INTERMISSION35 少女が見た流星(前編)
タガハラ・ユイが生まれた場所は、記憶にも記録にも残っていない。
両親不明であり、親戚筋も一切たどることができず、文字通りの天涯孤独である。
物心ついた時には孤児院で暮らしていた。ある寒い日に孤児院の門に箱が置かれており、その中に入っていたのがユイだという。
名前は箱の中に残された紙切れに書かれていた。髪や目の色、そして名前から推測するに極東地方の血筋が入ってるんじゃないか、とある職員は推測した。愚かにもその推測は他の児童たちに伝えられていった。
だから『彼女は自分たちとは違うのだ』と誰もが知って、彼女を仲間として認識することはなくなった。ユイは人並みに寂しがり屋だったが、それ以上に我慢のできる性格だったから、一人でも耐えられた。
気弱な彼女はよくいじめの対象となっていたが、たくさん殴られ、モノを投げつけられるたびに、泣きながら痛みをこらえていた。
決して相手を糾弾することはしなかった。怖かったからではない。孤児院の職員には、暴力的な体罰を行う悪しき習性があった。
職員は正義のラベルを胸に張っていた。悪戯好きや、ルールを守らない児童相手には、正当な罰が必要だと本気で信じていた。冷水をかけ、服をはぎ取り、頬を赤く腫れるまでぶった。日常茶飯事だった。そんな罰はブレーキになりはしなかった。当然のことだ。
ユイは、自分をいじめている子供たちが、そんなひどい目に遭うのは許せなかった。
だから何も言わなかった。
ある日、見たことのない大人が数人訪れた。
ユイがここに預けられたのは間違いだと言っているのを聞いた。職員は難色を示していた。孤児の頭数が揃っているから一定の支援金を受け取れる。ここで手放すのは惜しい。
しかし後からやって来た孤児院の院長は、訪れた大人たちと奥の部屋に行くと、ものの数十分でユイの引き取りにサインをしていた。職員は首をかしげたが、《《いつものことか》》と考えないことにした。いつも通りなら、ストーブが新調されたりする。仕方のないことだった。当時の支援金は微かなものだった。院長がそういった行為に手を染めているのに苦しんでいることも分かっていた。
とはいえ幼いユイにその事情が分かるはずもない。
彼女は単純にこの環境から解放されるのだと喜んだ。その日のうちに少ない荷物をまとめて、ユイは誕生日にもらった唯一の宝物である熊のぬいぐるみを年下の優しい子に譲って、優しい笑みを浮かべる大人たちと共に馬車へ乗り込んだ。
その日からユイは、地獄の窯に放り込まれることとなった。
「どうしたのですか兄上」
「ん、ああいや……ちょっとな……」
国王アーサーの威光を象徴する、王都中央部にそびえる王城。
ハインツァラトゥス王国のそれが高層ビルの如き摩天楼であるのに対し、こちらの王城は主塔の周囲に各部署を配置したスタンダードな、そして機能的な巨城である。
その中でも第三王子グレンが統括する審問部の書類保管室。
埃っぽいそこで、礼服を脱いで簡素なシャツ姿となった、第二王子ルドガーが書類を漁っていた。
「その書類はその……いえ。終わった話ではないのは承知しています。ですが今、確認する必要が?」
「必要はない。だが捨て置くには難しい違和感があった」
ルドガーが確認している書類。
それはかつて王国で跋扈していた、違法人身売買組織に関する調査書だった。
実に二十年近く前のことである。
隣国との戦争を終え、第一王子アーサーは戴冠し晴れて国王となった。
就任直後から、彼は魔法使い・騎士双方に対する精鋭教育方針を徹底する強兵政策を実施。それによって王国は周辺国家に対して全く引けを取らない強国へとのし上がった。
だが光があれば闇もある。終戦直後の混乱に乗じて、王都以外の市街地ですら、闇市の形式を以て、戦災孤児や捨て子の違法売買が多く行われていた。
それに終止符を打ったのが、アーサーの息子である三人の王子たちだ。
当時彼らはまだ弱冠十代後半程度。
しかしその働きは目覚ましかった。父親の作った国家は偉大だ。しかし内部にはまだ多くの課題を抱えていた。それらを解決すべく奔走した。
第一王子マルヴェリスは、社会福祉制度を整え、そもそも孤児や捨て子の母数を削減するべく、補償金や再就職支援制度──遠い遠い平行世界では生活保護と呼ばれる──システムを構築し。
第二王子ルドガーは、騎士団を指揮して、時には都市部一つを丸ごと封鎖する大胆な戦略を以て違法組織の摘発に乗り出し。
第三王子グレンは、自分たちなど駒の一つに過ぎないと言って国家をせせら笑う犯罪者たちに苛烈な罰を与え、抑止力となった。
そうして、アーサーによる強兵政策によっておざなりにされていた内政の治安面は大幅に改善された。
しかし王子たちの改革以前、売買されていた多くの子供たちは未だ闇の中にいる。
考えてしまう時はある。闇の中から這い上がって、幸せに暮らしてくれてはいないかと。或いは確かに売られはしたが、その後の摘発によって無事保護されてはいないかと。
「やはり、か……」
壁に背を預け腕を組んでいたグレンは、ルドガーの重苦しい声に眉根を寄せた。
「どうされたというのですか」
「グレン。この書類をお前はどうする」
兄が突き出した書類。
それに目を通して、グレンはうめきそうになった。
摘発は膨大な数に上った。たとえ今更、当時私は人身売買の被害者でしたと言われても、全ての書類に当たらねば経緯を絞ることはできない。そしてそのたびに確認するには件数が多すぎた。
だからこうして一つ一つの名前は埃の中に沈んでいく。
「これはッ……!?」
「辺境ミーストリアで摘発した、人身売買に関与していた孤児院の記録だ。我々の摘発がギリギリ間に合わず、一人、どこにあるかもわからない架空の商会に引き取られた少女がいた」
書類を持つグレンの手が震えていた。
ルドガーも同じ気持ちだった。大きな見落としだった。
「当時私が孤児院に騎士と共に踏み込んだ時……子供が、言っていたんだ。ぬいぐるみをくれた年上の子が、ちょうど一昨日にいなくなったと。間に合わなかった。売られた先の書類はすべてダミーで足取りも追えなかった。覚えていた。ずっと覚えていた。だから……なんとか気づくことができた」
書類に記された名前。
極東の血筋を引くと推定。外見の特徴、黒髪。おとなしい性格。気弱。
──幼いユイのことだった。
「お前はどう考える」
「公表すべきではないでしょう。ですが……彼女にまだ、その違法組織の息がかかっていることはあり得ます」
メガネのレンズ越しに、ルドガーは弟の両眼が静かな激情を宿しているのを見た。
「やはりそうだ。兄上。まだこの問題は終わってなんかいなかった。彼女に話を聞いて確認するべきだ……いいや違う。教会がどこまで把握しているのかを知らなくてはならない。彼女をどこから引っ張って来たのか。それによっては大問題になる」
「落ち着け。タガハラ自身は被害者だ。それに教会が事情を把握しているのなら、むしろ静観すべきかもしれん。また諍いを起こし、国内に分裂を生むつもりか。ピースラウンドが立て直しつつあるバランスをまた崩すことになるんだぞ」
二人のスタンスは違う。
理想を追うグレンと現実を見つめるルドガー。
王子同士で意見が食い違うことをむしろアーサーは歓迎していた。多様性がもたらすミックスアップの効果を、あの傑物は身をもって把握していたからだ。
「こちらからアクションを起こすべきではない……と、思う。正しい選択肢かは分からん。だが少なくとも裏を洗うところから始めるべきだ」
「遅きに失する可能性があります。兄上、私がやります」
「グレン……!」
埃まみれの書庫で、王子たちが正面から火花を散らしていた。
その時。
「ルーくんもグーちゃんも難しいこと考えるっすね。疲れないんすか」
二人の王子は弾かれたように振り向き、慌てて背筋を伸ばした。
眠そうに眼をこすり、猫背姿でだらしなくローブの先を地面に引きずる男がいた。
深い紫色がほとんど目を隠そうとしている。ともすれば不気味な姿。全身がやる気のなさを表現している。
だがこの国で彼を昼行灯と呼ぶ者はいない。彼の手腕は誰もが知っている。
国内の内政に関して最も影響を与え、国民の生活根幹において携わっていない部門はないと謳われる賢王子。
「兄上。おはようございます」
「おはよっすルーくん。今日は朝日がヤバいすね」
「兄上。おはようございます。もう昼過ぎです」
「おはよっす、グーちゃん。あれまあ遅かったか……参ったな……まあ書類仕事は夜にやればいいすかね」
第一王子、マルヴェリスの姿がそこにあった。
ユイが連れていかれたのは、端的に言えば異常なカルト教団の本拠地だった。
無刀流という古武術を習得したリーダーの下、魔法使いとして生まれられなかった人々をかき集め兵士として育成していた。
年頃の少女がするようなことは何もしなかった。やっている暇がなかった。
その訓練においては、男女は関係なかった。ただ四肢を万全に動かせるかどうか、それだけが殺人マシーンとしての証明であり、人間の証明にはならなかった。
タチが悪いのは、幹部格は全員、これを国のためだと思ってやっていたことだった。
人格破壊などの洗脳は行わず、強姦・乱交といった倫理観の上書きもなかった。そうした行為は間違っていると認識されていた。自分たちの根幹が致命的に誤っていることには気づかないのに、彼ら彼女らは大まじめに自分たちを、公の政府には成しえない、最強の兵士を非道徳的に育成する正義の機関だと思っていた。
訓練は凄絶なものだった。
まずは人体構造を把握する座学があった。どこを壊せば動けなくなるのか。どこを断てば殺せるのか。それらを学んだ。
そして次は、型稽古から始まり、藁や木で作られた人形への打撃訓練。大人たちを相手取った回避・立ち回りの訓練。
少しでも動きがずれたなら、鉄拳や木刀が身体を打ち据えた。痛みを以て誤りを正した。もちろん回避訓練は、ミスをすれば、子供相手に大人の攻撃が容赦なく叩き込まれた。
身体が痛まない日はなかった、子供同士の組手はほとんど殺し合いだった。訓練の果てにいなくなる子供もいた。もたなかったのだ。組手で床に倒れ、そのまま動かなくなった子供もいた。それは敗者の姿として当然だと大人は言った。動かなくしてしまった子供は、素直に頷いた。拳に残った感触を忘れ去って、次の訓練に移るのが当然だった。動かなくなったやつが悪い。
少し減ったところで、どこからともなく数は補填された。段々と知っている顔は減った。そもそも誰かの顔を覚える必要性はなかったのだと気づいた。
『いつか君たちの力が必要とされる時が来る。その時まで、牙を磨き続けるんだ』
連れてきた子供たちに、それが正しいのだと言い続け、殺人マシーンとしての訓練を施し続けた。
いつか来る、真の大陸統一戦争において存分に力を振るってほしいと言っていた。
クソ食らえだと反発する子供はいなかった。
だってそれが正しいと思っていたから。
(本当に?)
違和感はずっとあった。
ユイはそうした意識の統一に対して、無自覚できちんと自分自身を防護していた。反応が薄いから大人たちは気づかなかった。彼女はずっと周囲に対して薄い膜を張っていた。
そうした立ち振る舞いは幸か不幸か、彼女のたたずまいを洗練されたものであるかのように見せかけた。何かが違うと誰もが思っていた。
事実、何もかもが違った。
『君には才能がある』
『君は完全な殺戮者になれる』
『魔法使いや騎士に勝り、神をも殺す刃になれる』
組手では負けなかった。
大人相手に、一か月もすれば逆に無傷で圧倒できるようになった。
孤児院からユイを引き取ったのは無作為なものではない。教団のスカウト部門は視察を繰り返し、感覚や骨格レベルで戦闘技術に向いた子供を見抜いて引き取っていた。
ユイはスカウト部門が目玉として選んだ逸材だった。百年、いや千年に一度の戦闘の天才だと太鼓判を押されていた。まったく嘘偽りはなかった。
カルト集団の中で、気づけばユイは中枢のご神体のように担ぎ上げられていた。
だがやることは変わらない。戦闘技術を吸い上げる。座学で人体の脆弱性を学ぶ。
繰り返しのある日。
ふと朝目を覚ますと、ユイははっきりと、自分の何かが変わったのを感じた。
昨晩は夜遅くまで訓練場で組手をしていた。床に寝ころび、息を整えているとき、夜空を流星が駆けたのを確かに見た。
────遠く離れた場所で、いつか流星に至る少女と、彼女の背中を追う少年が見ていた、その煌めき。
ユイにその日、聖女としての権能が発現していた。
すぐさま聖職者の一団がやって来た。
莫大な神秘を、神聖な加護を感じたと、山の麓にある小さな教会から聞いたのだ。
教会がユイを認識したのはその瞬間だった。
『なんということだ……』
カバンを取り落とし。
教会から派遣された、学会において聖典の解釈で激論を交わし、また教会式戦闘術にも長けた、当時新進気鋭の若手──今は小太りの姿になりながらも、聖女直轄の隠密退魔部の副部長を務めるエリートである──は絶句した。
ユイは間違いなく聖女だった。
入れ替わりのサイクルがあることは秘密裏に聞いていた。そして次代の聖女となるべき少女が、カルト教団の下で殺人技術を教え込まれていた。
彼の判断は早かった。増援を呼んだ。
教会の退魔部は当然、対人戦においても圧倒的な力を誇る。その一部隊が半壊するほどの被害を出しながらも、カルト教団の本拠地は焼き尽くされた。指導役の大人たちは一人残らず殺した。リーダーの死体も確認した。幹部たちの命令に従って攻撃を仕掛けてきた子供たちは保護するべきだったが、彼らの指導は的確だった。子供に殺される神父が大勢いた。仕方なく、反撃で子供を殺してしまい、退魔部を引退した神父も大勢いた。
教会の地下にてその報告書は処分された。あってはならないことだ。
事実は闇に葬られた。
結果として、ユイ含む数人の子供だけが生き残った。
そしてユイ以外は保護された教会の施設で、翌朝自害していた。ユイには作用していなかった、教団の教えの賜物だ。戦って勝てなかったときは、術技の流出などを防ぐため、自害せよ。
寒くないように渡した毛布の上で自分の首を引き裂いて死んだ子供を見て、ユイを発見した神父は、この世界に神の威光がまだ届いていないことをはっきり自覚した。
『君には、幸せになる権利がある』
次期聖女として、極秘に、教会の隠密退魔部の管理下でユイは教育を受けた。
人を殺すのは、良くないことだ。
人の命は、儚くとも尊いものだ。
────そんなわけがない。吹けば飛ぶ安いものじゃないか。
何度、説かれても。
何度、自分の命の存在を祝われても。
ユイは、自分が生きているなんて、分からなかった。
世界に色はなかった。ただ無色の世界で流れるがままに浮いていた。床に飛び散った血を赤いと認識できなかった。息遣いを鋭敏に感じ取る耳。動きの起こりを見逃さない優れた目。危機を察知する嗅覚。それだけあればよかった。色彩なんて不要だった。
保護されてからしばらく、戸籍を改めて作るとなった際、極東にかつて存在した旧文明の言葉から、タガハラという名前を付けられた。
既に失われた文字だが、田ケ原──人々の生活を支える田と、穏やかに広がる原を組み合わせた名前。
自分を保護してくれた神父たちがそう説明しても、まったく心には響かなかった。ユイは自分の名前が嫌いだった。
唯一の存在だからユイだ、とメモ書きには残されていたらしい。何が唯一だ。たまたま生き残っただけ。死んでいった子供たちと何も変わりはしない存在だ。
だから、ユイは自分の名前が嫌いだった。大嫌いだった。その名を名乗るだけで耐えがたい苦痛があった。
ただのユイであればどれだけ良かったかと思っていた。
『そんな事情がなくともアナタは唯一の存在です。胸を張りなさい』
全部、丸ごと救われたような気がした。
呪われた唯一性ではなく、ただ自分の友達として唯一の存在なのだと。
彼女は迷いなく断言した。
あの時、ユイ・タガハラは初めて『生きていてよかった』と思った。
入学式の日。
倒れ伏した生徒たちの姿はいつか見た殺戮の現場のようだった。
けれど何もかもが違った。誰もが打ちのめされながらも、輝きに魅せられていた。
超えてやる、と気炎を絶やさない生徒も大勢いた。どうしてそんな在り様ができるのだろうと、ユイはぼうっと眺めているだけだった。
けれど。
舞台の中心を見て、全てが吹き飛んだ。
『真の令嬢とはただ一人! それはほかでもない──このわたくし、マリアンヌ・ピースラウンドですわッ!!』
ただ一人の存在であることを、こんなにも声高に宣言することができるのか。
彼女の瞳に色を見た。
世界の全部を変えてやるという情熱。
色があった。
熾烈な赤。苛烈な紅。燃え滾る赫。
天を差す指は白く綺麗だった。色がある。彼女には色がある。彼女だけじゃない誰しもが色を持っている。そこら中に気づかないだけで色があった空には星があって瞳の中には炎があって指先には閃光が宿っている。
色が、ある。
恐る恐る自分の手を見た。肌色だった。
全身が震えた。
きっと『生きる』というのは、ああいうことなのだ、と思った。
与えられるがまま、選ばれるがまま、導かれるがままだった自分。
誰かに与え、自分からつかみ取り、両足で歩き続ける彼女。
死んでいたわけではない。死んだように生きてもいない。
ただ、まだ生まれていなかった。
ああなりたい、と自然に思った。
彼女の生きる世界を、自分も生きたいと思った。
持っていなかったものを認識できた。ほしい。それが、ほしい。
あの赤い瞳に映る世界を、わたしも見たい。
自分にないもの全部持っている彼女が眩しかった。
明確に自覚している。あの瞬間にユイは、その輝きに目を灼かれたのだ。
お読みくださりありがとうございます。
よろしければブックマーク等お願いします。
また、もし面白かったら下にスクロールしたところにある☆☆☆☆☆を★★★★★にして評価を入れてくださるとうれしいです。




