断章-1 Reason for Sacrifice
マリアンヌたちが逃走に成功した少し後。
突発戦闘の舞台となった観光街からは少し離れ、海洋を一望できる切り立った崖にカサンドラたちは移動していた。
「カサンドラ様。第一から第三部隊まで展開完了です」
「……ありがとう」
合流した部下たち、憲兵部隊『ラオコーン』の隊長が声をかける。
「作戦は最終フェイズですか」
「ええ、そうよ。もうすぐ私たちの望みも叶うわ」
作戦──即ち、脚本家を名乗る少年が書き上げたシナリオ──としては、別にこのタイミングでマリアンヌと決着が付けられていなくとも良い。むしろ想定外だったのは、彼女の精神がほとんど再起不可能レベルまで落ち込みかけていたこと。そしてよりにもよってルシファーの因子が活性化し、大悪魔が顕現したことだ。
(彼の……脚本家のシナリオを完遂するために必要なパーツ自体は揃っている。あとはイレギュラーを排除すること。大きな障害は2つ、1つは既に排除した。もう1つは……)
思考を巡らせながら、カサンドラは息を吐く。
肌に纏わりつく湿気がどうにも不快だった。夜には雨雲に空が覆われているだろう。
潮の匂いがする風に髪がなびく。先刻までの、ここから先の段取りを考える思考が、少し遠のいた。
(……殺した。障害だったから。彼が今生きていたらまずいから、この手で殺した……大切な友達のお父さんを……)
王都襲撃という大事件を隠れ蓑にして。
本当の狙いは、マクラーレン・ピースラウンドただ一人。
首を刎ねた光景がまだ瞼の裏側に焼き付いている。ぐっと奥歯を噛んで、震えそうになる身体を律する。今更何を──だが、想起はカサンドラの意思を離れて勝手に立ち上がる。
彼女が思い出すのは、実の父を手にかけた日のことだった。
ゼール皇国に激震が走ったのは、クーデターが失敗したからではなかった。
皇帝による独裁が始まって、民は痩せ衰えた。他国のような共和制を望む声も多かったから、誰かが現状をひっくり返そうとしてもおかしくはなかった。
だが問題は、親皇帝派の筆頭と目されていた、皇族の主流派閥を形成していたアルカディウス家の当主がクーデターの首謀者であったことだ。
「アルカディウス家当主は慎重でしたが、彼の取り巻きがいけなかった。事前に情報がリークされていたから、皇帝は彼らを憲兵によって取り押さえることができましたが……実行に移されたら廃位は免れなかったでしょう。それほどに彼の計画は緻密で、隙がありませんでした」
隣国へ亡命した関係者は沈痛な面持ちで語った。
勇み足になった青年将校たちさえいなければ、ゼールという国はその形を改めることに成功していただろうと。
カサンドラも同意見だった。
夜な夜な家を抜けてどこかに行く父親は、表情に緊張こそ走らせていたが、余裕を持っていた。
上手くいくと、口癖のように言った。それはカサンドラに対してもだった。これから先、お前の未来は明るいものにすると。私がそう成し遂げるんだと言っていた。
何の疑いも持つことなく、カサンドラもそうなるのだろうと思っていた。
だがそうはならなかった。
「カサンドラ・ゼム・アルカディウスよ。皇帝陛下は、アルカディウス家系の断絶を望んでおられる」
クーデターが失敗してから一月ほど。
一人きりで家に軟禁状態だったカサンドラを呼び出し、皇国裁判所の長官は無感情に告げた。
「……どういうこと、でしょうか」
当時のカサンドラは、齢十と少し。
まだ人形を抱きかかえなければ眠れなかった。
「死ね、ということだ」
「…………」
現実味のない言葉。
ぶわっと冷や汗が噴き出る。視界が滲んだ。本能的なものだろうか、裁判所で自分を囲んでいる大人たちの中に、自分の仲間がいないことを察知していた。
「だが助かる方法がある。私たちの指示に従ってくれたなら、君の母上も、親族たちも命は助かる。これは皇帝陛下からのご温情だ」
「……なにをすればよいのですか」
涙をこぼさないよう必死に自分を律しながら、カサンドラは毅然とした態度で問うた。
長官は手元の紙に視線を落とした。その時初めて、感情が揺れ動いたように見えた。真一文字に唇を結び、何か、言葉を発することをひどく躊躇っていた。
「クーデターの首謀者。アルカディウス家当主を、君が処刑しろ」
処刑用の部屋は、外部から遮断された鳥籠のようだった。
単純な斬首や絞首刑ではなく、皇帝は当主にできる限りの苦痛を与える形での死を望んだ。信頼を裏切られたという激昂には側近たちすら近づけないほどの恐ろしさがあった。
カサンドラへの指示は単純だった。部屋を密閉した上で、壁面四方向から得意とする水属性魔法で水を注ぎ続けること。一夜の間当主は溺れまいともがき苦しみ、そして日が昇るころには水死体となっていれば良い。
「できますか」
「できます」
硬い声色で問うてきた役人に、カサンドラもまた硬い声で返した。
一連の処刑を進めるのは全て、アルカディウス家の関係者だった。皇帝の復讐だった。二度と立ち上がれないように心を折るための、周到で悪辣な仕掛け。
だがカサンドラは幼いながらも、魔法に関して、既に大人顔負けに熟達していた。
部屋に仕掛けを施した。誰かが、誰かが彼を連れて逃げ出すことを試みた際、水が割れて道を作るように細工を施したのだ。
仕掛けが効力を持ったのを確認してから、カサンドラは部屋へ連れてこられた父親を見送った。
彼は痩せこけて、ひどい拷問の痕すらあった。見たこともないほどに哀れな姿だった。
「……カサンドラ」
だが瞳に光は残っていた。
視線を重ねた。カサンドラは咄嗟に、彼の腕を掴んで走り出したくなった。その衝動に従えば全てが終わりなのだと理解していた。
そしてカサンドラは、その衝動を抑えられてしまうほどに、早熟だった。
「さようなら、お父様」
別れの言葉だった。
誰かが逃がしてくれると信じての言葉だった。
それを聞いたときの父親の表情を、カサンドラは忘れない。凍り付いた彼の顔。その瞳に映し込まれた、今にも泣きそうな、自分のみっともない顔も、きっと一生ついて回る。その光景は彼女にとっての呪いだった。
父親が部屋の中に入り、係の者は外に出た。
それからカサンドラは魔法を起動させた。水が部屋に注水される音が始まる。
──何をやっているのだ!
カサンドラは壁に背を預け、肩で息を吐いた。世界が揺れて、思わずその場に座り込んだ。
周囲から同情するような視線が突き刺さるが、彼女を支えようとする者はいない。必要最低限の会話しか許されてはいなかった。
自分で逃せばいい。
何もかもかなぐり捨てて共に逃げたらいいのだ。
本当に父を愛しているのなら、命に代えてでも助けたいと思うはずではないか。
そんな声がカサンドラの頭の中に響き、必死に聞こえないふりをした。
大丈夫。
誰かが助けてくれる。
自分で助けに行くことは、できない。多くの物事を背負いすぎた。自分が逃走に加担すれば今度こそ、皇帝は大陸の果てまで自分たちの一族を追うだろう。
仕方ないのだと言い聞かせた。
だから。
翌日、処刑部屋から回収された水死体の本人確認を終えたとき。
カサンドラはとても後悔した。
後悔した。とても、とても後悔した。自分の為すべきことを誤ったのだと突き付けられた。
しばらくは口に何を含んでも吐いた。泣き叫び、部屋にあるものをすべて破壊した。
喉を枯らして三日三晩泣き続けた。
栄養失調で意識を失うまで彼女の慟哭は続いた。
そして。
帝国の病院で目を覚ましたとき。
彼女は『禍浪』に選ばれ、禁呪保有者となっていた。
記憶の海から、回帰する。
閉じていた瞳を開く。
「……私は……逃げることを選べなかった……」
「カサンドラ?」
見れば脚本家の少年が、心配するようにこちらの顔を見上げていた。
名を呼ばれ、悪逆令嬢は寂しげに微笑んで首を振る。
「お前、今泣いて……」
「いえ──なんでもないわ」
頬を伝っていた水滴がすうと浮き上がり、空中に拡散して、溶けるようにして消えた。
その光景を眺めて、少年は数秒黙り込む。
「それで、いよいよなのね」
「……あ、ああ。ついにファフニールは完全な顕現を果たす。お前の役割は、分かっているな?」
少年の言葉に頷き。
迷いを振り切るように、カサンドラはその双眸に暗い焔を宿した。
「『流星』の禁呪保有者を……マリアンヌを、全身全霊を以て討ち果たすわ」
日が落ちていく。
夜の闇に空が染められていく。
その光景を眺めていると、また声が聞こえた気がした。あの日自分の内側から、必死に何かを叫んでいた声。
だけどもうカサンドラは、聞こえなかったふりにも、慣れてしまっていた。
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