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「ごめんなさい、ココットさん。私が森で倒れている伯爵様を助けたばかりに、店に毎日のように来るようになってしまって……」
「いやいや。メアリーちゃん、せっかくのお誘いなんだから受けちゃえばいいんじゃないか? あんなに美しくて大金持ちな伯爵様から求婚されたら、あたしなら二つ返事で了承しちゃうけどねぇ」
呵呵と笑いながらパンをこねるココットは実に楽しそうだった。
「そんな……国一番の資産家ですよ? そんな人に嫁いだら、絶対色々と大変なことになるじゃないですか。しかもこんな出会ったばっかりで求婚して来るような人のことは、信じられません」
「若いんだから細かいことは気にしないで勢いで結婚しちゃえばいいのに」
長年下町で一人、パン屋を営んでいるココットは豪快な性格だ。確かにココットならばこの結婚をすんなりと受け入れたのだろう。
「それに、貴族というのは信用できないんです」
「ああ……叔父夫婦のことだねぇ」
叔父夫婦は、メアリーの両親が亡くなると同時に子爵家にやって来た。まだ幼いメアリーが呆然としている間にアレヨアレヨと爵位を受け継ぎ、屋敷の従業員を整理し、領地経営に乗り出した。形の上では幼いメアリーの後継人であるということになっていたが、今思えば嘘だろう。叔父夫婦はメアリーを追い出し、キャンベル家の全てを手に入れた。
その手腕は鮮やかすぎて、まるでこうなることが最初からわかっていたかのようだった。
最近時折、思う。
両親は本当に病気だったのだろうかと。
メアリーの記憶の中の両親は元気そのもので、仲睦まじく領地経営に励んでいた。二人は領民に寄り添い、どんな些細な意見にも耳を傾け、より良い人々の生活のために尽力していた。
そんな両親が急に寝込みがちになり、代わりに叔父夫婦がでしゃばってきたのだ。
叔父夫婦はお世辞にもいい人たちとは言い難く、自分たちのためだけに金を使うことを考えていた。何度も両親に金を無心しているところをメアリーは目撃している。そしてそれが無下に断られていたことも。
彼らは「滋養に良いから」と言っていつもワインを押し付けて帰って行ったが、それを飲み始めてから両親の体調がくずれて行った気がする。
もしかしたら……という気持ちが成長するにつれて鎌首をもたげて大きくなっていくけれど、メアリー一人にはどうすることもできなかった。
今更何かを言い出したところで、返り討ちにあうのが目に見えているだろう。
領地や領民のことは気にかかるがメアリーにはこの自分の小さな命を守るだけで精一杯だった。
「まあ、そんな人ばっかじゃないと思うし、少なくともあの伯爵様はメアリーに夢中なようじゃないか」
「下町育ちの娘が物珍しいだけですよ。きっとすぐに飽きます」
もうこれ以上貴族のゴタゴタに首をつっこむのも、振り回されるのもごめんだ。
メアリーはせめて親しんだこの町で静かに暮らしたかった。
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「どうすれば彼女の心が手に入るんだろう」
アシュレイ・ベルナールは執務室の椅子に腰掛け、物憂げなため息をついた。
アシュレイにとってカネとは己の全てである。
大貴族の長男に生まれついたアシュレイは、物心つく前からカネの動かし方というものを教え込まれていた。
自身にも領地経営の才覚があり、元々腐るほどあった資産はアシュレイの手腕によってさらに膨れ上がっている。由緒ただしき家系も相まって陛下からの信も厚く、大貴族でさえベルナール家には頭が上がらない、と言われるほどだ。
アシュレイがカネをチラつかせながら頼みごとをすれば全員が平身低頭して言うことを聞いてくれるし、アシュレイは二十八歳の美貌の独身貴族だ。夜会に行けば令嬢たちの熱い視線が突き刺さり、縁談は毎日山のように舞い込んで来る。
国一の資産家で、容姿端麗、精明強幹。
彼の心を射止める幸運な令嬢は誰なのか、最近の噂の的となっていることをアシュレイは重々承知していた。
そんな状況にあってアシュレイは、国内中の主な貴族令嬢からの縁談のほとんど全てを断り続けていた。
なぜか。
それは自分と結婚したがっている全員が、アシュレイ・ベルナールという人間ではなく彼のうわべしか見ていないことを悟ったからだ。
彼女たちはアシュレイの家格や顔立ち、あるいは才能や財産といったものに惹かれているだけで、アシュレイの性格というものに全く頓着していない。
褒められるのがそうしたことばかりなので、どんな麗しい令嬢や才女と話をしてもいまいち心が躍らないのだ。
ビジネスにおいてはそれでも全く構わないが、生涯を共にする妻までもが表面しか見ていないとあってはこれから先の人生がいささか寂しくなる。
アシュレイは、自分のことをまっすぐに見てくれる人と出会いたかった。
幸いなことに自身で伴侶を選べる立場にいるアシュレイは今の今まで婚約者を決めることを先延ばしにしていた。
しかし、そんな彼にもやっと春が来た。
森で食あたりを起こして呻いていたアシュレイを助けてくれたメアリー・キャンベル嬢。
必死に看護する彼女の姿を見て心が動かされ、お礼の金貨を値切ったその謙虚な姿勢にときめき、伯爵だと聞いても目の色を変えないその態度に心を撃ち抜かれた。
誰も彼もがアシュレイに媚びを売る中、彼女はアシュレイが好意を寄せれば寄せるほどに嫌そうな顔をするのだ!
二つに結んだ亜麻色の髪も、その大きなはしばみ色の瞳も、みずみずしい唇も、全てが愛らしい。
「アシュレイ様は追われるよりも追いかけたいタイプだったようですね」
「そのようだ。なあ、レミー。いくら積めば彼女はうんと言ってくれると思う」
アシュレイは自身の右腕である敏腕執事、レミーに問いかけた。
「恐れながら、話をお伺いする限りメアリー様のお心は金貨では手に入らないかと思います」
「なぜだ。金で全て解決すると僕は今まで信じてやってきた」
「そういう人物ではないからこそ、アシュレイ様のお心が動かされたのではないですか?」
「まあそうだな」
「であれば、別方向からアプローチをかけるのがよろしいかと」
「ふむ」
アシュレイは椅子の肘掛けから腕をもたげ、整った顎を撫でる。
「そういえば彼女は、なぜ下町で暮らしているのだろうな。キャンベル家は叔父夫婦が継いでいるという噂だが」
すっと青い瞳を細めて考えた。
亡くなったキャンベル子爵夫妻。
跡を継いだ叔父夫婦。
そして下町で暮らすメアリー嬢。
「きな臭い」
「お調べしますか」
「ああ。僕から話をつけにいこう」
言うが早いがアシュレイは立ち上がる。
行き先は――行政府だ。
アシュレイ・ベルナールの行動は素早い。
即断即決が彼のモットーであり、その行動指針に基づいて今まで数々の結果を出してきた。
速攻で行政府へと赴いたアシュレイは特権を使って長官に面会を要求し、屋敷を出た約一時間後には行政府長官の執務室に座っていた。
揉み手で現れた長官は自身よりふた回りは年下のアシュレイを懇切丁寧にもてなした。
「これはこれはベルナール伯爵殿。突然のご来訪、いかが致しました?」
「実はキャンベル子爵の亡くなった原因を調べていただきたく」
「キャンベル子爵ですか?」
「ああ」
アシュレイは至極真面目な顔で頷く。
「どういった経緯で亡くなったのかもう一度詳細に調べていただきたいんです」
「はあ」
ベルナール伯爵領とキャンベル子爵領は全くなんの繋がりもない。なぜアシュレイがこんなことを言い出すのかがわからない長官は小首をかしげたがアシュレイはニンマリと笑顔を浮かべ、こう付け足した。
「調べていただけるのであれば……手付け金としてこれほど」
アシュレイは指を立てる。おお、と長官の顔がほころんだ。
「納得のいく内容であれば、さらにこれほど」
さらに追加された指の数を見た長官は頭を下げる。
「精鋭を繰り出し、必ずベルナール伯爵殿にご納得いただけるような調査を行います」
「助かる」
満足したアシュレイは立ち上がり、その場を後にした。