ、メアリー嬢。全て僕に任せてくれ。必ず君に……本当の居場所を取り戻してみせる」