1話『ウィルと 』
遠いどこかの街のお話。
男には、それはそれは愛していた妻がおりました。5つの頃に隣に越してきた妻は、はじめの頃は誰とも喋ることがありませんでしたが、次第に心を開き、そして男と結婚しました。
妻は早くに両親を亡くし、程なくして親を失った男もまた、妻だけを頼りに生きていました。
男は鉱山の崩落から人を救ったり、馬車の下敷きになった人を助けたりと、街の英雄です。
男はまた、敬虔な信者でもありました。教会に足繁く通い、毎週祈りを捧げていました。
男が結婚して幾年か経った頃、とある鉱山で栄えた街に疫病が流行りました。知人や街の権力者が次々と病にかかり、死んで行きました。王国の軍は街の門を閉め切り、独特な仮面を被った医者が、死んで行った者たちの亡骸を運んでゆきます。
辛い日々でしたが、男は妻さえいれば他には何もいらないと思っていました。
そんな仲の良い夫婦ですが、ある日とても小さなことで喧嘩をしてしまいました。
限られた食べ物を、どちらが多く食べるかで喧嘩になりました。男は妻に、妻は男に食べさせようと。
結局、妻が食べました。
不幸なことに、その食べ物には疫病が付いており、妻はあっけなく疫病に罹り、そして亡くなってしまいました。
男は自分を責めました。あの時に自分が食べていれば、と。
男は冷静な思考力を失っていました。
男が食べていても、一家の大黒柱を失った妻は1人で暮らしていくことになってしまう。その街には鉱山しかないからです。
しかし男は冷静な判断ができず、自分が死ねば良かったと毎日ひたすら嘆き悲しんでいました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「おっちゃん、おっちゃん、おーい、ウィル!」
「……なんだ」
家の前で酒瓶を片手に男が座り込んでいる。疫病がどうにか収まってきた、いや、多くの住人が死んでしまって静かな鉱山の街で、生きる理由を失った男ウィルだ。
妻を亡くしたその男に、街でバイオリンを弾いて小銭を稼いでいる少年のビオが話しかける。
「おっちゃん、どうして昼間っから酒を飲んでるんだい? 前はあんなに朝早くから鉱山に篭ってたってのに!」
「ほっといてくれ。妻……ジェナが死んで、もうどうでもいいんだ」
「おっちゃん……そりゃあ大変だけどよぉ、うちは父さんと弟と妹が死んじまったんだぜ。もうちょいしっかりしてくれよ! おっちゃんは街の英雄だろ?」
そうか。ビオは父親と弟妹を失ったのか。苦労するだろうな。
「大変だな」
「おっちゃんもだよ! 働かない人間はダメだって!」
「ああ、おっちゃんおっちゃん言うなよ。俺はまだ26だぞ」
「もうおっちゃんだよ! ほら鉱山に行った行った、って、鉱山は危険だからそうも言えないか。とにかくウィルのおっちゃん、立ち直れとは言わないけどよ、頑張ってくれよ!」
「ああ、そう、だな」
ビオはバイオリンケースを背に駆けてゆく。
返事をしたものの、何もする気が起きない。瓶を煽って喉を潤す。
「はぁ……いっそ旅にでも出ようか……どっかで野垂れ死んだほうがいい」
男が気がつくと、辺りは真っ暗になっていた。どうやら眠ってしまっていたようだ。ぼんやりと光る街の街灯を見上げる。
「ゆ、き?」
ひらり、ひらりと雪が舞い降りてくる。滅多に雪など降らない街だ。
「珍しいこともあるもんだな」
フラフラする足を無理やり動かして家に入る。流石に冬場は冷え込む。あのままじゃ凍死してしまうだろう。
「はぁ。ジェナ、俺はどうしたらいいんだろうなあ。何にもやる気が起きねえんだ。ジェナ、俺にはジェナが必要、なん、だ……」
手から滑り落ちた酒瓶が、床を打った音は聞こえなかった。
「ん、なんだ」
目がチカチカする。いや、これは?
文字通りチカチカと光る小さな虫が机に止まっていた。
「あ?」
虫は紅い炎を上げて燃える。すると不思議なことに、その炎から声が聞こえてきた。
「ウィルよ、ウィルよ、お前は善い男だな」
「そんなこたぁねえよ」
酒の勢いで、不思議とも思わず返事をするウィル。声は喋り続けます。
「ウィルよ、ウィルよ、お前は鉱山で人を助けた」
「目の前で死にかけてたからだよ」
「ウィルよ、ウィルよ、お前は馬車の下敷きになった人を助けた」
「目の前で死にかけてたからだよ……」
炎は嬉しそうに橙色に光った。
「それが出来ない人間の何と多いことか。ウィルよ、ウィルよ、お前は善い人間だ」
「そうかい」
炎が蝋燭に灯る。
「そこでだウィルよ。私がお前にいいことを教えてやろう。そうだな、お前の望む願いを叶える術を教えよう」
「ふんっ、そんなことが出来るものか。俺はジェナにもういちど会って話したいんだ。出来るわけがないだろ」
「そんなことか。簡単だ。神に出来ないことはない。だが、そうだな、簡単では勿体がない。お前に試練を与えよう」
ウィルは不思議に思った。神に出来ないことはない、だと?
ウィルは何度も何度も教会で祈った。妻を助けてください、疫病を止めてくださいと。
神は答えてくださらなかった。
「神は……信用できん」
「そう言わずに。試練を越えれば妻ともういちど話すことが出来るだろう。【開かぬ西の扉】の話は知っているな? そこを目指すがいい。お前は善い男だ。必ず【開かぬ西の扉】を通ることが出来る。これを最後の機会だと思って信じてみよ」
蝋燭に灯った炎が収束し、虫になった。黄金虫だろうか、黄金虫は窓の隙間から外に飛んでいってしまった。
「窓が開いてたのか……道理で寒いわけだ」
幻覚でも見ていたのだ。あんなことがあるわけがない。しかし、それでも。
「開かぬ西の扉か。久しぶりに聞いたな」
【開かぬ西の扉】は、30年前にどこかの道楽者の貴族が建てた巨大な塀に囲まれた空間への入り口だ。その先に何があるか、入った者は何を得るのか、何もわからない。ただそこに入った者は皆、多くを語らずに去ってゆく。ただ"さがしもの"は見つかったとだけ。
入るのにも運が必要だ。1人しか入ることは許されない。そして不定期に開くのだ。1ヶ月の時もあれば、3年越しの時もある。
「開かぬ西の扉、行ってみてもいいかも知れないな」
何があるわけではない。この街にいたところでジェナは帰ってこない。それならば行ってみるのもいいのかも知れない。
ジェナは良き妻だった。そして良き友だった。いつも自分のことを分かってくれるのはジェナだけだった。お袋が死んだ時だって、誰よりも最初に悲しんでくれた。
ジェナがいなければ生きている意味がない。働く意味だったジェナは、毎日祈る意味だったジェナは、もういない。
「もし本当にジェナに会えるなら……何を捨てたっていい。ジェナは俺の希望だ」
ジェナに会いたい。会って謝りたい。俺があの時無理にでも食べさせていなければ。そのためならば西の扉を目指すのも厭わない。その先に何があったとしても、本当に会えるのなら。
もうひとつ、ウィルは妻との会話を思い出していた。
ウィルはなんだか気恥ずかしくて、妻にしっかりと「大好きだ」「愛している」と伝えられずにいた。いつも「感謝している」「ありがとう」とは伝えていても、「愛しているよ」と言ったことがなかった。
ジェナはいつも笑いながら
「私のこと好き?」
そう尋ねていたが、ウィルは気恥ずかしさに、
「言わなくても分かるだろ」
そう返していたのだ。
ジェナはそれでも楽しそうに笑っていた。
「謝れるなら、伝えられるなら、開かぬ西の扉にだって……いや、馬鹿な話か」
男は考えるのをやめてベッドに入った。
明日になって、自分が開かぬ西の扉を目指すとも知らずに。
冬童話2021企画用に書きました。オリジナル童話は初めて書くので、試行錯誤しながら頑張ってみました。
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